【第2章】3節 看護学生の反抗?それとも穢(けが)れなき悪戯?

私達5回生は、2年時の後半までに2名、2年目の前半に2名、計4名の自主退学者を出し、5回生は12名という極めて少人数のクラスになりました。

看護婦への“begin”は、ようやく5回生としての、安定を得て進み始めました。想像だにつかなかった看護学生生活は、当然、初期混乱を巻き起こし「自分の道はこの分野では無かった、このような学び方を3年間続ける意味がない。」などと御託を並べ、悩みを打ち明け合う日々を過ごし、共感・共有の流れのままに、意志結集力はゆるぎない力となっていったようです。(然しまぁ…12名とは淋しいものでございました…!? )

意思疎通良し!風通し良し!正義感の迫力良し!実直で真面目!夫々の個性がはっきりしていて意志強固、誰彼区別なく級友の為なら、何としてでも、友を守るという熱血女子隊に成長。お人好しで世話好きな分、ガサガサしていたようでもあるが、女性のしなやかさ、若気の恥じらいはありました。

文学好きな学生が多く、皆が本をよく読んでいて、センチな詩や文章を諳(そら)んじたり、物思いにふける乙女チックな自己表現をする役者ぶりも発揮するなど、最初のうちは、そんな自己表現に違和感ありながら、皆が慣れてくれば楽しみあうなど5回生は、可愛く弾くような素直感のある学生として成長していきました。

看護教育とは一体どのようなものなのか?どのように学んでいけばよいのか?と考えるには、まだ看護教育全体の可視化は万全ではなく、大まかには、1年目は「看護の基礎教育を終えて戴帽式を終えると基礎実習に入る。その間に前期テスト、後期テストを経て、進級が決定する」という説明があり、促されるままに取り組んでいました。先生方は、全員が進級していくために、精いっぱいの説明と檄を放ってくれたようですが、入学したばかりの私達にすれば、皆未知の世界の他人事気分で受け止めていたように思います。

現在のように、情報が豊かに入ってくることはなく、見よう見まねの最初の一歩から、どのように踏み出せば良いのか、どのような仕組・段階を通っていけば良いのか…?今までとは異なる教育内容に対して、チェンジする手がかりも解らず、導かれるままに従っていたように思う。

ほどなく疑問符が生じまくり、興味度を高めるには、抑揚のない講義が多く面白くない。ひたすらにとりあえず暗記だけしておけば…。及第点をとるために頑張ろう!という意気込みで支え合ってたのかな?

「とにかく卒業までは、私達何も解らないままに従うしかないね。それで頑張って国家試験を絶対パスしていこうね。」

健気なまでに学生たちは、腑に落ちない机上の勉強をクリアーして、いよいよ医療現場の臨床実習へ。計画的な流れに乗って実習に出て半年ほども経てば、実習の現状に、批判的な見解(実習は学びの場ではなく労働の一部として捉える)など無知なる青臭い主観を持って、励まし合ってきました。これが5回生12名のグループ力だったと思っています。

 

私達5回生は、わずか12名の小集団ながら、結束力が強固にありましたから、教務や病院側と改善に向けての話し合いを何度も重ね、3年時の修学旅行(研修旅行とも名付けられていました)が、従来より東北地方と決まっていましたが、私達は、北海道旅を希望し、その実現に向け交渉を重ねた結果、北海道は認められず、東北旅行を実施すると。ならば、私達は修学旅行は致しません。との返答で再び交渉となり、更なる旅行の意味づけ、日数の短縮を交渉の材料にして、列車・船旅・ユースホステル泊の組み合わせによる4泊5日の北海道修学旅行を認めていただくことになりました。

それは「ごね得」ではなく「話し合いによるコンセンサス」の形成であったと思っていて、私達も単に我を押し出すのではなく、どのような説得性を持って交渉するのかという貴重な体験をさせていただいたと感謝でした。

後々の看護学校の授業に、ディベート(テーマに対して対峙する2組が観客を説得するために論理的に議論する)学習が取り入れられるようになりましたが、私は、今でも、ディベート体験学習より、コンセンサス(論理的合意)の形成学習体験が、大事であると思っています。

そんなことを論理的な思考をもっていたのではないけれど、どうしても、学生の身分にある看護学生の日常が、寮生活の中に詰め込まれているようで、自由を感じなかったのは事実でした。看護学生ではなく看護労働者としての学生ではないか?という不満感から解放されることなく過ごしていましたから、世の中から取り残されていくようで、学生としての肯定感が形成されずにいたのでは無いか?と。何かしら遮断された不自由感に成すすべもなく…。

看護学生時代に、何を学び、体験学習を重ねていくのか、創造する力をどのようにして養っていけばいいのか…と、ノンちゃんはつぶやくのです。

 

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【第2章】2節 看護学生時代 ~あぁ!是が青春を渡る河なのか!?~

18歳の娘が、南紀の町から大阪の都会に移り来て、看護学生寮(当時は看護短大以外はほとんど全て、寮生活が教育の一環として組み込まれていた)の一室にわが身を置いてしみじみと眺めてみた。土佐堀川に面して建っている横に長細いビルは、1階2階が看護学校、3階4階が学生寮となっており、寮は和室仕立ての4人部屋で、清潔感がありこじんまりと整っている。各人に、洋服ダンス風ロッカー、座り机、ベッドが、効率良くセッティングされていて、5年前に建てられたものだ。トイレ、洗面所と簡単な炊事場は共同で、此処も清潔に整えられていて気持ち良い。3学年60人の共同使用に手狭感、不備感なく、これからの3年間の学生生活の環境が整えられているのを感じ、気持ち新たに出発することになりました。

