【第1章】3節 二人の祖父と私 ~私の看護における感性の芽生え~

私は、二人の祖父(お爺ちゃん)っ子。父親の顔を知らずに育ったけれど、幼い頃から小学・中学・高校までを父方母方のお爺ちゃん二人には、とても可愛がっていただいた。
この二人のお爺ちゃんとの思い出を振り返えっていたら、これは、私の看護における感性が芽生えていく過程の一つとして見過ごしてはいけない二人との暮らしじゃないのか? ハッと気づかされたままに、私の思い出の一頁として書き記すことにしました。

 

第一話 父方のお爺ちゃん。

彼は、お寺の和尚さん!禅宗の僧侶として住職をしておりました。面長で華奢な顔つきをしていて、若い時はきっとモテたにちがいない色香漂う寡黙なお人柄でした(写真で見る限り私の父は、お爺ちゃん似なのです)。

他人様の嫌事、悪口は耳にしたことなく、毎日の定番の仕草は、観音堂でのお経を唱えた後、特に秋から冬の間には、静かに火鉢の傍に座り、灰の中にくべられていたひとかけらの残り炭火を手繰り出し、それを囲うように炭を重ね置き、しばし火の熾るのを整えてから、一合のお酒を入れた鉄瓶をかけて、ゆっくり、しゅんしゅんと湧かし始めるのです。私は、何時からともなくそのそばに座って、鉄瓶を眺めたり、お爺ちゃんの仕草を見やったり、無言の空間で目を合わせたり…と、少々おませな座姿ではあったか?とは思うが、お爺ちゃんと私の二人きりのその時間は、苦痛でもなんでもなく、無言と静かな語らいの安らぎが流れていたことは、確かな記憶として残っている。
やっぱり、少々おませさんだったかもしれないが、良く笑う子でもありましたよ。

村郷の山の中腹に建てられているお寺は、その構えからして由緒あるお寺の佇まいで、広い敷地には、大きな蓮池があり、蓮の花が咲き蓮の実が生れば、Y字型にした竹先で実を刈れば、お婆ちゃんがそれをこしらえて食卓に載せてくれていました。コリコリと美味しく、また粉にしては蓮餅にもしてくれて、美味しいとか不味いとかではなく、へえ~?!ってな珍しい食べ物感覚で頂いたかしらね。蓮池はもう既に跡形もなく埋められて50年は経っており、蓮の実の匂いとか蓮料理の味はもう忘れてしまっている。

また、本堂の裏側にある前栽には、枝の張った柿の木が5~6本あり、何時も秋には美味しい実を付けていました。お婆ちゃんが申すには、「この柿はそこら辺にある柿とは違う珍しい柿で、とても美味しいんやから…」と。代替わりをして間もなく、その珍しい柿は伐採され、一面ツツジの花咲く庭になりましたが、柿名も思い出すことのできなくなった今は、ちょっとした悔しみが残っているかな。

お寺の外回りには、竹藪に囲まれた池があり、これは流石に不気味な池と心得ていて、近寄り難かったものです。そこから続く小高い丘を登っていくと墓群があり、その頃は土葬されていたので人魂と言われる空中を浮遊する火の玉にしばしば出くわしたものです。恐怖感で全身が固まり、怖さのあまりその度にお爺ちゃんにしがみついていたけれど、泣くことはしませんでした。この火の玉について、今思えば、まことに納得する科学現象であったわけです。火の玉の正体とは、遺体からリンという科学物質が出て、それが雨水と反応して光るというのであるというわけです。
「くわばら!あれ~!くわばら」と、念仏を唱えながら、お爺ちゃんにしがみついていたのかどうか…不明だが、怖いながらも泣くこともせず…の私に、禅宗僧侶の作務衣を着たお爺ちゃんが申すには、「何も怖いことではないからのう。お人が死んで、少し彷徨って成仏して往くんやからのう」???やんわりと支えられて、その静かな暖かさに安堵していたのだろと思っている。

子ども時代には、人の死の苦しみは解らなかったけれども、死人との対面の恐怖は、ず~っと付きまとっていてトラウマ的な思いにも覆われていてたが、そうこうしながら、村人の死を弔うお爺ちゃんの姿を、遠目に静かに追いながら、そのあり様を心に留め置いてきたように思われます。死に行く人々、亡くなられた人々と共に暮らし、村の住人同士の親しみの中で、静かに丁寧に弔うお爺ちゃんには、凛とした眺め様があり近寄り難くあったように思われます。一つのイベントを終えて、お寺に帰り来れば、お疲れさん!お帰り!いつもと同じように声を届け迎えていたお婆ちゃんもいた光景が思い出されてきます。

母と私の住まいは、お寺のお爺ちゃんの住まう場所から、山を下り(登りて)バス停までは40分、バスに乗車してわが住まいの駅まで30分の道程ですが、小学校入学以降は、私一人で、月一回~二回は往復したものです。しかし私はバスに弱く、バスに酔う様は、顔面蒼白、嘔吐で全身グタッとなる。バスの到着地点までを、懸命にながらえながら、いざ!バスから降りると、山道を歩くうちに気分快復して笑顔でお寺に到着。

「お爺ちゃん、お婆ちゃん、範子で~す」とご挨拶すれば、「おうおう、よく来たよく来た!一人で偉いわ!」と迎えてくれる。「ご飯食べたか?」は定番に聞くことばだが、私はいつも「お弁当持ってるから大丈夫」と云う。母は、必ず私に弁当を持たせて送り出してくれたけれど、これは当時の母の気遣いであり、父の居なくなった両親に迷惑をかけれないと何時も持たせてくれたお弁当でした。草むらでお弁当を開いて一人で食べる私には、寂しいとか哀しいとか感じたことはなく、村の土・草の匂いの中で気持ちよく食したものですし、田舎では、蛇やカエルやバッタ、ナメクジやイモリ・ヤモリなどとの出会いがある。血の気の引くような出会いに驚き逃げ帰るなどもあったが、無事に過ごし得たことに感謝の思いは深く残っています。

