シニアマンションの住人達あるある話 ≪1≫

初めに私(後期高齢者)の話 ~お引越し物語~
8階層126戸建てシニア・マンションへの転居は、2022年5月20日、初夏への誘いを感じる緑豊かな季節でした。この新築マンションの売り出しは、2022年1月頃から公開募集が始まっていたようですが、私が知ったのは、3月第2期販売公示の時でしたが、その時には既に10数名の方々が入居されていたようです。

新聞紙に挟まれていた本物件広告を目にした時、即感(なんて言葉あったかな?)「これだわ!コレコレ!!この物件!!!」小躍りしながら、即刻、現地見学を申込み、これにて先ずは一歩前進の行動となりました。後期高齢なる我が身の今後の生き方・過ごし方については、逡巡する日々多く、決断できないままに過ぎゆく流れに永らえていたものです。

経済的に保証できるゆとりが有や否や?!もっと慎重な思考を重ねないといけなのでは? だが しかし…私は一人住まいの独居老人。一人息子は東京に居住で、幼児2人の子育て家族故、その家族との身近な連携は望む由もなし。老後は、”一人気の向くままの自立度がキープして過ごせること”、”緊急・救急への対応、安心がより良く保証された環境に身を置けること”、であれば良いと考えていたので、うれしかったです。当に!!スッポリ・マッチング!素早く見学に…と相成りました。

実は、私は、昨年の後半から体調不良になやまされ、コロナ感染の絶頂期でもあって、体調不良に拍車がかかっていた日々でした。けれどまだ、独居生活に深刻な思いには至らず中途半端に「一人暮らしの不安」事項が、ボリュームアップしてきていたかなぁ…。80歳に手が届く70代後半の高齢者には、予告症状ともいうべく老いへの階段を上り始める前駆症状的な苦痛を気にすることはなく、感じてもいなかったのです。ところが体調ダウンの伸展は、案外、早くてきつく速攻型でやってくるものですね。要するに味わい始めるという間合いがなく(と思いませんか?)ある日、突然そこが痛い、痛くなった…と自覚したら、あれよあれよというシツッコい不調が進行してゆく。抗する力や楯突く気力など、心は萎える方へと動いていくのですから。

身辺の変事の状況に対処すべく頭の回転が狂ってしまうというのかな?静止してわが身の異変を見渡すことなどできず…。しかし不思議に思っていることが一つあって、「冷静であろう」「体裁は保っておきたい」という一つの美意識はそこはかとなく毅然として存在しているものだなぁと。今はそのように思っています。

これまでの私の日常生活は独居であり、比較的便利(駅、マーケット、クリニックは近場にあり)で、息子や我が家に近い親族たちとの関係は悪くなく、生活上の不便はありませんでした。そしてその恵まれた状況を、当たり前の状況のように受け入れて、慣れっこになっていて気付かなかったということになるのですが、突然のアクシデントは、迷惑至極が倍増して心が萎え込んでしまう。

そして、正月明けの今年初め、健康上の異変急変の時を経験した時、息子や近場の親族への救援は、何故か簡単には連絡できなかったのです。何故躊躇してしまったのか?「迷惑が掛かる」「迷惑を掛ける」この心理の方に強く支配されていたように思います。むしろ、体調の困窮時の冷静の装いと覚悟への心づもりみたいな心理が巡り始めてきてしまって、「このままで死んでしまうのかも」「それを受け入れなくて、おちついて自分と向き合おう」なんて、どうにも信じられないような不思議な冷静の在りようで、死ぬかもしれない覚悟を巡らせていたのではないか?と。(今は、馬鹿だな??とも…安直な覚悟だな?とも…笑えてきます。つくづく、馬鹿な思考過程をたどるもんだねと、わが身を眺めているのだけれど、その有様は、不安感からの逃避の様だったのかもしれないね…笑)。

70歳後半の私は、何かにつけて身体全体のダメージ感が大きくなってきているし落ち込みやすい時期にあるのは間違いない。しかし、こうして一応の生活の形が、自立を成しえていける環境の中にあり、命を繋いでいこうと歩み始めているのです。一人であって、独りでない。

シニアマンションの住人達と共に、毎日のご挨拶を交わし、時折の会合、運動、好きな時間のティータイムの時々に集う楽しい時間が、自分の意志の選択で用意されているのです。目の前の不安要因を共有し、負の心理に引っ張られないで、希望的に明るく生きていくわ!と、前向きに捉え、良く動いて、みんなと会話して思考を整えていけるのです。

是は結構、元気をキープしていける源になっていると思えるこの頃であり、やはり感謝なのです。生きる環境を変えてみれば、身近なところに自然に会話できるお友達が居る。無理をせず、その日、お会いできた人々と笑顔で話をし溶け込んでいけば、この命を有意義に永らえることができると思っています。そしてそのような方々が、きれいな笑い声を響かせあっているのです。

今の所、この話が、きれいごとではなく、本当にそのような文化性を大事にしながら、シニアの群れの仲間の一人として、新しい生活に馴染もうとしているのです。よき空気が流れているようです。これからも、良き事、不愉快な事、様ざまに、お話を展開してみようと思いますのでお楽しみください。

 

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【第五章】3節 とぎ澄まされた命(後編)

【第五章】3節 とぎ澄まされた命(前編)

Nちゃんは小学校に通いながら、年2~3~4回と、輸血もしくは検査・治療、継続治療上の調整、などで入退院を繰り返し継続してきましたが、小学4年生頃には、貧血治療の効果は、次第に厳しさを増してきていました。

ある日、小児科外来を受診した時、「最近検査結果が悪くなっているから、ちょっと入院して、元気をとりもどそうか?お薬の調整を早い目にしといた方が、Nちゃん、楽になるからね。」と主治医に進められて、そのまま入院となりました。状態は、本人が自覚する元気さとは、裏腹に検査値があまり良くなかったという事なのですが、入院して1時間後には、輸血を開始するという段取りで、Nちゃんを迎え入れました。私達の目にも元気良さげなNちゃんでしたが、まもなく(主治医の先生は外来担当日でしたので)、ベテランの上部の先生が輸血を担当することになり、血管確保して輸血開始しようとしたときのことです。

輸血管側の接続部の空気抜きのために、一滴の血液を管から流し出すのですが、この時、私はガーゼを敷いた膿盆で輸血の一滴を受けるために、Nちゃんの目線に“一滴の血の廃棄”を晒すことのないように手配したはずなのに、真顔のNちゃんは零されたに違いない一滴の血液の方に目線を落として、こう言ったのです。

「看護婦さんや先生にとっては、“たった一滴の血”かもしれないけど、僕にとっては大事な大事な命なんだ。」

思わず、先生と私は、絶句!何秒かほどは、声も出ず、出す言葉さえも解りませんでした。

Dr.先生は、「先生もそう思って、N君に輸血してるんだよ。これからも血液を大事にしていくよ。気を付けるからね。」
あわてて私も「婦長さんもね、これはNちゃんの大切な血液なんだと思って、先生と一緒に輸血のお手伝いしてるよ。ずっとNちゃんの気持ちを大切にしていくからね。」 本当は、何を言ったのか?こんな風に言えたのか?しどろもどろな言葉でしかなかったのではないか?