これからの3年間、待ち受けている試練は、「花も嵐も」。全く想像・想定するすべもなく、むしろ甘い期待に胸弾んでいました。

初めての寮生活。女子ばかりの看護学生生活。友としての密着度は、今まで経験したことの無い密室・密接至極。半年間は新人2名+上級生2名の4名構成で、その間、先輩から生活の基本や礼節に関する私達への伝授は厳しく、教務の先生方はじめ、まもなく出会うことが多くなるであろう病院職員の方々、学生間の先輩・後輩のわきまえなど、基本的で秩序ある関係性について伝授されました。

当時は新鮮な感覚で、熱心に聴いていましたが、生活が慣れて看護学生・寮生活への馴染が増すにつれ、自立性が確立してくる頃、今度はこの新世界の窮屈さに多少の不満を持ち始めましたが、やがて半年が過ぎて、同級生同士4人の同室になってからは、夜になると皆で学生生活論を交し溜飲を下げては、逸脱することのなきよう平静さを取り戻し、明日への再生に思い至らせ、平穏な眠りについていたものです。

看護学生としての寮生活はこのようにして、大きな問題もなく1年が過ぎ~2年目を迎え新入生を歓迎し、1年先輩・2年先輩となって3年間を過ごしたわけです。

後々になって、看護婦として社会人を歩み出してからは気づいたことですが、看護学生時代の先輩から伝授される社会生活の基本、同級生同士が培う人間関係力、3学年共々の一体感を共有し、人其々の多様性を認知し受け入れる許容性、生命力の礎になっていたのだと気づき、「同じ釜の飯を食って育つ」という経験は、無駄なプロセスではなかったと、悟りを得ました。

 

私は入学以来、生活の変化が大き過ぎたのであろうか、5月頃から体調に変化が及びはじめ、54~56㎏あった体重が7月には50㎏、女性の生理上の影響も出始め、月の徴は不定さが続くようになっていた。顔色は青白くなり、身体は痩せ、顔の生気が無くなる状態は12月頃まで続き48㎏に。その間、8月の夏休み帰省時には、教務主任の先生から「夏休み中、親御さんとこれからの進退について話し合ってきなさい」との厳しい指導がありました。これには、かなり反発を覚え、帰省しても母に伝えることなく学校に戻ってきましたが、教務主任には、学業を続行していく旨を伝え、決して快くは無い了解を頂き、「退学のすすめ」の受難をクリアしました。ですが、実は当時の私は、随分体調が不安定で、不慣れな学生生活のストレスによるものと自覚していました。

看護婦を目指して進学したのは私自身以外の何者でもなく、後ろ向きになりそうな自分に対して、誰も助けてくれる人はいない。母の長き闘病の苦しみに何も応えられなかった私の無力さが、看護婦への道を歩ませたのだから、これは頑張るしかない。その思いだけで、心のざわつきを抑制していたかな?

男女共学の小・中・高の学校生活から、女子ばかりの寮生活への変化は、相当なストレスでした。何しろ教科書は、医学書・看護学書に準じた基礎看護学諸々であり、私の考え及ばぬ世界に迷い込んだようで、学びの面白さを知るどころか、学び方が解らなかった。どのように気力を持ちあげて学んでいけば良いのか…?!と。

今でこそ「カルチャーショック」という言葉は、普通に取りざたされていますが、考えてみれば、当時の私は、異文化に接した時に受ける精神的な衝撃を受けたわけです。今まで習得してきた知識と現実の習得する情報の乖離が、まさしく大きくありましたし、新しき友達は、戸惑うことなく授業を受け、寮に帰っては復習を難なくこなしているように見受けられ、気後れする自分をひた隠して陽気を繕っていた私でした。

ですから、勉強は寮で皆と共にではなく、学校の図書室で調べるでもなく、ひたすら、古めかしくも重みあるレンガ調の中之島中央図書館に通い、本の開き方、本の選び方等に関して、小さな声で図書館の方に教えて頂きながら、我が教科書の部分を捉えて、ノートに記述することを繰り返しながら、如何にも勉強した気分になって寮に帰ってくるという繰り返しを続け、果てしなき無駄骨を折っていた姿が、涙ぐましく哀れに思い出されてきます。

しかし、この事態は、私の学生生活3年間を継続する底支えになっていたと思うのです。

馬鹿らしい遠回りの学習の仕方ではありましたが、やがて「今、何を教わり何が解らないのか?」同期生皆との交流の仕方が定まるようになってきて、2年生の夏休み以降は、私なりの歩み方が気負いなく是正され始めてきました。

当時の看護学生の教育カリキュラムは、実習時間が大幅に多く、私達は「学生とは名ばかり。半学生・半労働者じゃないの!」文句の極みを正義感で持って、諤々述べ合っていました。教務の先生方に説明を求めたりもしましたが、今思えば、教務の先生方は、学生に言われるまでもなく、基礎看護教育上の問題点を痛く自覚しながら、私達を教育されていたのですが…。

学生ってのは、ホントに青臭く、無垢つけき若者。若きエネルギーを、どちらの方向に飛ばし向かおうとさせるのやら…。多くの主張を正義と心得、簡単に譲ることはしない。良きにつけ悪しきにつけ、在り方によっては厄介で軌道修正の余地がないほどに頑張る。私もまた、そんな時代の中にあって、やはり看護学生生活(看護学校、寮生活の窮屈さと自由さの中で)は、青春の足跡として記憶に残っています。

 

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ホイっと目に留まった 知ってお得「知っとく感染防止提言」