お婆ちゃんは小学5年時に、お爺ちゃんは中学生の終わりの時に他界しましたが、お爺ちゃんとは、息を引き取る間際まで、私が付き添って静かにお別れをすることができました。誰もがお爺ちゃんとの時間をこのように共有できたわけではなく、月2回ごとに尋ねていた私とお爺ちゃんの終わり方であるわけです。

一人住まいのお爺ちゃん家の往復の楽しみは、「またねえ~!また来るよ~!元気でね~!」何度も振り返りながら、大きな声で連呼しながら、山を下りて帰っていくというこの繋がりが、かけがえのない鮮明な思い出となって生き続けているのです。

おセンチになったかもしれませんが、私は人の死の向かい合い方、受け入れ方をお爺ちゃんとの思い出の中に養われていたように思います。

 


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【第1章】2節 戦後間もない敗戦から復興期のワンシーン

70数年前の子どもの頃(3歳くらい?まで)は、終戦後の疲弊感が漂っていた。
と言っても、終戦間際の何日か前、町に焼夷弾が落とされ、家を焼かれ怪我をするなどの傷害を受けた方々がいらっしゃったものの、小さな地方の城下町全体は悲惨極まりない状況とはならず、大きなダメージとなることはなかった。そしてようやく落ち着きを取り戻し始めていたが、どの家々も貧乏状態は皆同じであり、子だくさん家族が多かった。

だから本当に泣き声笑い声怒鳴り声ひしめき声が入り混じり、あけすけに家の周りのあちこちから、朝な夕なに、子どもの大きな声が聞こえてくる。
子ども達がたくさん居るというのは、そういう不規則で不定期で不協な和音が響きあうってことであり、要するに、父母に叱られ怒鳴られ叩かれたりの直ぐあとに「ワァ~ッ」と泣き叫ぶ声が聞こえ、また兄弟姉妹入り乱れての喧嘩が始まると、ドタン!バタン!ビシャン!倒しあい、ぶつかり合い、平手打ち、等々どんでん返しの物騒な音が聞こえてくる。密室の出来事、暗い出来事というのではなく、案外壮絶であってあけすけな風景だったのだ。

海(湾)を前にした漁師町は、活気あるあけすけの街であった。だから子どもたちの声が響くと、家の中では母と私が、「○○ちゃんがまた叱られてる。」とか「なんであんなに兄弟げんかばかりするんだろうか」とか、「何もあんな大きな声出して、暴れたり障子を壊したりせんでもいいのに。」とか。母は母なりに「××ちゃん、腹立つことあったんやろうね。」「いつも今の時間になると怒られてるね。お腹空いててお母さんに無理言うてるみたいやね。」「兄弟多いからおやつ無いからなぁ…後でこのおまんじゅう持って行ってあげようかね。」「あんたも、お母さんのいう事聞かずにしつっこい事したら怒られるよ。」「あんたはすぐ泣く子やから、泣きすぎるようなことしてたら、泣く涙無いようになってしまうで。」「いう事聞けないなら、目咬んで死にな。」何の意味かわからないような、会話にもならない母子の会話をしては、母子間のややこしい感情に緊張感を走らせながら、周囲の音に聞き耳を立てていたものである。
私は一人っ子だったから、物資の少ないご時世を呑気に生きていたように思う。母は、質素な身近にある食材を工夫してこしらえてくれたので、おかげで喧嘩もせず食いはぐれもなく生活できた有難さは心中にしっかとしみ入っている。

しかも有難いことに、私の父方の祖父母が寺住職でしたから、仏様のご供養物のお下がりの分配を届けていただけたり、母方の祖父はハワイ帰りの人でしたので、ハワイのパイナップル缶やその他の缶詰食材に与かるなど、案外満たされた幸せな一時期を過ごせてたのです。

でも、世の中は貧乏でしたから、母は生計を立てるべくありとあらゆる仕事に立ち向かっていました。また、1~2年に一度はやってくる胆石の激痛に見舞われ、その頃の痛みどめ薬は、モルヒネという注射薬に救いを求め、病の癒える3~4か月の療養を存(ながら)えて、働きに出て、また私を育ててくれましたから、そのご苦労の大変さたるや、今も忘れ得ぬ亡き母の思い出の核となっています。

私の看護師になる願望は、くり返される母の闘病が原体験となっていると思う。母のノタウツ痛みに対して何もしてあげれないわが身に心を痛め、そこから派生する将来への思いとして「私は大きくなったら看護師(婦)さんになるんだ」と、思いが積み重ねられたのだと思います。