先生には先に退席いただき、私は、事後処理の調整を図るためにNちゃんの気持ちを推し測りながらベッド環境を整え、彼の苦痛の不都合を確かめるように、彼の表情が緩んでくれないか、そんな期待感に願いを込めながら、間合いをとりつつ、彼の心理が整えられていくことを願って、自分自身が「慌ててはいけない、びくびくしてはいけない、何時もと同じように、Nちゃんとの時間を過ごし、ここに留まっている間に、自身の立ち居振る舞いを整えなければ。」との思いで、心が委縮しているのを解きほぐさなければ…との焦りと闘っている動揺は、大きくありました。

その様に入退院治療の日々を、繰り返し過ごしていたNちゃんが、5年生になる春休みを迎えたある週末の土曜日だったか日曜日だったか…。私は休日の管理者当直勤務で、当直医は外科のDr..が登板していた昼過ぎの事です。玄関に待機している事務当直者から、「小児のN君が来院してきたのでよろしく。ちょっとしんどいようで顔色も悪いです。」と。

すぐさま飛び出していくと、N君が「婦長さん!居てくれて良かった!…僕いつもと違うねん…あ、…口から……」 口から、僅かに泡沫様の出血を認め、そのままストレッチャーに乗せて小児病棟へ。看護婦は、血管確保の点滴を至急準備し(他方では輸血確保に向けて準備)、当直医も直ちに駆けつけ、呼吸・気管及び血管確保の良肢位をとり、Nちゃんは逼迫する緊急処置を施されながら、次第に呼吸困難、意識混濁、ついには意識消失の経過をたどり、とにかく私達は、大きく声掛けを繰り返しながら、ようやく血管確保できたところへ、ご両親がお見えになりました。

ご両親は、無言の対面となりましたが、「N!今日はしんどかったんやね。いつもと違ったんやね。よく頑張ってきたんやね。一生懸命生きて来たよね。お父さん、お母さんだよ。遅れてきてごめん。N!今まで良く頑張って生きてきてくれてありがとう。…」

最近のN君の様子から、ある意味、ご両親の覚悟めいたものは脳裏にあったのでしょうか?ご両親が病院に到着された時は、よろけるように声を抑えて泣き崩れていらっしゃいましたが、懸命の言葉を掛けられて…。やがて気持ちを整えられると、静かにDrの説明を聞かれた後、身体を整えられたNちゃんとご対面され、そのままご一緒にご退院されました。

看護師となって初めての経験の場=小児病棟であり、数年間を共にしたN君と私(20代後半~30代初期)の看護物語をお話しいたしました。衝撃的な症例でしたし、私自身、意味ある学びをお伝えできたのか…?どうか解りません。が私は、小学生のN君がつぶやいた

「看護婦さんや先生にとって、管より零された血は、たった一滴の血であるかもしれないけど、僕にとっては大事な命の血なんだ。」

の一言は、命の大切さを十分に想起させられた言葉であり、生涯忘れ得ぬことばとして、私の看護職務を支え続けてくれました。

この世に生まれ出てきたその時から、一部正常ではなかった身体上の問題を持って生まれ、生まれたばかりの新生児の末端部の身体にメスを入れ、正常の形に整えられて、Dちゃんの人生が始まりました。その時に私は、看護学生として手術室実習をしており、その場所に、Dちゃんが来られて手術を受けたのです。そしてその後、成長した彼が3~4歳になり、再び小児病棟で出会ったのです。彼は生まれ出たその時から「与えられた未知の命」を生きて、Dちゃん、Nちゃんとして、覚悟のその時代を一生懸命、果敢に生きてきたのです。

私は、看護学生時代に「児の誕生直後」に出会い、3~4歳頃に再会してのち、数年間の長期を、児と関わり、命の終わりを見届けさせていただいたというプロセスを体験しました。私は、壮絶で重くて尊い命の変遷を生きてきた「この幼い児の命」に恐れ入るしかなく、ひとときも忘れたことなく過ごしてきました。また、ご両親の在り方に於いても、消えることの無い感銘を決して忘れることはありませんでした。

現在は、医療の著しい進歩の恵みの中に、多くの命が救われております。そのような状況にあって時代の変遷を感じながら、人の命の重さが、どのように受けとめられていくものなのか…私には表現のしようもないのですが、皆様にはどのように伝わりましたでしょうか。

 

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8月半ば とんでも(ない)場所で コオロギと出会った

夏場になって、家の中に飛んでくる虫は、結構いるものだな…と、4階以上の高層マンションに住み続けて15~16年を経年した最近、意識し始めた。日常的には、ベランダや家内に植物を植えれば、小さな羽虫や時折にゴキブリ、訳解らぬ昆虫の迷い込み、時にハエまでもが飛んでいることがある。嫌だな!と思いつつ、面倒くさくは受け止めず流されてきたようです。

ところで、私は現在、5月半ばに新しいシニア群マンションに引っ越して、2~3か月を過ぎようとしていますが、次第に入居者が増えつつあり、知り合う人々も多くなってきました。一日に一度は利用するレストランや週一休みの温泉浴場や館内イベント、玄関先の散歩道など、生活の身近に交流の場が豊かにあるので、かなり嬉しい。頭の回転は、皆さんとの会話の交流に助けられているのかと思います。そんなふうに生活環境への馴染が出きてくれば、館内のあちこちを歩き回り、時間の流れに淀みなく従いながら、生活リズムが出来上がってくるわけです。

ある真夏の日曜日の夕方、ザ~ッと夕立が降りました。マンションの周囲は、木立の小道になっていて、無造作に茂る背の低い花木や雑草が、突然の夕立の滴を浴びてあたり一面は涼しくなって、温泉の浴場に一風呂浴びに行った時のことです。

浴室には、顔見知りにもなっている3人の老女の中の老若女達が、個々の洗い場で洗剤の泡にまみれて洗い流していたのです。私が入っていって洗い場に腰を下ろしてシャワーをかけ始めたその時、足元から何やらシャシャッと出てきたのです!!

「ウワッ!ゴキブリ!キャッ!」 と声を上げるや飛びのいた私ですが、「いや待てよ!ゴキブリではない!ピョンピョン飛んだから!」 と声出すや、既に先人の3老女は、私の声に反応して、排斥のシャワー武器で3方から放水してきたのです。

「イヤイヤちょっと待って!ゴキブリじゃない!ピョンピョン飛んだからコオロギだから!水は掛けないで!!」 VS 「イヤイヤ『そんなこと言ってられないゴキブリは嫌なの!』」  と容赦なくシャワー攻め! 「とにかくコオロギだから…!ここは私に任せて!何とかするし、コオロギをにがしてやりたいの」 そんな女の鬩ぎあう大声を交し合いながら、溝に落ちかけたコオロギを見つけ、私は風呂桶でコオロギの身の安全を確保したところでようやく、女性達も我に返り、「ホントにコオロギなの?ゴキブリだけは嫌いだから!だったら逃がしてやらないとね。」 落ち着いた会話になったところで、「あなたに任せるわ。お風呂場出口の扉を開けたら、直ぐ草むらになっているからそこに放してやるといいわ。準備できたらお手伝いするわ」 と優しい眼差しの言葉。4人の老女は、フッと我に返ったとたん! アハハ~ッ!!何てことよ~ッ!可笑しいったらありゃしない。ゴキブリでなきゃいいってね~!何てことよ~!怖いこと言うね~!でもゴキはきらいなのよ~!