コロナ感染症の勢いは、昨年2020年の始めより収まるどころか、何波にも押し寄せて拡大の一途をたどるばかり。一国の問題ではなく、世界はグローバル化しており、何処にでも自由に、短時間で往来できる世の中になった以上、あっという間に、世界中に感染拡大しました。(1月12日現在、世界のコロナ感染症の累計発生状況は約9千万人=WHO発表)

勢いづくコロナ感染症対策は、WHOと言えども現時点では打ち出せず、世界の自由で短時間に往来できる状況は、患者が自覚しないまま、あっという間の短時間でウイルスの感染拡大を招いているようです。各国の対策が自国第一主義の流れを拡散し、協力、協調してコロナ対策に取り組むという環境のコンセンサスシップが困難になってきているのでは?と思われる。WHOも課題解決がなかなか難しく、役割の存在感が、世界の中に霞んでいるようにさえ思えます。

感染症の医療上の対策は、ワクチン開発が重要であり、各国の研究機関は、新型コロナワクチン開発を急いでいる。
私達は、ワクチン開発には10年はかかる、開発が如何に困難な過程を通らないといけないか聞かされていたが、昨年末頃には、2社ほどの開発成功→ワクチン実用化へのビッグニュースが流れ、世界の政治家・要人たちが積極的にワクチンの投与を受けている。

接種者数は順次に増加しているようですが、1月10日、ワクチン接種の1回目実施が進む英米は、英国:12月8日~1月3日まで129万3643人、米国:12月14日~23日まで189万3360人という接種者数で、引き続き実施継続しているようです。

始まってまだ日が浅いため、副作用、アナフィラキシーなどを恐れて、安全性を見極めてから…と様子見する人もいるようです。現在、コロナワクチンのアナフィラキシー発生者数は、英国で2人、米国で21人ということで経過しているという事です。ちなみに、インフルエンザワクチンの安全性は、アナフィラキシー副作用率は100万回中1.3件で、高い安全性が示されています。

さて、今、日本に於いて、外国で製造されたワクチンが届けられたら、あなたなら積極的にワクチン接種をしますか?もう少し様子見をしますか?拒否しますか?

 

ところで、感染を防ぐには「ソーシャルディスタンスを取りましょう」と、その必要性が唱えられてきました。この言葉の意味は、社会的距離 という意味であり、人間は社会の中でこそ生きていけるもの。他人との間に「社会的距離」を取り続けるのは、寂しくてつらい。ここは、「フィジカルディスタンス」=物理的距離を使うようにしましょうと。物理的距離は離れていても、社会的距離「心の距離」は離れない。そんな生き方を心がけようではありませんか!と。

長期にわたる新型コロナ感染で大きく変わろうとしている社会のしくみの中で、私達自身のこれからの課題(働き方、生き方)提言と受け止め書き置きました。(毎日新聞 15面、旬なトピック 池上 彰氏の文章からの要約)

 

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【第2章】1節 看護師への道~自由の風なびく高等学校生活から看護学校へ~

私が通った県立T高等学校は、太平洋の海原に神島と称する厳かに浮かぶ自然豊かな島(人の立ち入り禁止)と砂浜と湾沿いに植えられた防波用の松林が続く風光明媚で、私達の市街地ご自慢のデートコースでもある臨海道に面して建っていました。現在、その学び舎は、台風・地震・津波災害などの防災対策上、小高い山(丘?)の上に移転して久しく、現学舎への望郷感は湧いてこない(申し訳ない!)。最終学年の3年時のクラス編成は、普通クラス4組・進学クラス4組に分かれ、高校最後の1年を過ごしました。

私は一応進学クラスに入りましたが、私自身、勉強に勤しんだ記憶はなく、クラスの男女7~8人の有志グループで、山や海へのハイキング・キャンプを楽しむこともしばしば。高らかな笑い声は青春そのものだったかな?時々は自制の効いた時事討論とでもいおうか、真剣なディスカッションを展開したり、我がT市の将来像や地方新聞で話題になっているあれこれを話のネタにしたりもして楽しい時間を過ごすことができました。

こうした学生時代の経験は、後々の私自身の在り方というか一つの選択をして次に進めていこうとするとき等に、何かしら背中を押してくれる力になってくれたような気がしていますね。友人達もまた、その後に歩む道を経ながら齢を重ね、夫々のライフスタイルを創ってきたことでしょう。後期高齢となった今は、皆で時々に会合して、郷愁に浸るその時間は、私たちの得難いエネルギーの再生時間となっており、快い健全さに感謝し、生かされている命への感謝を想う時間となっているように思います。

さて、念願の看護学校への入学を果たした私。
初っ端の思い出話は、高等看護学校受験時のエピソードを述懐してみましょう。

入試願書は、私立1校、公立系2校(地元1校含む)の3校に提出して受験することになりました。私の本心は、地元から離れて、県外は大阪の学校に入学したく、私立の住友病院付属高等看護学院、公立の大阪市立看護学校に挑戦し、3校目挑戦は地元看護学校を受験することにしました。(註:大まかな私の認識になるが、その時代の看護学校は、戦後(昭和25年頃)のGHQの指導もあって、看護婦の高等教育の必要性を求めて、看護婦の名立たる先人方のご尽力の下に、看護教育の概要が整えられ、准看護婦養成所、高等看護婦養成学校、短期大学看護学校、大学医学部付属看護学校、高等看護教育の改善、新たな教育基本要綱の基、その発展途上にありました。)