1944年6月某日、終戦の約1年3か月前にこの世に生まれ出た戦争を知らない子(私)。
けれど胎教という点から眺めると、母の胎内で戦争の悲惨を感知していたはず。唯一戦争の直後の片鱗に触れた思い出が、淡い記憶として残っているワンシーンがある。
生まれてきて3年ほど経ったある日、まだ進駐軍への恐れが解けないわが町に、進駐軍がジープに乗ってやってきた。なぜか私は、9歳上の従姉の手を離れ、最前列によちよち歩き出て眺めていたようだ。一人の軍人さんがジープから下りてきて私を抱き上げてくれたのだが、遠巻きに海岸沿いに集まって眺めていた地元の人達が、びっくりするやら大騒ぎ。
「ノンちゃんが進駐軍の兵隊さんにさらわれた!」「早くお母さんに連絡して~!」と叫び、母を呼びに行ったらしいが、私は、キョトンとして兵隊さんの膝の上に乗せてもらっていて、チョコレートやチュウインガムやクッキーを頂いて、うれしそうにしていたのだという。呼ばれて走ってきた母が、泣き崩れるように「どうしたらええの?」と叫んでいたらしいが、まもなく私は兵隊さんに連れられて、みんなのところに戻ってきた次第。この逸話は、母の生前、よく語られ、今も尚、従姉が語ってくれます。泣きもせず、にこりともせず、兵隊さんに「ニコニコ バ~」などとあやされながら、抱っこされていたという。
私の心臓は、そんなに強心ではない。
ほんとにその時どんな顔してどんな気持ちで、抱かれてたんだろうと思うが、私の記憶には、「兵隊さんに抱っこされて車に乗った」この感触だけが残っており、まんざら嘘ではない事実なのではある。と思ってはいるけれど、怖がりの私は、ホントにすんなりと抱っこされて車に乗ったのだろうか?と疑問にも思っている。

戦時中、あるいは敗戦後の日本については、当時、4歳以上の方々なら、後々の人々に具体的に語られもしようが、私はほとんど戦後派と呼ばれる層に入るのだと思います。
また、和歌山県は主要都市、大都市でもなく、私の住む町は半島南部で、戦争惨禍の傷は深く有るにはあるが、私が何か深く確信的に語れるものは何もないのです。
多くの書物を読むにつけ、戦争を知るということになるわけです。戦争に関連する書物は日本だけでなく、世界の書物を読んで知るべしの大きな遺産だと思います。

皆さんが、社会的な活躍を通して、色々な理不尽さや心痛む出来事、現象に出くわしながら、自分の人生を見つめて、希望に向って生きていく糧になりえましょう。

また、次の物語を楽しみにしてくださいね。


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緊急事態宣言からの模索

4月8日、日本の政府は緊急事態宣言を発令しました。

即世論調査の結果は、大半は「発令は遅かった」の評価を下しているが、7都府県外自治体からの不評を買ったり、国と自治体との意見集約が困難であったりと、その対応は複雑な模索に窮しているようです。

しかし、緊急事態の発令の功あってか、東京の街中の人波は見事に消えているから凄い!

わが町、大阪は、TVなどの映像で見る限り、何とも大きな影響になっていないのか、多少人の行き交いは減少している程度のように見えます。

ともあれ、7都府県(東京・千葉・神奈川・埼玉・大阪・兵庫・福岡)の各知事の外出自粛要請は本格化し、具体的にはなってきているようですね。大阪と兵庫知事は共に記者会見をして「関西一体となってコロナを抑えたい」と。祈るような願いを発信されていました。

一つの指針は示され、この惨禍にスピード感を持って対応して、私たちの命を守らねばとの方向は大きく動くことになったと思われます。

遅きの対応ではあり、対象外となった愛知県と京都府は、4月9日、無念感を表明し、対象枠に入れるようにとの要請を行ったわけで、この感染者数の急激な増加、数字的には収束の兆しは見えない状況への対策の模索に、何ともやり場なし。

今この時、真に私達は、何をすべきか?どう命を守るべきか?

やはり、繰り返すことになるが、3密(密閉、密集、密接)の感染リスクを厳重に回避すべきことでしょう。3密が重なる場所には絶対に行かないよう、手洗いうがいの咳エチケット(マスク着用)を実践するようにを徹底し、自らが周囲の人々を巻き込まないように注意して過ごすしかないだろう。

これを、今しばらくを乗り切っていこうと、声大きくして呼びかけたい。

 

参考までに、真言宗豊山派壽徳寺(じゅんとくじ)のお坊さんでいらっしゃる松村妙仁氏が、仏教(真言宗)にある3密について語っていらっしゃるので、これを合わせ読まれておくと、心穏やかに過ごせるのではないかと思われます。

○身密=身(からだ、行動)

○口密=口(くち、ことば、発言)

○意密=意(こころ、考え)

身体の状態や、行動、言葉を正しく整えれば、自ずと心も整えられる。
3つのバランスを大事に重ねることで、心穏やかに過ごせる。
という教えだそうです。正に、しかり!と思いませんか?


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【第1章】1節 枇杷の実が熟れる初夏の頃

枇杷(びわ)の実の熟れる頃を…! 想い出してごらん?!
それは何故って?私は何時も、丁度今頃こんなことを想い出すわ…。
懐かしい香りがする枇杷の実を。サラッと甘酸っぱい香りと面長丸型の柑橘色の実。モジャッた産毛が卵大の実を覆っていて、それが掌の肌に優しく触れる。
そして、枇杷の実が熟れて香る時節は初夏のころ。ノンちゃんの誕生月でもある6月(双子座)って頃になりますね。想い出しますあの頃の懐かしさを…。

こんな思いを巡らしていたら、私は何故看護師の道を選び、よくもここまでを生きてきたもんだ!と。そして最近、ワークステーションで働く社員仲間(私よりも随分お若いお世話になっている仲間)から、私の看護師物語を一度、聴かせて、教えて、との提案があり、せっかくならば、この機会を活用させていただき、書いてみるのもいいかな?しばらくの期間、私の人生・看護師を通しての歩みなど、色々な思いを綴るのも良いことと思われ、書き始めることにしました。当分の間、そのような思いで、ブログを展開してみます。何が語られるのか、何を伝えてみようと思うのか、私なりに吟味しながらブログを書いていこうと思います。
皆様には、興味津々の思いでお読みいただければ、うれしいなと思います。