“夕立”と”温泉”と”コオロギ”と”4人の美女”の話は、他愛もなく大笑いして終わりとなりました。

ゴキブリの羽の茶色は、あの艶やかさをもってむしろ美しい茶色の羽。家の中に居て逃げ足が素早く宙を飛ぶ虫故か、人様には決して好かれることない忌み嫌われ虫。

一方、コオロギは、家の中に居て色艶は決して良い羽色とは言えないが、3種類の鳴き声をもって、多くの人様たちを癒しに導きまた、ピョンピョンと飛び跳ねて親しまれ好かれている。この差異を悲しむべきか…?どうしたものか?と思うけれど、昔から受け継がれて今日に至っているようだ。

感性の差異か?!簡単には片付けるのも可哀相な気がしている。

しかしながら、コオロギへの愛着は、夏の終わりから秋の夜長に耳を傾けたくもなり…というわけです。鳴き声はオスのみであり、メスを呼び寄せる求愛の時と、縄張りの主張の時に鳴く。この鳴き声が、美しい高い波動を出すのだと言われれば、なるほど~と納得もしてしまうのです。

 

コオロギについてはスピリチュアルな意味の暗示があるそうな!

コオロギの鳴き声は、とても美しく特徴的で、高い波動をだしているのです。この高い波動は、高い意識レベルのネットワークを作っていて、その為、コオロギの鳴き声を聞いていると、頭がすっきりしたり、冴えたり、ストレスとなる考えを静める傾向があるのだそうです。面白いことに、コオロギが鳴くときは、自分の中のエネルギーを、どのレベルまで波動を上げて実現化する事ができるか、ベストを尽くしてチャレンジしているそう。

中国では、コオロギは 「成功と成功をクリエイトするマインド」 という暗示があるといわれており、アメリカの先住民の間では、「コオロギは成功をもたらす信念」 といえる象徴だと。

以上、コオロギのスピリチュアルに関しての文章は、真理の扉を開く時 第142章 概念について 5mmくらいのコオロギを見つけた:コオロギからのスピリチュアルメッセージ「心と繋がる1つの思考」文から、要約させていただきました。

 

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【第五章】3節 とぎ澄まされた命(前編)

Dちゃんは、ご両親の意向でDちゃん ⇒ Nちゃんに改名されましたが、一方的にご両親が改名したものではなく、 “身体が健康になって元気に生きていく事ができるように、と願いを込めて、Nちゃんにしてみるのはどうか?” Dちゃんに、父母の願い、希望、改名に至る説明をされたようで、”息子は解ったと言ってくれましたが、解りません。見守っていくしかないです”と。Nちゃんは、私達の前で苦笑い(というか照れ笑い?)していましたが、まもなく「よろしくお願いしま~す。」といつものように明るく張りのある声でご挨拶をしてくれました。記憶の中では、小学校入学前に改名されていたと覚えているのですが、どうもあやふやですね。Nちゃんのはにかんだ苦笑いが強く、大人びた印象が残っています。

ご両親の一縷の希望に託した強い意志が働いたのだと思いますが、説明によれば、「姓名判断で、名前を変えた方が良いと勧められて、この名前に変えました。」と、静かに穏やかな笑みを浮かべて教えて下さいました。ご両親の深層にある思いを計り知る由もないまま、私は少しあたふたとしながら「そこは突っ込みどころではない。黙してしっかり受け止めておくべき。」ととりなして、少しばかり笑みを浮かべながら「Nちゃん、N君、とお呼びして良いのかな?」と了解しましたが、内心、Dちゃんよりは、普通の名前感のあるNちゃんで良かった…と思ったことです。Nちゃんが、可愛く本当に愛おしく思われた瞬間でもあり、すぐさま打ち解けたのを思い出します。

ご両親がつくづくと仰るには、「名前の付け方は、色々考えて付けないといけないものですね。親が良かれと思い願いを込めて付けた名前でしたが、その名前が災いになっていたなんて考えも及ばなかったですわ…。Nには申し訳なくてね。名前がこんなにも、その児の人生に影響を与えるなんて思っていませんでしたんで。でもNは、何も言わずに受け入れてくれて、Nちゃんと呼ばれる響きに馴染んでくれました。愛おしくてね。涙が出そうになるけど、息子の前では涙を見せるわけにはいかなくて…。いつも笑って返事を返してくれるNと軽口の応酬をしながら…いつものようにね。息子は健気にも、私達には元気良い声で応じてくれて…、自分が普通の身体でないことを自覚してくれているのが、何とも…つらいです。彼はきさんじな子でして…それはもうあの子に、いい加減な対応はできません。普通にきちんと応えていかないと…私達親の責任です。Nは生意気なようで、良く気が効いて、可愛い息子です…」と。感情を込め過ぎずにサラッと一言一言静かにお話し下さいました。

当時はまだ20代の終わりに差し掛かっていた私には、まだまだ人生の、あるいは医療従事者としての経験や知識は大きく不足していましたし、ご両親の思いや振る舞いへの想像力が、有効に働いていたわけではなかったのですから。ですが、小児科部長先生の「こどもの世界観、医療観」から醸し出される私達 看護師への何気ないアプローチは、その都度、瞬時の光を放つご指南オーラに触れることができ、刺激され、創造的に看護活動ができるように導かれたように思うのです。当時の小児病棟は48床、一日の入退院は、合わせて6~20床の入退準備・整備・手続きや、乳幼児の手術1~3件を抱え、看護師7名という超多忙さは、想像できるでしょうか?疲れ果てるエネルギーの損失感を味わうのではなく、超多忙の勢いに乗って働く力が湧くという雰囲気があり、職場は、何時の時も楽しく暖かい空気が流れていたと思っていて、私の看護経験史のなかで、大切な学びができたのです。

さて、Nちゃんは小学校に通いながら、年2~3~4回と、輸血もしくは検査・治療、継続治療上の修正(調整)などで入退院を繰り返し継続してきましたが、小学4年生頃には、貧血治療の効果は、次第に厳しさを増してきていました。Nちゃん一人で病院にやって来るときは、タクシーを使ってくることも多くなり、彼の訴える力は、息切れを伴うように。それでも、自分の言葉表現は、省略したり、なおざりに発することなく、私達の顔を見て訴え、健気にも微笑してくれるのでした。「Nちゃんのしんどい時は、看護婦さんしっかり解っているからね、我慢しないで。」とか「早く輸血始めようね。おしっこは大丈夫かな?先生がもう病棟に来て待って下さってるよ。」そんな会話?を交わしあったNちゃんとの様子が、今も浮かんでくるのです。

この続きは次回にも掲載いたしますが、言葉の使い方、表現の在り方、私自身の思考力など、不足を感じ入ることばかりです。当時の私の感性の働き方が、どうだったのか?それはもう随分と年月を経ており、私の勘違い、記憶間違いが多々あるものと推測もされ、慎重になって割愛していく事も多く、文章のつながりが、一層不備に陥ってしまっているかも知れませんことを、弁明させていただきたくお許しいただければと思い、当時の医療現場と大きく改善され進歩した医療の変遷を感じていただければと思っています。

 

【第五章】3節 とぎ澄まされた命(後編)

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15年目のお引越しで もうこれが最後の私の棲家!!