受験時日程については、詳細の記憶が既に曖昧になっていて正確に記述できないが、入試の流れの前後誤認はあるにせよ、輪郭的に大きな間違いは無いと思います。

初回挑戦の住友病院付属高等看護学院の受験時のこと。
一次試験は筆記試験。確か9時から午後3時頃までだったかといます。定員20名に対して約70名の受験生でしたが、数名の欠席者がいたようです。筆記試験が終わるとそれぞれに散会して、翌日の午前8時30分頃には一次合格発表があり、看護学院の玄関に掲げられた大きな模造紙に一次合格者の番号が書き出されていました。合格者は、確かそのまま10時からの採血・検尿・X-P検査を受ける という段取りになっており、1階の教室に待機していました。まもなくベテランらしき看護師さん2名ほどが採血をして下さいました。とても手際よく、手早く、必ずしも私達と目を合わせることはなかったが、声掛けは耳触りが良く優しかったのを覚えています。その後、病院のX-P室にて胸部X-P撮影・検尿提出という順調な流れに従いながら、いよいよ私の採血の順番が回ってきました。

ところが、冬場の寒さが影響してか、緊張のせいか、血管がなかなか浮かび上がらなくて、ベテランの看護師さんが3度ほど採血針を刺入するのですが血管に当らず。やがて用意されたバケツのお湯に左右の腕を突っ込んで温めた後、看護婦さんが変わって再度、両腕の刺入を試みるのですが、血管に当らず。(私は神経の刺激痛に黙々と耐えて頑張っているのですが……)。

終に、小児科のお医者様が来られることになって、「楠本さん、もう一度採血させてください。小児科のベテランの先生に採血していただきますから、もう少しの辛抱をしてくださいね。ごめんなさいね。」と、看護婦さんの切なる懇願もあって…。まもなくお出でいただいた小児科先生に黙って両腕を差し出して……すると駆血帯で縛られた腕は、素早い間合いでチクリとしたと思ったら、私の血液が注射器の中にス~ッと吸い込まれているではありませんか…?!瞬時にほっとした時はすでに抜針という早業。先生は、『よかったね。もう大丈夫。』と、笑いかけて下さり立ち去って行かれましたが、見事な早業!無痛の採血!それまでの皆さんのご苦労と私の苦痛は何だったというのか?

第一次筆記試験、第二次面接試験も無事終了して、3日目の夕方に合格発表と相成り、私は「合格」を果たしました。住友病院付属看護学校は、第一志望でもあり、もうあの採血の苦痛は二度としたくなかったので、残る2校の受験はキャンセルということに。

合格20名+補欠5~6名であったかと思いますが、私は、住友病院付属高等看護学院への入学を決めたのでした。決めた瞬間は、静かな嬉しさが、体中に浸み入るように流れる感覚を味わいました。

看護学校の入学式は、4月6~7日だったかと思いますが、その時の新入生(住友高等看護学院5回生)は、20名の定員を割って16名。

高等看護学院始まっての欠員スタートでした。

 

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長引く新型コロナ感染の折檻に怯むことなく!とはいえ…?!

新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)の感染から回復した人は、感染が診断されてから4ヵ月後までは血清中の抗ウイルス抗体が低下しないことが、アイスランド・deCODE GeneticsのDaniel F. Gudbjartsson氏らが行ったアイスランドの住民約3万人を対象とした調査の結果として既に明らかされているが、このことは、抗体への期待を大きく膨らませるわけにはいかないのだろうか。

感染しても免疫ができるとは限らない!怖がらないで!冷めてみないで!

また、新型コロナの感染者に免疫ができるとしたらどれくらい持続するのかについても既に中国から抗体は長期間持続しない可能性があるという報告が発表されており、期待されるべく見解が、なかなか報告されて来ない。もう一つは、 国策として集団免疫対策ということもあろうけれど、集団免疫を獲得することで流行を封じ込めるという方法で、政府によるロックダウンなどの強力な介入は行わず、新型コロナに対する免疫を持つ人を増やすことで集団免疫を早期に確立し、集団の中に占める免疫を持つ人の割合を増やすことで、その集団の中で流行を起こさないようにさせるということですが…。

10月になって、日本では第2~3波の兆しが見え始め、世界中に於いても、とてつもなく拡散しており、10月終盤から11月現在に至っては、第3波になろうかと思われる拡散の勢いである。恐れを持ち怯んでしまう。世界的に見比べてみれば、コロナ感染禍のあり様は、複数の見解からの違い、対策の違いはあるけれど、コロナ感染禍の影響は私達の日常生活に、共通な変化をもたらしているし心理的にも変容をもたらしてきているように思われる。

やっつけようのない、ワクチンや治療薬の開発遅延、免疫の持続効果が少ないことなどが、その都度紹介されて私達に教えてくれるが、全体像として解しようもなく、TVや新聞などで、専門の先生方の解説を待ったとて解しようがない。仰られるままに頼らざるを得なく、生活上の規制が示されるままに(要するに受け身の規制感によるものか)、何とはなしに、身体中の不快感に及んでいるようだ。得体のしれぬ憂鬱感の長引きは、確実に健康上に、大きく影響を及ぼしているから、厄介だね!