『私と枇杷の実』

私の幼少の頃、枇杷の木々は、家々の軒先や庭先の畑の畝(うね)沿い、原っぱになった丘や、山の木々の合間に生育していた。目立たないと言えば興味を示す対象ではなかったと冷たく言い放してしまいそうですが、何の変哲もなく立っている深緑色の大きなゴツゴツした葉の木ではあり、確実に目に入ってくる木。しかし可愛さや親しみを感じさせる身近な木ではなかった印象が残っている。そのようなわけで、日ごろは見過ごしているが、小さな白い花が咲き花の甘い香が漂う頃から柑橘色に実が生ってくる生育過程は、やはり子供たちの間では、小さな稔りゆく変化を愛でる心の灯が点る(少し大げさかな?ご想像いただけるだろうか?)。

余談ながら「びわの木」は成長が早いため、手入れを施さないで放置してしまうと、すぐに樹高が高くなってしまい、大きくなり過ぎたことで手入れが困難になる。
そもそもびわは種から育てた場合、8~10年、苗木から育てても植え付けから実をつけるまで数年かかることがあると言われてますが、小さい子供たちにはそんな実りの物語には興味はなかったようですね。「この枇杷はいつもおいしいけど、こっちの枇杷は酸っぱいよ。」とか、「この木の枇杷は実が生り過ぎて小さいわ、もう少し大きいのが良いやね。」とか…ランドセルを背負って、ブツブツタラタラ好き勝手な会話を交錯させながら、幼稚園・学校に通っていたのですから、ま、可愛い純な子ども集団でしたよ。

枇杷の木について、もう少し知り得た知識を申し上げるならば、枇杷の栽培において肥料の欠乏はよっぽどのことが無い限り起こりにくいらしい。だから戦後復興期の時代にあった私の幼少期の風景は、其処彼処に枇杷の木が植えられていたのかもしれない。
枇杷の木は、与える肥料によっては花が付きにくくなることがあると。肥料には主に窒素・リン酸・カリという成分が含まれていて、窒素には葉を大きくさせる効果があり、リン酸は花や実を大きくする養分、カリは根を育てる養分とそれぞれ植物に必要な養分となるそうです。けれど窒素の多い肥料ばかり与えてしまうと、枝葉ばかりが茂ってしまい、花が付きにくくなるということなので、花芽を付きやすくするためには三つの要素のバランスを取りながらリン酸が多めの肥料を与えるようです。
私の小さい頃の枇杷の木は、そのように守られて実を付けていたとは思われないけれど、先に言ったように枇杷はほかの果樹にくらべて栽培が簡単なようですから、自然にまたその時代の生きる知恵として、居住地の身近な場所にたくさん植えられていたのでしょうか?今では、枇杷の木、枇杷の葉、枇杷の実などの効用は広く大きく、例えば枇杷の葉から作ったお茶にも豊富な栄養があるということで出回ってますよね。消費期限は短いながら、そのまま食べるだけでなく、びわジャムやびわ酒など他の楽しみ方も様々に開発されているのですから大した植物なのです。

扨て本題に戻りますが、この枇杷の実と私、どんな関係があったのでしょう?
私は、物心つかない早い時期に寺の住職をしていた父を亡くし、母は女手一つで私を育ててくれました。貧しい暮らしながら、3年間も私を幼稚園に通わせ、小・中・高へも順調に通わせてくれました。その間、お正月、節分、ひな祭り、お誕生会、七夕、クリスマスなどの諸行事は、母なりの工夫をして必ず支度をして楽しませてくれました。ここで取り上げるのが、「私とお誕生日と枇杷」の関係ってわけです。

私の誕生月は6月。
枇杷の実が、店頭に並ぶか並ばないかの瀬戸際を縫って、必ずや私のお祝い膳に添えられているのです。旬の産物を添えてくれるのですから、何とも貴重で新鮮で、その香りたるや懐かしさを覚える私のお誕生日の食卓なのです。お膳にはこれまた料理好きで上手な母が、素材的には仰々しく高価なものは並びませんが、彩りよくいつもと同じではない盛り付け、食材(小魚ながら、きちんと御頭付に仕立て上げるなど、滑稽ながら何が出てくるかと楽しみでした)で満たしてくれてましたね。私は、この満たされた誕生日のお祝い膳が、毎年楽しみでしたし、枇杷の実を何が何でも取り揃えて添えてくれ(たとえ、熟れ度の満たない枇杷であれ、小さかれ、酸っぱかれ、少し膨れっ面をしながらも)、美味しいと言いながら味わいを深めていたのを想います。この習慣は、中学生までは続けてくれた母ですが、その間の母の苦労は計り知れず、今なお、私の胸に甘酸っぱく新鮮に蘇ってくるのです。

私の感性が、こうした幼少期の体験から、醸成されているのかどうか解りませんが、私は、論理的に物事に興味を持って追求するという仕草があったようには思われず、母のしてくれることに一喜一憂の感情をあからさまに出しながら、母に寄り添って生きていたなと思い出されるのです。勿論、枇杷の実は今でも大好きな果物で、旬の実として味わえる果物としては最高だと思っているのですが、中々近年は、お高い果物として売り出されているのです。手が出にくい時もありますね。

皆様は、如何な果物がお好きですか?何か果物とのエピソードをお持ちですか?大事な思い出として、大切な物語にしてみても良いでしょうね。

では、次回のブログをお待ちくださいね。


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気になる 新型コロナウイルスの感染拡大 

新型コロナウイルス感染拡大の猛威たるや、想像を絶する拡散力。「封じ込め作戦」では、拡大をもう止められないという。厚生労働省の対応は、世界的にも国内的にも不評を買ってしまっている状況にあり、事実、感染症現場で懸命に働く医療関係者や厚労省職員の感染も増加している現状は、止めようもない現実ということなのだろうか。
どのように現状理解をして良いか解らないけれど、新型コロナ感染に罹る人々は増え、死亡する件数もまた増えていることは確かというしかない。