社会に出て一人前の収入を得るようになってからこのかた、私のお引越しは、5~6回もの経歴を持つ。自慢にもならないことで、改めて振り返って眺めていたら、「私って、落ち着きのない人に見えてしまいそうだな」とマイナス思考がよぎる。深刻に回想するわけではないし、私のお引越しには、私なりの必然性からそうなったという一応の理由があることではある。

今は亡き母との同居を求め、新築マンションの高層7階に。土いじりが好きで、友達付き合いの良い母の希望する住居ではないのは明らかで、不同意ながら私に応じてくれていました。

やがて子供が生まれては、今度はパートナーが、男の子の養育上、高層でベランダの真下は土や樹のないコンクリート道ってのは、良くないじゃないかと。ごもっともな思考の雰囲気を察知して、奈良の山を開拓して作られた戸建のニュータウンへ。勿論、私単独で決めたという事ではなく、母たちと共に現地を見学して、緑の樹木の恵み、奈良地の景観の良さ、日当たり、地盤層(?)等々の環境条件を確認して購入を決め、移り住んで23年を過ごし、息子にとっては、奈良が自分の故郷と自認しするほどに良き住まいでした。

母が他界し、息子は県外での大学生活→海外留学、パートナーも高齢を過ごすという状況になり、家の広さは重くなり、健康上の問題に対処するには不自由さが負担になると確認するようになって来れば、交通の便がよく医療環境の良い都会へと。大阪のそうした条件に敵う町、従姉たち家族も近場に住む町に移住して15年。

そろそろ家族の形も変化して、子どもの独立、パートナーの死去に伴い、私は、独居暮らし。結構自由に楽しく自立性高い生活をしていると思われたのですが、2019年末に発生したコロナ感染症の猛威禍が続くこと2年余、今尚収まりきらぬこの状況は、大きく社会環境に影響したことは確かで、生活の在り方にも変化が生じ、大きな学びもできたのではないかと思うこの頃です。

そして私自身、昨年後半より体調不良の重さが、こんなにも生活の考え方・形に変化を及ぼすことになるとは…?!

道路に面して向こう側5分ほどの所に居住している、従姉たち家族とは、平素より仲良く行き来しているのですが、年末~お正月半ばにかけて、立ち上がり様もない大きな体調不調に見舞われた時、夜中の不都合時の対応、昼間の不都合時の対応がままならず、動くことそのものに弊害を来した状況で、電話する、電話の不都合に繰り返し対応し直す、何処に電話しないといけないかの判断もままならぬ動きようのないまた再度やり直してみる意志・意欲が減速していく状態に陥ったことがありました。世にいう孤独死と表現される状況って、こういう事から始まるんだと、呑み込まれていくような思いで凌いだ状況がありました。特に、夜通し「怖いなあ、これではいけない」との思いが交錯しながら朝を迎え、とにかく水をゆっくり飲みほしながら「朝になれば、お医者さんに何がなんでも行かなければ…その力だけは持って受診しよう」と。

平素の私は、体調不良時の不安は、従姉に早めの連絡を取って、受診に付き添っていただいたり、食事の面倒を受けたり、と結構な連携の恩恵に与かっていたのに、それが頼めない。真夜中の救急性を、簡単には、従姉や東京の息子に連絡できなかったのだ。怖さに逡巡を巡らせど、親族に連絡する覚悟というか思い悩む、迷い悩みの吐露ができなかった。

これが私なんだ!と思い知ることになり情けなく思った。がしかし、元気の回復時にあったのか、情けない思いに捕らわれることなく、私の頭は、今の生活環境の脱却とでもいうか、対策を考えて、成しうる方法を見つけ出そうという気になってくれたのが有難い。

数日後、新聞のチラシに、セキュリティー完備、医療・介護との連携した環境、、自立したライフスタイルができるシニアマンション の販売広告が載っていたのです。完全にそれに飛びつき、早速見学申し入れての現地見学を敢行。自己の出資金の可能性だけは、きちんと捉えておいて、私の信頼するしっかり女性に同行をお願いして、マンションの詳細の説明と見学させていただきながら、現実的な質問なども興奮することなく、落ち着いてお聴きすることができ、ほとんど即断的に、購入の意志を伝えたものです。資金繰りには、心配がなかったとは言えないが、きっと何とかなるという強気が働き過ぎていたかもしれない。

マンションの佇まいは、周辺の医療・介護ゾーンの街づくりとしては、緑地帯を比較的豊かに確保されていて、緑の街路樹で囲まれている。広々とした3つか4つのシニア・家族マンション群があり、それらが共有する医療施設や介護施設・セキュリティー管理会社の隣接など近場に構えている。肝心なことは、末永く人の命が自立的に、活かされ守られ生活が整えられる という事であってほしいと願いながら、話をお聞きする限り、それは保証されていくであろう市政の力が信頼できそうだと思われ、同行下さった友人も、信頼できるのではないかとの弁。

息子に相談掛けると、お母さんがそれが一番と思う方法であったのなら、良いのでは?と資料と現地写真や、候補にしている部屋の写真を送って吟味していただいた息子の弁でした。そっけない返事のようですが、資料などきちんと見て私の資金力との関連性も見届けてくれていて、決して「僕が少しは援助しようか?」とは言わなかったけれど、有難い賛意を示してくれたのが、嬉しかった。

そうした経過の中で、引っ越し準備が始まり、1か月の期間もない中での荷物整理は大変でしたが、無事引越し完了した現在、既に1か月半を過ぎてしまいました。生活は快適で、朝夕の散歩は生活べースで身近にできるのがうれしい。まだまだ、引っ越し人がこれから賑わうのではないかと思いますが、マンション管内で色々な方々とお会いしながら、会話を交わせるのが良いです。高齢者にはこれが一番!そして何らかの変化のある生活が、必ず待ってくれている期待感が、あちこちに散らばって、街のコミュニケーションさながらなのも良い。管理人さん達の身近な、しかし、やり過ぎない親切・声掛けが、コミュニティーとしての良き働きになってくれていると思う快適なこの頃です。

私事を述べてきましたが、今後の高齢社会を生きるを考える一つの在り方として、皆様の思考の一環になればと思い、記述させていただきました。

 

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【第五章】2節 看護婦(師)の道半ばの展開②~命の現場での衝撃と学びは大きくて深い~