 

実は私、8月以降ずっと、原因不明の頭痛(片頭痛)耳鳴り、肩こりに悩まされ、平衡感覚がおかしくなっていて不愉快極まりなし。どうしようもない。

近所のクリニック医の処方による頭痛改善薬は、比較的よく効き、胃痛などの副作用は来していないから占めたもの!で、 ず~っと一日3回、服用し続けながらコロナ禍を生きている。関係ない戯言ではあるけれど、「脳」はあきらめない力を秘めているとの思いに至り、脳をトレーニングしていく意識力を働かせている。これは大事なことで、健康脳を保つために知的好奇心を働かせ、そこから出てくる行動を持続的に実行している。私の場合、めんどうくさがらずに新しい好奇心を発見して行動する。脈絡のない行動になるが、その時の気分と感性を一体化させて、身体機能(身体表現)を導き出すというものです。一定時間、バカみたいな、しかし、全身の身体機能を意識した表現活動は脳に刺激的なトレーニングしていると思っていて、負担にならない持続性を導き、我が頭に浮かぶ私の世界を表現してみるので楽しめるのです。

皆様は、医療の現場にあって、大変なご苦労をされていることと思いますし、感染防止の自己管理においてはその責任を全うされているという状況の中で、生活上、不自由さを耐えて頑張っておられるのだと思います。そのような中にあって、ご自身の(仲間の)あるいはご家族の健康にお気をつけてご活躍されますようお祈りしております。

 

追記

今朝、慎重に待つべく希望のニュースが入りました。
アメリカ・ドイツのチームで新型コロナウイルスワクチンの第三段階の臨床試験で90%以上の予防効果が確認された。ということです。
軽々に言えないにしても、大きな希望のニュースですね。

 

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【第1章】6節 中学生・高校生の頃~多感の驚きとそのエネルギーが懐かしい~

もう少し、小学校・中学校の頃に感じていたことを懐かしんでみましょう。

小学時の各学年は1クラス50名の7~8クラス編成。担任の先生は、男:女=5:3の構成で、どの先生方もしっかりした貫録があり大きく見えました。

特に、4年生以降になると周りが見えてきますから、先生方への畏れと緊張感を持ちながら、その感情を飛び越えて話をすることができていました。ですから私達生徒は、やんちゃっ気も加えて、きさんじ(関西の方言で呑気・素直・生真面目)なこども達であったと思います。

その頃の先生方は、教育の自由を求めて、気迫さをもって戦後民主主義教育の模索を続け、お互い議論をしながら、試行錯誤で取り組んでいました。誤解を持つ私の見解かもしれませんが、真新しい思想「民主主義」への変換を、実践的に成し得ていく教育道を求めて進もうとする真面目さが伝わってきました。
生徒たちの親も、PTA活動をとおして、けっこう先生方との意見交換をしていて、見解の相違からかトラブルも表面化する事がありましたが、オープンにしてましたから、各家庭で議論をすることが多かったように思います(思えば、小生意気な口調で知ったかぶりに意見などを言い合っていたかな)。

中学校に入学した時も先生方は、民主主義が求める教育の模索を試みていましたね。先生たちも、また、私達の愉快な仲間たちでもありました。

皆、明るくて活動的な先生方でしたから、当初から生徒たちは、先生方と対等な感覚で何かにつけてディスカッションするという風潮ができていきました。1学年8クラス(1クラス50人規模)の担任の先生方の結束は強く、且つ、自由な学校の校風を創ろうという気概と闊達な行動をされていたように感じます。

時は昭和34年~40年代半ばの歴史背景ではありますが、集団就職の悲喜こもごもの情景が社会風物詩ともなった時代です。その頃の高校進学・就職率は5分5分比で、約半数の生徒が中学を卒業して京阪神・東京方面への集団就職をしていきました。あの頃大ヒットした井沢八郎さんが歌う「あゝ上野駅」に励まされ、元気づけられた方々が多かったのではないでしょうか?

私の将来の選択に関しては、中学3年時の担任先生が、背中を押してくださいました。
「君のお母さんは、今は健康になって元気で働いている。経済の基盤も安定してきているようだ。今までは大変だったけど、もう一度お母さんと自分の将来について相談して決めてみないか?」

私は、高校進学ではなく、准看護婦養成学校に進むことにしていて、最終段階での申請を出していました。勿論、私は、心中それを望んでいたのではなく、高校に進学したかったので、先生にチャンスを頂いたような嬉しさがありました。

実は担任先生は、私の父の同級生。中学時代を父と共に過ごされたようで、3年時の夏休み前、「君のお父さんには、僕はお世話になった。チビすけの僕に善くしてくれた恩人なんだよ。その友の娘さんの担任になったとは、何か不思議な気がしている…。僕は、やはり君には、必ずや高校に進学して正看護婦さんの看護学校に進んでもらいたいと思っているよ。このことをもう一度お母さんと相談してみないか?僕がお母さんと相談しても良いよ。」と。

そのような経過を経て、私は高校への進学を決めることができました。

わが町の教育信条には、「自由な校風を創る」という風潮があり、私の高校時代にも継続されていました。全ての教員たちの、気概のあふれる「生き甲斐や働き甲斐」に翔ける思いを思いだします。生徒たちにとって嬉しかったのは、私達は、爽やかでしたし、甘えん坊でしたし、独りではなく結構同級生の皆と高校生活を謳歌できたことです。

看護師への道を選択できた本気度は、教育の現場で育まれ、これからの社会に生きていく真摯さへの原体験ができたのだと思います。

 

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十五夜お月様の蔭絵は、何してござる?

残暑長引く高温多湿の不愉快さには、過敏に反応してしまうものですね。特に高齢の方々には堪えるのではないでしょうか??

なんて呟いていたら、何とあっという間に季節の変わり目に突入し、ここ二日ほどは秋めく涼しさにほっとしています。どうかこのまま、秋の季節赴くままに、過ぎゆけば新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のこれまでの災禍の恐怖・疲労感が吹き飛ぶではないか?と。

 

確かに暦の上では、既に秋と承知していて、とすればなんとなく、お空のお月様に目をやってみるわいな(笑)!