人ごみの中に外出するのを控え、複数の人たちでイベント計画していたのをキャンセルする事態も起きているが、当分の間は、こうした自粛は必要と思われる。

 

WHOは、2月11日、新型コロナウイルス感染症の正式名称を
COVID―19(coronavirusdisease2019)」
とすると発表。こうした名称には、病態を表す普遍的な単語を含んでいる必要がある一方、地名や人・動物にちなんだ名は使えないルールが定められているらしい。

そこで驚きの情報は、この事態が感染初期の2019年12月の段階で、警告されていて、警告を発信したのは、人工知能(AI)を利用したシステムだと。

WHOがインフルエンザに似た症状が発生していると公表したのは、1月9日であるが、これより早い1月6日に情報を流していたのが、米国の疾病管理予防センター(CDC)で、さらにそれより早い12月31日に、今回の集団感染を知らせていたのが、カナダの健康モニタリングプラットフォーム(Blue)であると。

今更、何とも言えない残念感が残るだけ。しかし、今からでも遅くない!

甘く見ないで!感染防止対策をとって身を守ろう、命を守ろう、なんだよね?

マスクは?どこに行ってみても、店頭から消えている。
アルコール消毒液は?これも売り切れている。
手洗い洗浄液は?これは、かろうじて有りの店舗もあるが、店頭にないこともあり。

困った状況だが、外出から家に帰れば、必ずや丁寧に、うがい、手洗い、手指アルコール消毒・保湿、顔洗い、その他、ドアノブ・テーブル・その他手指のかかる家具・ものは、アルコール消毒液で拭きとって清潔にしておくぐらいはしておきましょう。

 

今後のニュースなど、注意を持って見届けながら、その時々の注意喚起、警告に従いながら、ご自身の身の安全をはかっていきましょうよね。

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自覚のない空気の怖さ って…ありますよねえ!?

昨年の5月「令和」になって、初めてのお正月を迎え、色々と空気の一新がそこかしこにあっているようにも思え、希望的に受けとめうる清々しさを覚えました。

が、しかし中国での新型肺炎のニュースが飛び込んできました。当初の構えは三段の構えさながら呑気に間抜けて眺めていましたが、日ごとにこのニュースは、気をつけなきゃいけないよ!のトーンに。そして一挙に中国の主要都市部に置いても蔓延し、人から人への感染である旨の注意喚起が現時点で出されています。
やはり、単なる風邪と侮らず、慎重に感染制御を意識して日常動作、体調変化に気を付けていきましょう。

私は、昨年暮れより正月3日間、息子夫婦と孫(男児)一人を我が家に向え、賑やかな笑いの中に、久しぶりで身を置くことができ、家族が集う幸せ感を味わいつつ過ごすことができました。日ごろは、単体で私一人の生活体ですから、何分にも平素よりは、立ち仕事・あれこれ忙しさのいる力仕事の動作が多く、身体中痛みを積み込んでいくような感覚の中で、孫のため、息子夫婦のためと、そのように立ち振るまっている自身の健気さに喜び、感謝を想うお正月の日々でした。
体力の減退を感じざるを得ない今日この頃故、老年の呼吸器系感染は軽視しないで、気を付けたいと思っています。

 

2020年は始まり、皆様は、年の初めの希望をどのように定め、歩み出されたことでしょうか?令和2年の話題性は、何といっても オリンピック・パラリンピック。すぐそこに迎えようとしているのですから、前哨戦の盛り上がりたるや全国規模に取り組んでおりますよね。夢・希望を膨らませた聖火ランナーの方々、各オリンピック種目別の代表選手の決定戦と選手決定等々、観戦チケットの売れ行きも、多少トラブルを引き起こしながら好調に走っているようです。TVチャンネルは、何処を回しても、オリンピックイヤー モード。いやはや恐れ入ります。私は、普通にTVを通してオリ・パラ感染(観戦)させていただこうと思います。

一方、政治的には、緩みがポロポロ、次から次へと横柄な国会議員の逸脱した特権志向にうんざりしていますが、やはり何よりも経済が強い(と言っても良いかな?)日本(世界)の経済の行方が、私たちの生活レベルを上下左右にかじ取りをしてくれていますが、何せ、私たちは今や、しっかり働かなければ…生活への影響は大きい。

今の日本で幸せな働き方はどのようにしてできるか。働き方改革という言葉が、ここ2~3年ほど前から、人生訓のような問いかけで云々されているが、具体的な対策(確かさ)は、まだそう簡単に表出されているわけではない。むしろ、じくじくと女々しい呟きが吐露されて前向きになるのが遅々とならざるを得ないのかしら?

急激に進む少子高齢化に処しきれぬ波の勢いというか掴みどころのない波の弾というか、社会的発展も自己の人生設計も、楽しみある確たる将来への構築が描けない。考えにくく、的を得にくく、生きづらい思いになって呻いてしまいそう。
政治家が「働き方改革」の方針を打ち出したとて、それがどのような方向性で整備されようとしているかと言えば、なかなか中途半端で、満足感が盛り上がってこない?ように思うが…。男性の育児参加も、どんな思想哲学(ちょっと偉そうに言ってしまいますが)、生活様式の現状に沿って打ち出されているのか…。小泉環境相の育児休暇宣言は、安っぽく感じられ萎えてしまいませんか?