看護学生時代に遡りますが、3年時前半の実習は手術室でした。手術室の婦長さんは、やり手の元気良し、器量よしの名物婦長さんしたが、学生の実習に於いては厳しく熱心。分け隔てなく容赦しない指導は有名で、睨まれたら立ち動きようがないと、学生の間では畏れられ、学生は全般に、手術室実習には苦手意識が強く、しかし終われば、婦長さんのファンになるという名物の看護管理者でした。勿論、私もご多分に漏れず、苦手意識の先走りしてしまいました。何故ならば、私は、夏場に罹る蒸し暑い時期になると、ダル重い体調になって動きが取れないのです。手術室だろうが病棟だろうが外来だろうが…弱いのです。
厳しい婦長さんのご指導に耐えうるのだろうか?考えても致し方のない覚悟の3週間の手術室実習に入りました。なるほど手術室は、夏場だろうが冬場だろうが一定の低温に調整されているので、手術室実習は、夏場の蒸し暑さで体調に影響するなどは、問題になることではない。自分の固定観念に支配された緊張の手術室実習であるということだが…手術室に向う足取りは重かったに違いない。やはり、鋭い婦長さんの目利きから逃れ出ること敵わず「実習する気あるのか?ないのか?」勢いの良いお声は、鋭角に頭頂に飛び込んできて、とにかく怖かったですね。

手術室実習が始まってまもないある日の事、生まれて3~4日目の新生児が手術室にくることになりました。「手足多肢症」の「新生児」ということで、手術室では緊張感が漂い、小児整形外科主治医の一声で、手術が開始され(麻酔がどのように行われ、どれくらいの時間をかけて、手術が始まったかは記憶定かでないですが)、終了後は保育器に移され、新生児室の看護婦さんに伴われて帰っていきました。手術室では、兎に角、無事に終了した事に安堵感を漂わせ、「ご両親はびっくりされただろうな。このままじゃ連れて帰れないという思いだったんだろうね…。とにかく一応無事に終ったけれど、このまま何事もなくね…大きく育っていくんじゃないかな?」同情されていたのではないかと思いますが、麻酔科・整形外科の先生や看護婦さんが、ホッとしたように「お疲れ様でした。ありがとうございました」と声掛け合っていたのが印象に残っています。

この事例は、まもなく、私の記憶から遠ざかっていきましたし、看護学校卒業・国家試験合格・看護婦として歩き出しました。

看護婦3年目の時(小児病棟に配属されて1年経ったころ)、4歳の男の子が緊急入院してきました。お父さん、お母さんに伴われて病室に案内されてきましたが、児の名前に聞き覚えがあり、カルテの現病歴を見ると、なんと手術室実習で出会ったあの時の新生児ちゃん!Dちゃんでした。血の気の薄い、透き通るような白い顔色で元気がなく、お父さんにおんぶされての入院でした。小児外来での診断名は「再生不良性貧血」、緊急入院という事でした。私は内心、「え~っ!あの時のDちゃん?!どうしたの!」のことばを呑み込むように無言で事態を見守っていただけでした。

ご両親は写真館を営み、アーティスト風でお若く、さっぱりと淡々とした感じでお話しされるご夫婦でした。極めて冷静を保っていらっしゃるようで、慌てふためくことなく、看護婦や医師の説明・案内に従いながら、時には看護婦に児を預け「私達は、本当にまだ何も解りませんのでよろしくお願いいたします。」と丁重なごあいさつをされていました。慌ただしい時間(血管確保や追加検査、輸血準備など)を経過しながら、やがてまもなく、主治医師からご夫婦に、診断名の詳細が説明され治療方針も説明されたのですが、ご両親は「今の私達には、よく解らない事ばかりで、どのようなことを先生にお聞きして良いかも解りません。もう少し時間をいただき、この子の事をよく考え、夫婦で話し合ってみますので、どうかお力添え下さい。」と。ご夫婦の詳細な訴え、発信された言葉を完璧に捉えていませんが、穏やかに落ち着いてお話しされていたのが、印象深く残っています。

そしてその後2か月~3か月経過しただろうか…?壮絶な痛苦を伴う処置・体動の制限など、慎重で必死の覚悟を要する治療を続けたDちゃんは、やがて寛解期を迎え退院していく事になりました。Dちゃん入院の期間中、ご両親は二人で写真館を営業しておりましたが、悲嘆の日常の中で、結構多忙に過ごされたのではないでしょうか。病院のベッドに幼いわが子を1人にして置いていくご両親の思い・回復への願いは複雑であったろうと推察いたしますが、Dちゃんの苦痛に耐える様子を目の当たりにしたときは、いかばかりだったろうか? 私達もまた張り裂けるような思いと祈りの中で、児と向かい合った覚悟は、今尚、記憶に甦ってきます。
治療を続けるDちゃんに、ご両親は「何時ころ来ると約束できないけど、一日一回は必ず、お母さんか、お父さんが来るからね。看護婦さん達と一緒に待っててね。苦しかったり辛い時は、看護婦さんに正直にお話しして助けていただこうね。今日は良く頑張ったよ、元気になろうね。」と言い置きながら病院を後にし、面会は必ず約束を守って、親子の信頼関係の維持継続を真摯に図っておられたと思いますし、ご一家の生計に支障来すことの無い生活循環を作っていらっしゃったと思います。若き夫婦の逞しくも児と共に在る毅然とした覚悟に恐れ入る思いでした。Dちゃんは、苦痛の続く治療を継続的に続け、一つ目の寛解期を迎えて退院が叶いましたが、治療は、輸血・輸液・投薬・採血検査・骨髄検査・X-P検査その他の検査等々、幼い子供にとって、言い尽くせぬ大きな傷み、苦痛の不安があったろうに!?…。ついに安全な寛解期を迎え、退院できることになったのです。

この時のご両親の決意・覚悟は彼らなりに考え、主治医や婦長さん達と何度も話し合いながらDちゃんの生活の在り方、闘病を伴う育児方針を築き上げられました。
ご両親は、できるだけ普通の生活を精一杯経験できるようにと、幼稚園→小学校に。また小学校に入学する1年前から、幼稚園の先生あるいは、小学校の先生には、Dちゃんの病気の詳細を説明して、ご両親の育児方針、医師の先生の指示、容認されうる活動の在り方など、Dちゃんに関わる大人たちが理解しておくべき知識を、共有されていたのが印象に残っています。どんなことが引き起こされるか解らないというこの非情さに対して、ご両親は、「この子が自分の意志で行動ができるように」とご両親の「我が子の命の危機への遭遇を覚悟」して、普通の子として生きるできる限りを緩し、感染・出血に対する予防上の約束を、時々の子の成長に合わせて、一つ一つを自律的にコントロールして生きていく過程を子に託したとでもいえばいいのだろうか? 良し悪しについては、色々多岐にわたるご意見があるところで、なかなか結論の出ない問題ですが、どんな結論を持って今を生き抜いていければ良いのか?正解を求めるなど、軽々な語りはできません。
ですが、ご両親はDちゃんには、「自分が、したいと思う事はそのようにしてもかまわないが、自分の体はみんなより傷つきやすい。そのことに注意しながら、自分がちょっと変、ちょっとでも苦しい時は、どうしたら良いのか?」そうした生活上の安全な方法を医療側とご両親の間で、検討され合意を形成していかれたと私は解しています。
体調の不良(いつもと違う感じ、少しでもしんどいと感じた、何かしらフワフワとふらつくみたい)を感じたら、直ぐにタクシーに乗って病院に向うように。先生にお願いして家に電話で知らせていただく、自分で電話できる時は、車に乗ってから家に知らせる…!そのような非常時の対処行動をしっかり教えていらっしゃいました。「お母さん・お父さんは直ぐに病院に駆けつけていくからね。」…そんな信頼関係、緊急事態体制を、この幼い児童にしっかり教え込んでおり、Dちゃんの首には、お金の入った袋が架けられていました(否、ポッケに入っているときもあったね)。

