希望的な活力を生み出す「キャリアチェンジ」

2025年度には、人口の大きなボリュームゾーンを構成している『団塊の世代』は、75歳以上の後期高齢者となり、医療・介護ニーズが、急速に増大します。
当然病床や人材を迅速・柔軟に確保できるよう、平時や感染拡大時の「状況に応じた対応方針を定めなければならない」というのは自明の事です。

地域における訪問看護の需要の増大に対応するには、訪問看護に従事する看護職員の確保が必要になり、在宅介護の需要の増大も伴なってくるわけです。

こうした状況の到来は、既に2000年初期に、2025年の人口動態に於いて
「超高齢社会、労働人口の減少」
が予測されており、危機感への認識が高まり、高齢社会の医療・介護体制の地域を包括する循環体制を整え、その充実化を進めていましたが、現実は、予想以上の速度で、超高齢社会・労働人口の減少・少子化(出生率の低下)が現実にやってきたわけです。
ある意味、この状況は予測されてしかるべきではあったはずで、既に現在、在宅系の看護師・介護職が不足している状況で、今後もさらに人材が必要とされるフィールドになっているのです。
殊に出生率の低下は、無策が招いた結果としての現状があると言っても過言ではないように思われます。

Indeed Japan株式会社は、25歳~49歳の正規雇用の転職経験者(現在就業中の正社員、会社経営者、会社役員、公務員、団体職員)の男女計8,399名を対象に、「未経験転職に関する調査」を実施し、現状の動向・問題点を発表されており、労働市場における人材不足を背景に、企業の未経験人材の求人や異業種・業界への転職が増加していることも示唆されています。

新たな仕事へのチャレンジやスキルの取得によって、キャリアの可能性を広げたいと考える人にとって有効な調査結果と思われ、未経験転職はひとつの選択肢となり得ていくのですね。

その様な社会の成り行き(変遷の動向)を積極的に認識するならば、異業種・業界への転職=(わが社のような)医療・看護・介護系の専門職へのチャレンジや、スキルの取得により、キャリアの可能性を広げてくることも大きく可能性は高いと希望を持つ次第です。
良き展望ではありますが、危機の中の展望の安定性は、やはり若年の労働者人口・高齢層の労働人口の増加を図ることに罹ってくるわけで、早期の突破口を創りだして対応していかなければならないのだと思います。

調査結果の要約をするならば、未経験転職の割合は、転職経験者の半数以上(54.3%)が未経験転職をしたことがある。
そのうち6割以上(61.3%)が「業種も職種も未経験」の転職をしたという事です。

未経験転職をした理由は、1位「給与を上げる」(25.8%)、2位「現状の業種・職種に不満」(22.5%)、3位「やりがい」(21.4%)や5位「新たな自分の可能性」「新しいことにチャレンジ」(ともに20.4%)という結果でした。

未経験転職の満足度においては、未経験転職をして「良かったと思う」人は61.4%、「悪かったと思う」人は全体で4.4%。
初めて未経験転職をした満足度は、年齢に関わらず高い傾向にあるといえます。
未経験転職を果たした人の「未経験転職」に対するイメージは、1位「新たな経験やスキルを積むことができる」(79.0%)、2位「新たな仕事やキャリアに挑戦できる⇒キャリアチェンジが実現できる」(77.4%)であり、35歳以上ではじめて未経験転職した人では「可能性の広がる転職である」が最多で8割以上(83.9%)という結果で、好感度が高いです。

未経験転職する人へのアドバイスとして、1位「年収や待遇などがどのくらい変わるのか確認しておく」(35.1%)、2位「自分のキャリアを振り返り、未経験でも活かせる強みを明確にしておく」(26.9%)、3位「無計画ではなく、先のキャリアを見越して未経験転職をしておく」(26.5%)という適切なアドバイスが発表されており、興味を持った次第です。

この事より学ぶべき見解は、人材紹介会社として転職希望者が、キャリアチェンジを望んでいなくても、面接時の特性から、気づいていないキャリアチェンジの特性情報を提供することが、大事な社会の活性化を図る一手ではないかと思われ、元気の出る社会情報であり、お互いの支え合いの情報提供が大事になって来ると思います。

このブログをお読み下さった皆さんが、何らかの形で刺激を受け、未来の自己像に思いを馳せる時、アイディアを浮かばせてみて下さい。
他人事ではない社会問題として、ご意見などフィードバックしてみるのもまた、楽しいことではないでしょうか?