働き方改革で時短になってもノルマがきつくなるだけ。自分としての利益=給与から得られる満足感-労働を維持するための資産となる有益な費用」とも考えれば、大きく惑わされることなく、自己の人生の資産力(スキル力)を熟成しえる仕事が重要と捉えることができれば、楽になるだろうか?そんな心配をやはり吐露したくなるわ。

世の中、進みゆく方向性の質に対して、私達が自覚を成し得ないままに流れに任せていけば、その空気の怖さは倍返しで反ってくるように思い、これって、不気味だなあ!

でも、あっちこっちで、小さな試み、知恵を具現化して、健気な活動をしているニュースも見聞きしますよね。メディアの方々に頑張っていただいて、大いに発信していただけることも期待できるのだわ。

私は、何が言いたいのかな?
70歳を過ぎても働こうよ。今の高齢者世代は、逞しく強いんだよね~!!老いも若きも、共に「働き方改革」に向って知恵を出して、楽しく健康的に、私たちの資産力を熟成しうる働き方を創り上げていきましょうよ。って言いたいわけよ!嘆いちゃダメ!前を向いて生きよう!

 

では、この一年、皆様のご健康とご活躍をお祈り申し上げます。

 

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令和元年(イノシシの年)のおわりに思う事

2019年5月1日、令和時代の象徴天皇が即位されました。

皇室に関心をお持ちの方、そうでない方を問わず、10月22日には、天皇陛下が即位を世界中に宣言されましたが、その後に続く一連の儀式は、TVを通して詳細に知ることができ、やはり新しい時代への何とも言えぬ感覚が湧き上がってきたのを、昨日のように思い起こされます。新鮮さ、厳粛さのオーラが、今なお感じるのは私だけでしょうか?

2019年、皆様にとっては如何なお年でしたでしょうか?

イノシシ年というわけではあるまいだろうが、イノシシの猪突暴走が例年になく多く、人身事故、農作物荒らしなどの被害が多かったのではないでしょうか?

食性は雑食性で、突進の威力は恐ろしい。しかし(だから?)神経質な動物であるとも。

嗅覚が鋭敏で知能も高いというから、なんとも愛おしく感じますね。

イノシシだけを取り上げては申し訳ない! 熊の出没もご迷惑な話ではあり、土地の方々や農家の方々にとって、物騒な捕り物帳が展開されました。

ヒグマ(北海道の55%に生息)、ツキノワグマ(本州以南の45%に生息)は、日本に生息する熊たち(世界には8種類の熊がいるそうです)。肉食動物故、発達した犬歯と鋭いカギ爪を持っているのはご存じでありましょう。出くわしたらホント!怖いねえ!!

 

いずれにせよ、今年は自然災害の被害多発の年でもあり、景気感が良くない上に、野生の動物による作物荒らし、大怪我に見舞われるという不幸事があり、災害の多岐多難な年でありました。

今年を振り返りますと、私は、イノシシのて類いではなく、猿年ゆえの猿行動。悪賢い謂れに属するか否かは気にせず、猿のごとくに木に登る敏捷性は無く、そのようなやんちゃさは、有っても良いなと思うが、私の行動には敏捷さ、賢さは期待できない。

前回のブログでは10月にウィーンに旅したお話をしましたが、実はその目的は、シュテファン大聖堂で、モーツアルトのレクイエムの演奏会に合唱団員として参加する事でした。今年の1月から10月まで月3~4回の練習に参加してラテン語歌唱力を身に付け、由緒ある大聖堂でオーケストラの演奏に乗って合唱するという自己実現達成を実践したわけです。

その演奏は、大成功を収め聴衆の方々も700人超ということで、満足度の高い経験をして帰ってきました。長旅ゆえの疲れは1週間後ぐらいから出始め、1~2ヶ月は、何とも言えぬ倦怠感・脱力感に悩まされてしまったかな?今はもう健康を取り戻しましたがね。

 

そして令和元年は、あと数日で令和2年を迎えます。
皆様もそれぞれに、今年を振り返り、来る新年を希望の年と認識して、自身の自己実現を定めて、健康で明るく元気にご精進されますよう、ご活躍をお祈りしております。
来年もよろしくお願い申し上げます。

 

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「きのこ」と「たけ」 なんのことですか?

収穫の秋。
と申すには遅いのではありますが、12月になっても冬にはなりきらない天候が続きますと(時には、そりゃあ、寒い日もありで冬到来ではありますが…)、秋は何と言っても、美味しいものがたくさん取れる時期。
ナシ、リンゴ、蜜柑、柿、その他の果実が豊かにあり、マーケットの店頭にはあふれんばかりの色とりどりの立派に熟した果実が並ぶ。果実だけではなく、魚介類も…。ではありますが、秋の味覚の代表格の一つになるのが、松茸。
高価ゆえ、なかなか私達、庶民の口には入ってきにくい逸材の食材。
何とも言えない香りの行方はどこからどこへと流れゆくのやら…。
TVの松茸リポートは、お若いタレントさんの、多少食べ方の所作が醜くあっても、簡単に賑やかに「わ~~!美味ひ~い!何とも言えな~い!いいかおり~!」と紹介されれば、高価さのレベルが下がるのでは?と案じるも、うらやましく美味しさを想像してしまうではありませんか!