いつも一人で「今日は早い目に来たよ。ちょっとしんどいねん」「ちょっと朝から変だって、家から病院に行こうと思ったけど、学校に寄って病院に来てん。」などと、精いっぱいの声で明るく話し、人懐っこい笑顔…というスタイルでした(実際この幼気な姿は、私達には辛いものでしたが)。早めの対処をして大事に至らぬようにする、早く体を楽にする、輸血の力を借りて自分の元気を取り戻す、さらには感染対策もしっかり心得ていたその姿がつらくもあり、大切な命と向き合っているDちゃんへの祈りは限りなく…どうかこのまま、何事もなく命永らえて成長していきますようにと。

治療方針は、どうなっていたんですか?と突っ込みの質問が飛んできそうですが、その時代の最先端の、しかし完治する保証(補償)はかなり困難を極めた時代の一つの現実です。

Dちゃんのお話は、父と母とDちゃんの命を生きる向き合い方として、私には大きくて深い学びなのです。こうしたご両親の「我が子の命」の覚悟の在り方としてありえないとも言えるのかもしれませんが、大いに私はこのご両親とDちゃんに動かされるものが大きく残っています。(治療上の詳細においては、記憶が欠落している部分が多々かもしれますんが、この命を生きる流れに於いて大方を語り得てると思います。)
次回に於いて、反芻しながら考えてみようと思います。

 

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【第五章】1節 看護婦(師)の道半ばの頃①

私の生き方の主たる選択は、看護婦(師)人生を生きる、ということであろうか!と思います。振り返れば18歳の看護学生から看護婦(後に看護師)として63歳までをとにかく生きてくれば、なにかと小さな石に躓いたり大きな石にぶつかったりー。大小の痛い思いは、私の人としての具えに必要な影響を示された事と受け止めてきたのですから、大方の一つ一つの場面が幾重にも浮かんできます。

さて今回のお話を展開していきましょう。
看護学生を卒業して、一年間の大学(教育学部)生活を経て、休職中の病院に復帰した時、子どもが好き・嫌いのレベルで捉えていたわけではないけれど、小児病棟配属となった時には、「私が…?」と驚いた話は、以前に記述しました。

配属に関する驚きの気持ちは、意外性の感覚が即座に働いた理由は、私と小児の接近感を経験したことがない、ということになるでしょうか?
大学時代の教生実習は、小学4年生を二組、中学1年生・2年生の合計3~4週間で展開したと思います。指導の教官とのやりとりを徐に覚えていますが、子ども達との交わりは、授業展開に一生懸命だったけれど、接近感を持つ対話時間ということへの関心・工夫は、施すことなく過ぎた、ということだから…?の弁明あるのみ。とにかく復職した私は、小児との距離感が解らず小児病棟配属などの予想だにしないままに、意外性の感触で配属となったという事です。

 

一つの物語は、ここから始まります。
小児病棟看護婦の道を歩み出した私の心のザワツキ?!小児科部長先生は、入学試験の時に困難な採血トラブルを難なく解決して下さった先生なのです。やや緊張でしたね。

部長先生は、基本は静かで書物の読破力は半端じゃなく、頭に記憶されていらっしゃる。朗らかによく笑い、こよなく阪神球団を愛しておられ、高校野球の開会式には必ず、半日休暇を取って観戦。プロ野球が始まれば阪神球団を応援し、昼食時には、巨人応援の先生方と、負けた・勝ったの賑やかな談義を展開していましたが、部長先生のお名前は「虎太」ですから、話の先は、良くも悪くもオチがついて終わりになるといった具合でした。子ども達も部長回診時には、虎太先生を待ち構えていて、先生が病室入口に立てば、「六甲おろし」の大合唱が。これだけでも当時の病棟の雰囲気がお分かりいただけるでしょう。今では、許されないことかもしれない伝説になったというべきでしょうか。

部長先生は、小児科外来を含む小児病棟の絶え間ない多忙さにも泰然とされて慌てることなく当然に指示が飛んできます。と、私達は悲鳴を上げる。エ~ッ?先生~?!それって~!!今から~!!!不愉快・拒絶の悲鳴ではなく、覚悟の悲鳴とでも言いましょうか?

「小児の病気は待ってくれない」「小児の病気は勝負が早い」「私たちは直ぐに、何をどうしなければいけないか?」「判断を遅らしてはいけない」「拙速に判断してはいけない」「子どもの命は、親御さんにとって全てなんだ」これらは、常々発せられる言葉でしたし感情的に舌鋒鋭く命令的に私達に、指示を飛ばしてくることはありません。医療観(殊に、小児医療観)を秘めて活動されている姿には、「小児の命とその家族」への医療人としての在り方、人間としての命との向き合い方 を受け止めておられその覚悟が伝わってくるのです。一つの医道(哲学)を持っていらっしゃったと思います。常に、一つ一つの場面が、その児の性質、病気の重さに対して、心尽くされ配慮されていることが思い出されるのです。看護婦たち個々の中に、しっかり浸透していましたね。その教え、伝え方が、殊更ではなく、自然にと言えばいいでしょうか?

約2~3年たった頃と思いますが、大学紛争が結構激しくなって、臨床医学部でご活躍されていた中堅やベテランの先生方が、2~3人赴任されてきて、Dr.の特質、特性が示される中で、一層、症例の多様さ、深みが出てきました。そして間もなく、京都大学医学部出身の若手Dr.が、我が病院の小児科医として就職していらっしゃいました。小柄で華奢な先生とお見受けしましたが、胸中にはやる気を秘め、アウトドア派のご趣味をお持ちでした。早朝ボーリング、卓球、バレーなど、お誘いすれば、乗ってきてくださるというエネルギー感あり、笑えば可愛いロマンチスト。その頃は、大変な症例が多くあり、勉強熱心で、私達看護婦には、論理的臨床解析をして説明して下さるので、学びの満足感があり楽しくもありましたね。当然(断然)看護婦さんから頼りにされましたから、病棟の雰囲気は活気づきいつも笑いが巻き起こっていました。

さて、今日のお話はこの辺で終わりにしましょうか。次回編をお楽しみにお待ちください。

 

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なるほど!な話:春に「黄色い花」が多いのはなぜ!