皆様其々の2024年度がスタート!! 祈念することは何でしょう?!

令和6年(2024年)1月1日16時6分、石川県能登地方に震度5強の地震発生!

寝転んでTVを気楽に見ていた私は、ぎしぎし音と揺れを体感し、視覚に於いても我が家の室内は、明らかに横揺れ・重なりくる揺れの様相は、地震を認知し一種の恐怖感をもって直ぐに起き上がり、次に如何なる体勢でこの地震の流れを受け入れようか、不明快なまま、とにかく床に体を四つん這いに構え、如何なる地震にも即応できると思しき構えの体制をとって、ジッと地震の成り行きを、見届けていたと思う。

何しろ部屋では独り、親しき人影は何もなし。玄関の外にも人声のしない不備なる地震発生時の状況は、瞬時恐怖感を覚えたものです。

地震の震度が大きくなっていくのか?
これで収束していくのか?
息を凝らして、眼を凝らして頭を集中させるという3段の構えで、「如何様な地震の震度や揺れにこの身を守らなくっちゃ」という真剣な構えを真面目に整えて、様子を伺おうとした瞬間、TV速報に切り替わり、警報周知となって、ある程度、安心の構えに。
ちなみに、この時の石川能登半島で起きた地震規模は、震源の深さ:ごく浅い、規模:マグニチュード7.6という地震の概要だったようで、大阪市では震度4の影響。

これは、最近の地震の経験値としては、はっきりと身体感覚で相当大きな地震が捉えられ、TV速報が流れつづけていたので、独りよがりな恐怖心も湧くようなことなく冷静に状況を、受け止めていったように思います。
ところが、それ程間をおかず、津波発生情報が流れ、能登半島を中心にした日本海海岸の映像が映し出されると、その最初から目の当たりに見る海岸は、非情に不気味な「海のうねり」というか奢るなかれ、地震規模からして今から起こる海の不気味な静けさ?
白く波立つ巻き返しエネルギーの執拗さという表現が正しいのか?どうなのか解らないけれど、しきりに予告される白波の遠近感は、この期にジ~ンと不気味に迫ってくるあの映像は、身の引き締まる恐怖感が湧いてきたように思います。

地震規模・速報は、タイムリーにあちらこちらに能登半島全体が、地震の悲惨にさらされている様子を伝えるが、映像が無ければ、想像に難い。
翌日になって地震津波に侵食された光景は、言葉に尽くせず頭を垂れて立ちつくすばかり。

令和6年の始まりは、このような災難に遭遇して始まりました。
それぞれに個々人の方々が、遭遇し抱かれた思いは、多岐にあると思います。
TVのできる限りのタイムリーな映像から、その時に何をしないといけないのか?
どんなことをすべきなのか?

被災地に居る方々の悲惨な映像を負いつつ、ある意味、悲しみを共にし、良き結果を皆で喜び、経過措置に希望を失わず共有して応援し、支え合う温もりの距離感を実感し合う等、私は今回のリアルなマスコミの方々の取材力に、感謝申し上げたいと思っています。

現場には立ち会え切れないために、被害の大きさに対して、想像力が働かず、あるいは想像力の不足を補ってくれ、何をどんなことをする必要があるのかを、しっかり伝えて下さったように思います。

令和6年の始まりは、この地震・津波災害速報から始まりましたが、悲嘆にくれるのでは無く、学びの宝庫を得て、これからの弛みなく力強い前進の力を、国民全体に蓄えてくれたように思っています。