この老眼で見る月の表面の陰影模様は、やはり「ウサギの餅つき…か?」

改めて、その種の本(世界の月の凸凹の陰影模様の眺め方の文化性というのかな)に目を通してみれば、世界の国々のイマジネーションの多様性があって面白い。

日本の満月における「餅をつくウサギの正体」は?

世界での満月に見る月の表面の陰影は、結構多様に紹介されています。既にご存じかと思いますが、ちょっと紹介しておきましょう。

ヨーロッパでは「かに」や「本を読む女性」、南アメリカでは「ロバ」、北アメリカインディアン・インドでは「ワニ」、アラビアでは「吠えるライオン」、東ヨーロッパ・北アメリカでは「髪の長い女性」、中国では「ヒキガエルの頭と前足」、オランダでは「幽閉された悪行の男」、ベトナムでは「大きな木とその下で休む男の姿」とまあ、こんな具合に紹介されていて、影絵も添えてくれていました。なるほどそう見れば見れなくもない想像の世界。勿論、どのような方向方角から見るかによって、異なるであろうと思うが、月を見上げて、月の陰影を見届けて、それを想像の世界で造り上げていくという、多様な目、多様な表現・言葉、に、人の持つ表現の同質性や柔らかさに感心した次第。

秋の夜長の満月のひと時、色々な不都合感や疲労感を癒し得るであろう有効性を楽しみ、季節の味わいを期待してご覧になるのはどうだろうか?

 


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【第1章】5節 中学生・高校生の頃~看護師への道は流れのままに~

ちょっと話は遡りますが、私のニックネームは「ノンちゃん」。このネームの由来がなかなか戴ける話です。

時は小学4年生(1955年…65年前にもなりますね)。学校授業の映画鑑賞で、児童文学作家:石井桃子さん著作「ノンちゃん雲にのる」を映画化したものを鑑賞しました。彗星のごとく現れた新人「鰐淵晴子」さん主演で、目のクリッとした可愛い女の子でした。映画が始まるやまもなく私は、グイグイと画面に吸い込まれるように魅入ってしまいした。

映画の始まりは、鰐淵晴子さん演じる8歳の田代信子(ノンちゃん)。ノンちゃんは、学校から早くまっすぐ家に帰ってきたのだが、真っ先に会いたいお母さまは不在で、その時知らされた不在の理由が、お母さまと兄がノンちゃんに黙って出かけたという。ノンちゃんは置いてきぼりにされてしまったことが悲しすぎて、泣きながら神社の木の上に登り、池に映る空を覘いているうちに、池に落っこちてしまう。その衝撃的な画面に、私はア~ッと声が出てしまったが、大丈夫!ノンちゃんは綿のようにふわふわな白い雲の上に。まるで私は、夢見るノンちゃん状態の幸せ感が充満したひと時でした。

映画のノンちゃんは、バイオリンを弾きバレエを踊る優雅でお転婆な女の子。これはもう鰐淵晴子さんの為に作られた映画であり、私の大好きな世界観が展開されていましたから、見終わってしばらくの期間は、夢心地の日々でした。私も小学3年時までバレエを習い、4年生時より音楽は合奏部に所属して打楽器で活動していたからでしょうか、級友たちは、誰からともなく「夢見るのりちゃんは、これからノンちゃんと呼ぶわ。」と。以来、私の呼び名は「ノンちゃん」。
映画(児童文学)に感化され、皆が呼んで下さる「ノンちゃん」の響きが、心地よく耳に馴染んでいるのです。

 

さて小学校を卒業し、やがて中学・高校時代を経て、看護学校時代、看護師時代へと話は展開させていきますが、こうして時代折々のエピソードを書きあげていくと、ふと気になることがあります。殊に、幼少期~思春期~青年期の思い出は、遠く年月を経過しており、思い出の良きことは、細部の欠落のおかげ?で美化されて記憶に残っている事もあり、また悲しく憂う事象などの記憶は、その時の感情がおぼろげな不確かさがあって、さらに大げさな表現になったり、あるいは何事もなくすり抜けてノープロブレム(同化)になってしまっているなと思われます。このあとに続くお話も、不確かなままで語ってしまう、その辺の胡散臭さが表出されているかもしれませんが、そのような記憶間違いもあるという恐れを持ちながら、大筋を見失わぬように気を付けて記憶を辿っていきたいと思っています。

 

“私は、看護婦(古称)になる”未来像が明確に意識化されたのは、中学生半ば(2年生~3年生初期の頃)でした。そこにたどり着く思考プロセスは決して確信的ではなく、母の繰り返す尋常でない持病の疼痛発作が、私の手におえる範疇ではない修羅場のごとくでしたが、その時は、ひたすら一生懸命背中をさすったり、浮腫む足を摩ったり、吐物の始末、トイレ介助等々、苦痛事ではなく坦々とやり果せながら、深層には、母は死ぬかもしれない不安を持っていたのだが…。はたして、この状況をどのように受け入れ、どのようにすれば良い方向へと母を看てあげられるのか?