このテーマを演出してくれたのは、3月6日(日)のウェザーニュース(LINE)。
日曜日の朝のモーニングタイムには、もってこいのホットな記事で、小さなスマホながらふだんに映し出される黄色の花が、丁度久しぶりに日差しの通る朝日で生きかえり、揺れているようにも見えて、しばし、コーヒーの一腹が美味しく浸みこんでくる。その爽やかで春爛漫感な話題を、ぜひお届けしようと意気込んで、このブログを書き始めましたが、LINE配信記事の二番煎じみたいな展開は、結構野暮やないか?と気にしてはいます…。

実は私、今まで、春の花は色とりどりの爛漫さの味わいを堪能していながら、「意外と黄色い花が多いねえ」 なんて感想を持ったことがない。言われてみて気持ち新たに、花屋さんの幾つかの店を通り歩けば、は~ぁ!?黄色の花が可愛い!な~るほど…そう言われてみれば~イヤ~確かに!!そうなんだぁ~!!
「ボケ~ッと見てるんじゃないよ~」「寝ぼけまなこで見てるんじゃないよ~」「シャキッと見るもんだな」!!なんて声が飛んでくる…ような…。

日本花の会研究員の小山徹さんが、説明して下さっているので、文面を要約してご紹介いたしますと、「花の色は何のためにある?」 という説明を通して、「早春から春にかけて黄色の花が多いのは、まだ色彩に乏しい山野で、黄色が目立つ色だからという事です。早春からいち早く活動を始める昆虫には、アブやハエの仲間が多く、これらは黄色い色に敏感だと言われている」 と。受粉の方法には、虫媒花、風媒花、鳥媒花、水媒花に分けられ、虫媒花は昆虫による受粉方法で、黄色に敏感な多くの昆虫仲間が活動するという事です。

そもそも花の色は何のためにあるのか?花の色は、昆虫を惹きつけるための生き残り戦略の一つであって、人間の鑑賞のためにあるのではないということになりますね。(トホホ…)
昆虫が花粉を運んでくれるかどうかが、花達の子孫を残せる鍵になるというのですから、昆虫たちの活躍により、黄色の花が恩恵を受けるとなれば、ある意味、先々の子孫繁栄が、保証されているようですね。花の繁栄の役割を担う昆虫たちは昆虫たちで、その習性に従って、いち早く黄色に敏感に反応し、生き残るためのさらなる、香りの良さ,蜜の多さを求めて必死の戦いを繰り広げているとなれば、昆虫はその役割を担っていると意識していなくとも、あのきれいに咲く黄色い花達の生命線に重要な関わりをしているのであって、昆虫のアブやハエの仲間達の、合理的で緻密で必死な自由を謳歌して跳び回るのを忌み嫌うことではない。きれいに開花させた花達とのコラボ活動は自然の摂理だと思って感心感銘するばかり。(しかしまあ、アブやハエが、わが身の周りを跳び回るのは、ちょっとご勘弁願いたいけれど…)。そして、時満ちれば花は花にして春めく独自の黄色い勝負服で凛として咲き示す。なんとも合理的で神秘な花の命の道程ではありませんか?

人間の目には、芽吹き時の勝負色(黄色)を見ても関心は湧きにくい。ましてや美味しい蜜の含みなど感じとる繊細さもないのではないかしら?幼くして芽吹き始める黄色い花!昆虫たちを呼び込み、昆虫たちの介添えで子孫を残していくというのですから、なんとも艶やかな営みで、自然の大きさを感じてしまいました。

早春の清々しさには、小さくして壮大な自然の営みが、数知れずあり、知れば知るほどに、まるで絵物語の楽しみがあるのですね。
遅まきながら、花を愛でる春の季節を感じ始めたこの頃です。

落ち着いたティータイムに、お庭や室内の花に改めて目をやり優しいまなざしで感動の言葉をかけてあげれば、花達は喜ぶにちがいない。また散歩時に出会う花達にも生命活動の関心を示し、賛美を送ってあげると、来年には、さらに良き色の花、甘い蜜、花の香りを発散してくれるのではないでしょうか。

 

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【第四章】 看護師人生の第一歩は、小児病棟看護婦から

教育学部養護教員養成課程での勉強は、あっという間の1年を経過した3月には修了証書と共に、養護教員1級免許の資格を頂きました。ですが私は、養護教員への道は選ばず、4月からは、元の所属病院に戻り、休職契約通り「看護婦」復職をしました。

頂いた辞令には、「小児病棟勤務」とあり「何故に私が小児病棟」なのか??
実は、私は、一人っ子だった所以か(?)小児認識が「好きとか嫌いとか苦手」というのではなく、「私と小児期の子供と病棟」のシチュエーション(立ち位置)が思い描けていなかったのです。看護部長(当時は看護部のトップは、総婦長の役職名でした)は、「貴女は何のために、児童心理学を、わざわざ1年間も休職して学びに行ったのか?」と問い返されたが、確かに、「児童心理学を学びたい」と1年間の休職を申し出たことを考えれば、当然の小児病棟配属になるのかもしれません。そこは素直に「あっそれはそうです!申し訳ありません。よろしくお願いいたします。」咄嗟の言葉で一礼し辞令を受けとりました。

ノンちゃん!しっかりせんかいな!! 慌てて認識を新たにして、子ども達の存在価値を見失わないように、子どもをそのままに受け入れることから始め、子ども達の看護婦さんになろう!と。私の心に、そのような電流の流れを感じました。

私は小児病棟勤務の辞令を眺めながら、入学試験の時から既に、小児科にご縁があったんだなあとつくづく思いました。私が看護学校入試の日、健康診査で私の血管が委縮してしまって採血が困難を極めた時、アッ!という間の採血手技で採取して下さったのが、小児科部長先生であったのです。その時は、何処のどなたか?また顔も認識できなかったのですが、柔らかい声で私を落ち着かせてくださった感触は覚えていました。私にとっては、お顔は知らねど忘れ得ぬお人=小児科部長先生であったわけです。部長先生の「所作とお声」、それはすごく安寧な親近感を覚えていて、小児病棟配属辞令は、私の看護婦人生の良き出発点になると思いましたし、私自身が看護婦としての存在(どんな看護婦になろうとしてるのか)の自覚を持つことができ、覇気が湧きあがってくるようで感謝でした。

総合病院を標榜する看護部は8単位あり、私は48床の小児病棟看護婦として10年間を過ごしました。当時私は、実際に子どもが好きなのか嫌いなのか?苦手意識を払拭できるのか?そんな躊躇感をもって働き始め、これからの小児病棟での働き(小児科医師と看護婦たちと病児たちとそのご両親様…とのこれから)を、とにかく何の手立ても持ち合わせていない私本人に委ねていくしかなく、それはもう、医師団をはじめ看護婦仲間の「立ち居・振る舞いをそのままに受け容れ、経験を増やしていけば、働く楽しさを覚えながら、心にゆとりを得ていければよいと。とにかく何事も経験値を高め、児と家族の方々との距離感に注意していこうと。しかし実際は、躓き、迷い、嘆き、喜べない、哀しみ、恨み、闘いに出くわし続けましたし、私の頑固で生真面目な主張や、不愉快さの顔相をバラマキしてしまうなど、調整しがたき私の振る舞いがあったと思います。今思えばなんという振る舞いをしたものか…。