この松茸については、トピックスがあって、実は、一大産地だった広島県世羅町では、天然の松茸の収穫量が減少したことから、人工栽培の研究に着手したところ(残念ながらその研究はうまくいかなかったということではあるが)、なんとその過程で別のきのこが生まれたという。
名付けて「松きのこ」というが、風味は松茸のように豊かで、無農薬、無菌栽培で生食も可能ということで注目を浴びているというニュースを見たことがある。

「松茸」ならぬ「松きのこ」を馬鹿にしちゃあいけないよ!朗報ではあり、その「茸」と「きのこ」の文字違いで、実際何が違うの?松きのこは安価なの?
なにしろ、松きのこは松茸にそっくりで、1本250円からあるというのですから。ほんに!まあっ!ほんとに?!というお宝が出来上がったのだ。

ちょっと思い出したことがあるのですが、10月半ばのころ、ウイーンに行ったのですよね。10月頃と言えばウイーンはもうグッと寒くなるようで、事実10月初めの頃の気温は、5°Cに急激に低下したらしい。
ウイーンの友人から、「こちらは寒いから厚めのコートなど防寒対策をしていらっしゃい」との連絡を受け、それなりに調整し直して10日後には現地に行ったのですよね。当時の気温のは16℃と、思ったより暖かさを感じうれしかったのを覚えています。
1週間ほどの滞在中、少しヒンヤリするウイーンの森の中を歩き、またベートーベンの散歩の小道などを歩いたのですが、その途中、可愛い幼い男の子と若いお母さんが、大きな木の根っこにしゃがむようにして、傍に置いてあるビニール袋に、刈り入れの収穫物を入れている場面に出くわしたのです。もちろん、穏やかで素敵な親子の情景でしたから、私達二人も思わず足を止めて、親子の手元に目をやりましたよ。さらに近づきながら、「ハロー」とかなんとか笑いに紛らわせて声を掛けると、お母さんが刈り入れの手を止めて、群生しているきのこを「これをごらんなさい!幸せのタネよ、楽しみのカテよ!」と言ったかどうか不詳だが、声を発して何かを伝えてくださった。幸福の女神のような、ふくよかな微笑と朗らかな声は、間違いなく私達を受け入れてくださっていると思わせてくれたので、日本語やら英語やら片言単語を駆使しながら、笑いにまみれて会話ならぬ笑話で切り抜けてみることができた。
何しろ、大きな木の根っこの下には無数の可愛いきのこが群生?していて、私達もほんとは、そんな獲物を収穫したかったわね。

きのこ類の名は、「たけ」が付くものが多く、種類の目印なんだそうだ。
例えば、シイタケ、マイタケ、マツタケ、ナメタケ等々。
「たけ」は、独立性の高い接尾語ということで、シイダケ、マツダケとはならず、「たけ」というふうに、濁らず独立性を保っているということのようですよ。
きのこは、菌類がつくる子実体(しじったい)の比較的大型のもので、朽木や木に出てくることが多く、語源は「木の子」からくるとのこと。
きのこは、しかし、食べると非常にキツイ中毒症状を引き起こすものがあるのは、皆様ご存じでありましょう。

扨て皆様、令和元年となった2019年も、残すところわずかとなりました。
どのような1年であったことでしょうか?
私は、高齢の忍び寄る体調不良の症状に悩まされながらも、なんとか笑顔の中に生気を保ち、ワークステーションの仲間に支えられながら、過ごすことができました。
元気が何より。健康への誘い、レクチャーがあちらこちらから飛び交ってくるこの頃。そうした(常に進化している健康対策、健康知識豊かな)世の中になってきており、環境的には恵まれているといって良いのでしょうね。
医療環境の進化、伸展は目覚ましく、将来に希望的になってきますが、しかし、地球温暖化による対策は、今年も合意に至らなかったCOP2002会議。憂うべき事態と認識してみて、改めて、この地球環境の行方を考えてみましょう。

2020年に向けて、私たちが個々に振り返り、新たな年を迎えましょうね。

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何を、どう考えればいいのだろうか? 地球の未来

私にとって知ることのなかったブラジル出身の写真家=セバスチャン・サルガド氏が、2019年の9月に来日されて、ICOM(国際博物館会議)京都大会での基調講演(テーマ「アマゾン熱帯雨林の保護」)をされました。その講演の中で、「生物の多様性を守るためにアマゾンは重要」で「その自然を守るためには、先住民部族のテリトリーを犯してはならず、保護を強化すること必要」と力強く訴えられました。サルガド氏の視線は人間から自然、ひいては地球そのものに広がるという。アマゾンの自然はまだ8割が残っていてそのピュアな部分をと紹介されたようだ。(9月11日毎日新聞夕刊より引用)

最近、ハワイ先住民の聖地、ハワイ島の聖なる白き山、マウナ・ケア山にも、先住民の新天文台建設反対運動が勃発している(このブログを掲載した時には、もう2ヶ月も経ていて、ニュース性は遠のいた話ということになるかもしれないが…)

ハワイ諸島のなかで、最も高い山「マウナ・ケア」。標高は4205mで富士山よりも約1000m高い。マウナ・ケアは、頂上まで車で行けるとはいえ、道が舗装されていないので一般的なレンタカーで行くのは困難ということです。高山病対策として、眠くなっても眠ってはいけない。眠ってしまうと、酸素の摂取量がより減ってしまうとか。途中、標高2800mの地点にある「オニヅカ・ビジター・センター」があるが、ここで何か食べ物を食べながら、高度に体を慣らすのだとか。

このセンター名は、日系三世の宇宙飛行士、エリソン・ショージ・オニヅカ(鬼塚承次:日系アメリカ人だから?親しみを持って彼を記憶している方は多いのではないかな)という人物に由来していて、彼はアメリカ空軍の大佐で、宇宙飛行士である。