誰にどのように相談して良いのかさえ解らず、積極的な思案を口にすることはなく、周囲の伯父叔母の援けを頂き、言われるままにお世話をしながら、お金を触ったこともなければ、正直、お医者さん看護婦さんに接する度合いは少なく、遠い存在でしたから、所作の一部始終を見届けることはできなかった。一人で母の介助をしないといけない時、看護婦さんだったら、こんな時どうしてあげるんだろう?と思ったことはあるが…、自分の力の限界、現実の悲しみを黙って背負っていたのだろうか?本当に何も感じていなかったのか?実際のところ、私はどんな感性を持っていたのか定かに思い出せない。

やがて1~3か月の病が癒えて、母は健康・元気を取り戻すと、ただちに働き始め、身体上のダメージの過酷さをものともせずに平常の生活に戻していく姿を見るに於いては、嬉しいに違いなかったが、流石に私は辛い思い「母は本当に大丈夫なのか?母は無理しているのでは?」と信じられない思いが流れていました。しかし、思いは、たちまちのうちに払拭され、母は、勢いを得た魚のように動き回り、声に力が入り、笑い声は高らかに豹変していく。母には、いつも、何とか楽にしてあげたいと、思うことしきりでしたが、周囲の人たちに、その心情を伝えることはなかったと今でも思っている。母の調子は、中学1年生を終えた頃から好転し、順調に安定した健康体を維持し始め、定職にも付けるようになりました。

 

ところで、中学1年生後半ごろから、友達は何故か「ノンちゃんは将来看護婦さんになる」と公認されていたのですが、これには、びっくり!!それ何処からの発信?と思ったけれど、担任の先生、保健室の先生などが、私と面談するたびに、「あなたは、将来、看護婦さんになる人やから、しっかり道を開いていかんとね。」と。看護婦への想像が育まれたのでもなく思索が無いままに、私の歩むべき道が「看護婦になる」と刷り込まれていて驚くが、それ自体、私自身が、身の程をわきまえた(?)当然の将来像として、疑問を持たずに受け入れていたということかもしれません。あるいはもしかして、私の母が、担任の先生などに、娘の将来の心配を話し、母自身の健康状態を話して私達、母子への理解を懇願していたのかもしれないが。

中学・高校を通して、ナイチンゲールの物語は、既に耳に目にして知ってはいましたが、「看護婦になる」意識化が明確になっても、実質、クリミヤ戦争での彼女の看護活動を深く知ることはありませんでした。看護婦さん像に関して語り合う、友達、先輩、先生たちとの接点を探る由もなく、看護への道に射してくるであろう光のまぶしさに思いを果せることなく、ただ流れのままに、当然の選択をしていたのだなと残念感が漂ってます。

果たして、「私は、看護婦になる」この意識化が、今後、どのように変遷していくのだろうか?

 


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新型コロナ感染は、なかなか終息してくれない!それでも私達は、守られている!!

日本の新型コロナ感染は、再び第2波と想定される増加の低い山を描き始め、終息の気配を示さず増加傾向にあるのは、東京以外でもあり深刻な状況になっている。と呟いているうちに、あっという間に東京に於いては16日、286人の新型コロナウイルスの感染者が確認された。2日連続で200人を超えという状況から過去最多を更新するという好ましくない状況となりました。

お祭りのように「Go Toキャンペーン」を張っていた政府は、昨日になって急遽、東京に限り除外するという方針に切り替えられましたが、この安直性に関しては、やはり、お粗末感を感じてしまいます。各都道府県の事情・要望・独自の対策・コロナ禍状況など、キチンと対策決定までの間、意見聴取をしてくれていたのか?と。

関係者によれば、感染者のうち、20代、30代が8割近くを占め、また、新宿区の集団検査で感染確認された「夜の街」関連の感染者が多いということですが、 都内では、夜の歓楽街だけでなく、家庭内や職場、劇場、会食や飲み会など、感染経路が多岐にわたっており、感染経路が分からない人の数が次第に増加しているようだ。

これは、このように増加していく危険性と恐れを、多くの人が感じていたと思うが、緊急自粛要請が廃止され、引き続き注意をしていくようにとの政府・東京都の要請が発進されていたが、選挙戦中は、都自身、どのくらいの呼びかけをし、協力要請が効果的にでき得たのかが気になる話です。選挙を終えた直後から、都知事は注意するよう協力を呼び掛けていたが、あっという間の第2波の危険値が表示された。

それでも私達は、守られている。と呼びかけたい!

どんなに医療現場が確保され安全性を規しているといえども、医療現場に働く医師、看護師、助産師、その他そこに関わるチームの人々は、最前線の感染症との闘いの中で労働力を提供していて、未だなお、医療現場の物資不足、人材不足は続いており、不自由な中にあって、命をかけた戦いをしているわけです。このことは忘れてはいけないですし、こうした尊い労働に対して、私達は畏敬の念をもっておきたいと思いますね。

こうした働きのある中で、私たちの命は、守られ、丁重に対応して下さっていると感謝を深めたいと思います。


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【第1章】4節 二人の祖父と私 ~私の看護における感性の芽生え~

第2話 母方のお爺ちゃん

彼は、城下町の趣を残す市街を通り抜けた海岸沿いの町の漁師。筋肉の発達した屈強な体格は、背丈と体つきが比較的調和していて、頼もしく男前でした。家に居る時の口数は多くないのに、門外に出ると、街の老若男女問わず皆さんから声がかかり、調子よくその声掛けに乗って話は弾み笑い声が聞こえてくる。話のネタは、たくさん持っていて自由自在な話ゆえ、どんな話が飛び出しているのやら…?時には、近所の小学生~中学生の子ども達3~5人が「話を聴かせて」とやってきて、母屋(お爺ちゃんの家)の縁側に座って待っている。お爺ちゃんご本人にとっては、嬉しいのだろう。穏やかな顔して子ども達を迎える。

そんなに長く相手をして疲れないのか!?もうこれくらいにしてくれという気持ちを隠して愛嬌しているのか…?! ホントの話か作り話か定かでない面白話が、飽きることなく続くので、家の者たちは時折に顔を覗かせ、様子見をする。と、子ども達の顔は、お爺ちゃんに集中していて、そのまま見過ごすしかない。何回聞いても面白い話だと、子ども達の爆笑を誘っていたようだ。