病児とその家族たちとの良好な距離感は、病児の顔や所作に現れ、児の顔の輝き、声の力強さ如何で察知することができるということにも気づきながら、やがて1年を経過した時、病院付属の看護学校の小児保健・小児看護の講師を担当することにもなり、仕事の幅(キャリア)も広がり、論理性のある指導、学びのプロセスを大事にすることができるようになってきたと思います。

講師の担当は、私にとって日ごろの仕事上の経験や知識を、論理的に整理することになりましたし、健康・保健に関しては、特に小児期の成長を見守ることになり、患児達の成長発達・健康上の問題点・小児特性上の知識を受け止めていかなければならない慎重で意味深く学べる良き機会を頂けたと思います。しかし実際のところ、小児の背丈に目線を合わせ、小児の動揺(動きのリズムというのかな?)に馴染み込んで、病院生活の楽しみを、医師の先生方や看護師さん達と、創りだしていくという即興的(であったり)計画的な試みは、やはり簡単なことではなく難しく大変でした。

総合病院の中の小児病棟は、明るいエネルギーが満ちる一方、悲しみのどん底に突き落とされるような心の動揺が色濃く、児の家族の苦しみは、表しようがないくらい迷い、堪える、不安定な感情が交錯するという多様な体験を繰り返すということはしばしばあり、しかしとにかく「児を見失わない」一体感なエネルギーを保ちながら「生きる」手立ての限りを実践していくこと、児やご両親の悲嘆に寄り添い尽くすしかなく、私は希望を持ってこの状況に処していく…こんなことを学ばせていただいたと思います。

抽象的な言い回しになってしまいましたが、病児たちは「病」からの苦痛を抱えて病院生活の中に過ごし、生活と遊びのバランスはかなり制限されています。日々ストレスからの解放を得て、平安で笑顔の中に暮らす時間・場面は僅かなわけです。単に同情的に情緒的に優しく…ではなくなのです。

話は大きくぶれてしまうかもしれませんが、ナイチンゲールは、クリミア戦争時、戦地の傷ついて苦しんで横たわる兵隊さんの一人一人に、深く心を寄せて仕事をされた という伝記は、小さい頃から読み知り得ていたことではあり、しかし、成人して看護学校に学ぶ私達は、さらにクリミア戦争とナイチンゲール伝記をより深く読み解き、学びを得、看護の原点に感動したことを覚えます。小児看護に接し、現実に看護実践し始めていくと、このナイチンゲールの看護の原点を現実的に学んでいく事ができていくような感慨を覚えたものです。勿論、私などの看護力を、ナイチンゲールと比較対象するなんて畏れ多き事と承知していますが(苦笑)、希望のよりどころとして大きな力になってくると思います。

本日はここまでの私ストーリーです。今後は看護現場でのエピソードの一つ一つを思い起こしながら、話題提供して行きたいと思っています。

 

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2022年(令和4年)の始めに思う事

今年の干支は「寅」の年。干支は日本人にとって、日常的な馴染み深さがあるように思います。何故ならば、多くの日本人は、自分の干支を即答できる方がおおいようですし、十二種の動物が1周すれば12年もの年月を経ており、その事は我が加齢の意識に深く関心を持っていて、健康上の変化や体型を確認しているように思えます。

因みに私は「申」年ですが、猿の動物習性は、深く知る由もなく、悪知恵が働くとかなんとか言われながらも誇りをも感じており、初めて出会った人が「〇年の申年生まれ」なんて、自己紹介しようものなら、俄かに同じ穴のムジナの親しみを感じるという、瞬間親和魔というかおっちょこちょいなのも申年所以かな?

干支の習わしは、単純に陽気なコミュニケーションが生まれようというものではないですか。干支の所以を調べれば、中国から伝わったとされ、時刻や方位、物事の順序などに用いられ…云々ではあるのですが、私は、何度読み直してみても頭には残らず状態で過ごしております。

さて、一昨年、昨年、今年と3年間連続のコロナ感染禍が続いており、直近では、オミクロン株という変異種が、瞬く間に世界に広がりを見せています。ウイルスは、感染拡大の経緯の中で、独自の変異を繰り返し様々な変異株が発生するということですから、現在もまだその途上にあって、収まる気配がない。しかもこうした世界的に新型コロナ感染症の発生に於いて、今尚、その予防、感染防止対策、医療環境・体制は、国民性のあり方に左右されていて(と思われます)、国情・その国の文化性の違いが、こんなにも不協和な社会問題に発展していくものか…?と、びっくりしています。

経済への影響が大きく、私達の生活に深刻度が増し長引いている故に…人々の忍耐が持ち切れなくなるのは、他人事ではなく、誰しもがナーバスな反応になってくるという一定の理解は必要なのだと思うが、それにしても…?!?人の自由とは何ぞや?国の法規定とは何ぞや?国民性の習慣の違いとは何ぞや?今一つまとまりがつかない頭の中は、科学的・文化的・習慣的・慣習的、な違いに、どう方向性を見出して考えてみることができるのか?と思います。

 

2022年の新年を迎え、私は、3年間のコロナ感染禍のなかで、何を見つめてみることができたでしょうか?わが日本の、地域の食文化について、食材のもったいなさを強く感じさせられながら過ごしたように思います。

食材其々の生成過程は、簡単には操作できないし、特に農作物は、売れ行き具合を調整して保管できる物でもない。止む無く廃棄したり、畑にそのままに捨て置かれたりの場面は、ニュースや近隣の農地を歩けば目にする作物の放置。高齢の友人夫婦も、余生の楽しみに農作物を作っていたが、作り余りが多く、近隣に分けようもないと嘆いていて、聴かされる私も何の応えようもなかったのがショックでした。それでも、捨てられる運命の食材があり、変色し始めていようが、形が崩れていようが、喩え萎えていようが、打つ手なしの食品ロスを、目の前にしては、微々たる譲り受けに協力しながら、遠方にいる息子家族に繋げるべく策(野菜の佃煮、糠漬け、甘酢漬け、柚子漬け)なる保存食を作り置いたものです。食品ロス。他に打つ手はないのだろうか?

私自身、哀しいかな!良き御託が並ぶべく対策もなし。幼い孫たちには、私が作り置いた食品には、興味もなくスルーされてしまうという哀れを感じた次第。しかしまあ、そんなことには懲りずに、今年の努力目標として「食品ロスを招かない。食の満腹感を求めず、作物の一つ一つへの慈しみ感を意識しながら、感謝してほどほどに食すること」で生きてみようと思っています。

皆様其々の思いを込めて、齢の始めを歩み始められたことでしょう。お互いの健康を願い、元気にご活躍されますよう願っております。今年もよろしくお願いいたします。

 

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