その様に祈り感謝して、新しき年の始まりのご挨拶とさせていただきます。

今年もまた、ワークステーション・メディカル事業部内で発信しております、ホームページや社員ブログを こよなく愛してお読みいただきながら、皆様と共に邁進してまいりたいと思います。

否!町(街)の中で熊さんと出会う!?今年の悲愴

昔(10代~2~30代初期の頃)は、「中学校生になれば、自主的に映画を見ることが許された」という時代でしたが、私は、経済的な制約もあり、映画への興味も薄く、積極的に見るほうではなかったが、母が、私を映画に誘って連れて行ってくれましたね。
そういう事もあって、年2~3回観る映画は、優しい少女系(いまでいうディズニーもの)が多かったなぁと思い返すのですが、時代背景的には、明治~昭和初期の物語。
村人の大人達が熊と向き合う視点が、凄まじい惨忍なシーン、毎年毎年、秋頃になると、同じ熊がやってきて、村の緊張が高まるという通説の背景の中で、映画の物語が繰り広げられたのでしょう。
実際、その時代の映画やTVで観た映像といっても、ほんの2~3本であろうし、また、きっとストーリーも、事件性のある衝撃度は、映像によって壮絶で衝撃的なシーンとしては、現実的な物語の素材として、恐怖感をあおるシーンではあっても、嫌悪感にはならない映画鑑賞の効果性は高くあったのだと思います。
私の脳裏には2回ほど見た別々の映画でのシーンですが、その頃の時代、熊の生態について、詳細には解明されていなかったのでしょう。
熊の生々しい闘争的で逃走的な表現は、どの映画も似ていたような気がしていて、大方詳細な記憶は残っていないにしろ、思い出せば、ひどい頭痛に見舞われる。
もしかして、映画に感化されてしまって、手出しのできない、受けつけることのできない「くま」像が出来上がり、「クマ」という音声を聞いただけで、身体が硬直するという素早い反応が、癖になっていたのかも?

であったにせよ、「森のくまさん」の歌を聞けば、振り付けまでして、可愛い熊さんを体現した可愛いダンスを踊っていた私は、ほっこり熊さんのポーズ10体くらいは、色鉛筆画で描いたりして楽しんでもきたのですけどね。

年齢を加え後期高齢者になった6~7年ほど前、従弟夫婦と3人で、高槻市にあるポンポン山に登った時、その登り口から既に「クマ出没に注意!!」の看板が、10mおきに掛けられていて、山中、かなり緊張しながらの登山。
こんな山でこんな看板ってどうなのよ~!?
白む気持ちに支配されないよう、殊更大きな声で話しながら山深く登っていきましたが、山頂で良き景色を眺め、ゆっくり弁当を食べて、何事もなく無事に下山し終えたのを思い出します。

が、それから間もなく、ここ2~3年は、クマ被害のニュースが多くなってきたので、急にまた、何故これほどに多くの熊が里山・街中に下りてくるのか?
熊による被害は多くなり、今年は特に多く報じられています。
痛ましく背筋がぞっとするニュースが多く放映されているのですが、この現実、こんなに悲惨で多くのクマ被害をどう受け止めればよいのだろうか?
と、この頃は、恐れをなす一方で、私は、他人事のような温度感でもって眺めているのですかね?(酷いですね)。

 