1986年1月に、宇宙ロケット打ち上げに失敗して、搭乗していた宇宙飛行士たち全員が死亡したと言えば、記憶に残っている方も多いと思う。

話を本題に戻してみるが、ハワイ先住民は、何のためにどんな運動をしているかと言えば、先住民たちは、この聖地の山に、これ以上天文台が増え続けることを望んではいない。既に10年もの間、反対運動が続けられてきたのだ。マウナケア山の山頂部は、空気が澄んでいて天候も安定していることから、世界の天文機関が13基の天文台を設置し、観測されてきた。そして新たな天文台の建設が、2009年に決定されて2021年(2年後)の運用開始を目指して建設が始まろうとしており、これに関わる国は、米国・中国・インド・日本の5か国とか。

ハワイの先住民にとって、この山は雪の女神ポリアフをはじめ数々の神が棲む聖地とされる場所である。これ以上は増やしてもらっては困る!我々の聖地を守る!その一念で、10年にわたる反対運動のエネルギーを絶やすことなく続けてきています。

世界的なこのようなニュースを知るたびに、考えさせられることではある。そのことをどう受け止めて、どのように自己の活動(行動)エネルギーにすればよいのか?
なかなか、地球を!世界を!自然を!人類の生存を!その他…思考のイメージ化ができないねェ!?

 

ここ数年、日本は甚大な災害に見舞われており、災害に備えての対策は、年々充実度を増し、意識の徹底化が図られてはいる。けれど、その災害は、何故に起きた?どうしてこうなるの?地球のしくみがどう変わってきているのか?たかが地球の一部:日本の自然のしくみが解らない。開発による自然の変化が解っていない。困ったものだわ!憂いだね。

地球の未来を考える!人類の生存にとっては、やはり考えてみることが重要であると思っている。そして、未開の海・川・森・砂漠・山・荒野・∞の課題が大有りの一方、AIの発達、技術革新が主流になって、便利で有効な経済的側面の開発は、訳の分からない便利さに押し流されそう(既に押し流されているのだわ)。

 

呆然と立ち止まって、ある意味流されて、暮らしているのでありますが、皆さんに、何を伝えてみたかったか…?書けば書くほど、まとまってこなくなってしまいました。

 

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いまさらですが ~パンダは、何ゆえにこんなに可愛いの?……。~

表題は、「世界が共有する謎」ということですが、考えてみれば今さらいうことでもない話です。なのですが、何度見ても見飽きない可愛さは、もう参りますわよね。

そこで、その可愛らしさの理由ですが、パンダは、生涯(大人になっても)赤ちゃん体型であるということ。頭部が大きく丸顔の赤ちゃん体型だけでなく、身体全体が丸形で角がなく、柔らかくて前足が内股という3拍子揃えば、仕草を可愛らしく感じさせる体型になりますわ。
そして、顔づくりの小道具の位置は、目の周りが黒く垂れ目、目鼻が下の方にググッと集まり口元が締まっている、となれば、こんな魅力顔になるものだ!

殊に木登りしてじゃれる姿は、身体の柔らかさが好都合になっているっていうのが、よく解りますよね。木からずり落ちても、ドジなとぼけ顔を見れば、これがまた魅力になるのだからどうしようもない。

パンダは、クマの仲間。肉食のクマと違って竹を主食としているのはご存じのとおり。

パンダにとっての竹の功名巡りを言うならば、竹は、固くて噛む力が必要になる。⇒顎を動かす筋肉が、顔の周りからこめかみ頭頂部まで、発達する。⇒顔を取り囲む様に筋肉が発達することで、結果的にパンダの頭が大きくなり丸顔になる。ということです。

パンダの語源はネパール語で「竹を食べる者」=「ネガリポンヤ」⇒「ポンヤ」⇒「パンダ」 となっているらしい。

野生パンダの寿命は15~20年程度。人間でいうなら、114歳くらいという。

天敵や餌の競争を避けて、中国の山岳地帯の奥地を生息の場とした。豊かな食を確保しにくいが、そこで生きるために獲得したのが、冬でも枯れず、1年を通して豊富に得ることができる竹、笹。10時間以上に渡り、約20㎏食べて生きているのだ。

硬くて消化の悪い竹・笹を実はパンダは、竹を食べるには向いていないという事なのに…。(以上のパンダ情報は、インターネット情報を参照して要約したのですが)

 

パンダは、争いを好まない平和な動物でもあり、パンダの習性は、容姿に合致して可愛く可笑しみあり、その愛おしさが、もうしっかりと単純に定着してしまっている。
パンダは野生の動物と改めて思い直せば、野性なる粗野な部分はどうなのよと思う。野生のパンダの本能は、怒ったり、危険を感じた場合には身を守るために攻撃をする、ということもあるようです。そのように知れば、何かしら日本のパンダを見る限り、獰猛さを知らないだけにふっと哀しみが湧き上がってもくる。

パンダの生息地は、中国の山奥。絶滅の危機に瀕した頃から、中国はパンダ保護観察センターで繁殖に力を入れ、やがて野生に帰す活動に力を入れているのは、私たちの知る所だ。2016年には、生息地の保全活動により、絶滅危惧種から引き下げられていて、一応の成果を出しているけれど、ジャイアントパンダの未来は必ずしも明るくないと言われており、林野の開発による影響、その他多くの課題が残されているようです。

今年は、クマの出没で色々被害が多く出ているニュースがありましたし、野生の猿やイノシシ、シカなどによる田畑の作物被害ニュースが多くありました。野性の動物でなくとも、猫や犬の飼い主による虐待や、野良猫犬への殺傷問題が、数多くニュースに流れました。

 

人間世界でも、価値観の多様性への在り方が、多く問われています。
動物・人間を問わず、生きる者への共存意識、協働意識、等々英知をもって、地球的に宇宙的に大らかに生きる旅の目的を、しっかり持っておくことがより大切になってきているのを覚えるこの頃です。

 

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