私と母の二人は、母屋の離れに住んでいました。母屋の前には、四角く広い庭があり、その一辺筋に、祭事の用具納屋、外トイレに続いて網納戸、その∟字隣りに離れ屋があり、そこに住んでいました。

母は日々忙しく働き、父方の祖父母の健康上のトラブルが起きれば、介護のために、父の祖父母のところに1~2か月は居住する。その間、私は母屋の叔父夫婦に食事のお世話を受け、夜は9歳上の従姉に泊まりに来ていただいていました。夜の一人は、さすがに怖くて、母の不在を感じる時ではあったけれど、特別、寂しいとか、私の生活はみんなと違って何でこんななのかしら?とか、心がちぢんでしまうことなく過ごしたように思われ、むしろ寂しさを感じとられないように振る舞っていたように思っています。お爺ちゃんの出かける時には、大概どこにでも付いて行きました。二人は、漁後の網を洗ったり、干したり、破れを繕ったりする浜辺の小屋に行って、一仕事終えての帰り道には、知人の家に寄っては短い談笑したり、お店に寄って私のお菓子を買ったりしながら、小高い家路の坂道を上っていくのだ。長閑(のどか)な闊歩でお爺ちゃんと二人なんて、ちょっといい場面じゃありませんか?

彼は、どの子に対しても「子供は宝」と分け隔てなく接してくれていましたから、子ども達にとっては、お爺ちゃんの懐に飛び込んでも許してもらえる、安心で安全な基地と感じていたのだと思います。漁師としての彼は、洋行帰りの人。戦前(何年かは不詳)にハワイに渡り、3年間ほど現地の人達に、漁の方法、網の使い方、網の作り方・修理の仕方等々指導官として働いたそうで、第二次世界大戦の開戦直前に、帰国してきたと聞いている。

帰国に際しては、ミシンやらハサミ、爪切りなどの鉄製の日用品(成人している子ども達4人分)、パイン缶詰、その他の缶詰やチョコレートなどの食料品、を沢山日本に送っているが、ミシン2台と鉄製の日用品などは没収されたらしい。幸い我が家のミシン・ハサミや他の金属製品は無事でした。けれど、ミシンは古くなるにつけ革のベルトが切れたり、ゆるんだりしてミシンの車輪から外れては、足踏み車輪を回し回ししながら輪に組み込ませて使うなどして(中学1年ごろまでは使っていたはずです)。やがてミシンは、交換部品が無くなり車輪の革ひもは特注で高価すぎましたから、いつの間にか、我が家から消えました。ただ、今も尚、使い続けている爪切りやハサミなどは、骨董品級の大切な日用品になっているのです。大したものではないか?と改めて思うところです。

さて、お爺ちゃんのもう一つの人となりをお話ししましょう。

彼は愛煙家。その喫煙の様は独特で、泰然自若に構えて“あゝなんてうまいんだ~?!”、長いキセルの先端の小さな杯に、刻み煙草を詰め込み、一服一服煙を燻らせながらゆるりゆるり味わっている。外出時にはキセルと刻み煙草を腰に巻いた革ベルトにぶら下げて歩く姿は、なかなか粋で洋行帰りの紛いの嫌みを感じさせぬお爺ちゃんの定番スタイルになっていました。

一週間に3回ぐらいは、キセルを分解してヤニ掃除していましたが、私はそのヤニ掃除の時の匂いが大好きで、新聞紙を広げた上に、分解したキセルを並べ、一つ一つ取り上げては、針金にガーゼを絡ませた棒をキセル管の中に差し込みヤニを掃除していたのですが、煙草ヤニの匂いに近寄って、作業工程を見ていたら、彼は、「子どもはあっちに行っといたほうが良いから…」と私を遠ざけるものの、私はとにかく飽きもせず真近で見ていました。成人して今に於いては、断然“アンチ煙草“派。煙草の匂いは臭くて頭痛を引き起こし、嫌で嫌でたまらない…。未だもって「何故煙草ヤニ掃除の匂いが好きだったのか?」解らないが、あの時のヤニの匂いは、今はもう失われている。

お爺ちゃんは、60代に腰を強打骨折して以来、約7~8年間、寝たきり状態になりました。彼は手術を強く拒否したこともあって歩行は敵わなくなってしまいました。下のお世話は、同居している叔父の妻には決して頼むことなく、何時も私を呼んで、お世話をさせていました。時に「なんで私ばかりなのよ。」と不満を持ったこともありましたが、長く私がお世話をしてきた思い出は忘れ難しです。

 

私の二人の御祖父ちゃんを語ってきましたが、こうした原体験が、私の看護師の歩みにどのように影響しているのか?と思い返します。その時は深い思考が働いたわけではないので、確たる思いを述べることはできません。そして、私は必ずしも、人の老い、老いを生きながら死に向う身体の理不尽さを理屈を解って捉えてはいなかったけれど、哀しく二人の老人を見送ったのではない。息苦しそうに絶え絶えに呼吸している老人に成り代わって何とかしてあげたいという思いが込み上げて、何とかしてあげたいと思ったのでもない。それ以上の事は何もできない自分の非力に悲しんだわけではない。むしろ死にゆくお爺ちゃんの、その時が来た…と受け止めていたように思われ、二人の祖父は静かに死を迎えました。

死の臨床にあって、苦しみと悲しみが交差して、死は人の不幸ごとと捉えなければならない場面を経験したのではなく、穏やかな二人の老人の死の場面に居合わせていた、という中学・高校時の私の体験でした。

 


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