丁度、ラインニュースより、愛すべき熊の生態に関して、著述家・亀山陽司氏の著述を拾い読みしましたので、熊の特性情報を要約して以下にまとめてみました。

日本の熊の種類は、ツキノワグマ(本州以南に生息)と、ヒグマ(北海道に生息)の2種類で、ヒグマの方がツキノワグマより狂暴だという事です。
本来、熊は、動物を襲う事は多くなく、主食は野菜・木の実(蕗、桜の実、トウモロコシ)・昆虫であり、熊は基本的に警戒心が強く、他人に近寄ってくることは殆どないのです。
造林地のように、隠れる場所もなく、見晴らしの良い所であれば、熊は近寄らないのです。
(そういえば、高槻のポンポン山は造林のようでもあり何となく見通しのよいすっきりして雑木林だったかな?大袈裟に恐れることでもなかったのかな?)
しかし、ヒグマの危険性を侮ってはならず、不意に山道で出会い、ヒグマを驚かせてしまうと、襲われる可能性は高い。
そして、ヒグマの糞は大きく、他の野生動物とは段違いなので、熊の糞であることが直ぐ解り、糞を見れば、何を食べたのかも大方解るということです。
(最近の一連の熊捕獲のニュースにも、糞から人の肉片や頭蓋骨片が見つかったというのを聞いたことがあるように思います)

さて、こうも熊との遭遇件数や、残酷な被害が多くなったのか?

それは、山の中で十分な食糧が得られないから!!これが最近の山事情。
今の時代、これだけ山林が無味乾燥な住宅地に、開拓造成されたら、山菜・木の実のなりようがない。
木の実で熊の腹を膨らまそうとすれば、大量の数が必要で、特に秋口は冬眠に備えて蓄えなければならない。
(どれだけたくさんの食糧が必要か?想像しにくいが、そういえば、パンダは新鮮な竹の葉をしょっちゅう食べているけれど、あの竹笹にも色々な種類があって、パンダの好みも微妙に違っているようです。しかしあれだけしょっちゅう食べていれば、相当な量を運ばなければいけないようですから、毎日の竹笹が十二分にないと、多くのパンダは飼えないという事情があるようです)

少しばかりの熊情報を書き込んでみましたが、熊を恐れることなく+熊情報を得て具えてみるのも悪くないかな?

絵本の中の熊さんへの親近感 対 野性の熊を見た瞬間の警戒感、襲われた時の恐怖感は、相容れない感覚ではあるけれど、山郷に暮らす人々の「熊」への理解というか、共生意識は、優しくて厳しい眼差しがあるように思います。
山郷の季節季節の産物の様子を伺いながら、限りなく熊への愛情を注がれているように見受けます。
いつか、人間と野生の熊さんの共存共生しあえる(というか住分けて共存するという)環境が出来上がっていくのではないか?との期待感は、ものすごくあります。

私達が、無下に恐怖感に縛られて逃れ無き環境からの打破に、信頼と理解をもって生命を営む日がやって来ればと願っています。

今は秋。あるがままに語らい、咲くがままのコスモスの花を愛でれば

色鮮やかで、色とりどりの秋の花はコスモス。
風まかせになびけば、それがまた、赤・白・ピンク・紫・黄色の花が、しなやかに揺れ動く。
慎ましく自由で、切なくて可愛い。
醸すその佇まいが楚々として柔らかく、身体の深部までに流れてくる心地よさを感じてしまいます。
実際、コロナ禍にあっても、そしてまたコロナ禍が一段落したその後に於いても、楚々として風に揺られるままに咲いているではないですか…。

色とりどりに咲く美しい花と言ってしまえば、それまでの花の命。
否否!コスモスの花は、何故に美しく切なくて、きれいな詩歌が生まれるのか?などと絡んでみたくなりますよね。
秋はコスモスの花という誰もが知っている季節花であっても、飽きることはない。
眺めれば話したくなる私の話も、飽きることなく何度でも…ってな訳なのです。

コスモスの花は、細く繊細に枝分かれして、高き枝であれ、小さき枝であれ、不揃いな色・不揃いな背丈のコスモスたち。
風が吹けば、一斉に風にそよぎ、風になびき、花弁は揺れ、枝葉は風になびき、風に歌い、風に踊るという佇まい。
高原に群生しようが、野辺に咲いていようが、私達を爽やかに誘い入れてくれるのです。

誰だって思わず「ワオッ!! 綺麗!! 可愛い!!  爽やか!!  幸せ!!  泣きそう!! 切ない!! 」

そんな歓声が上がってくるのではないでしょうか?。

 

さて、コスモスのお話は、ちょっと中断致しまして、ここ最近にぎわせている話題と言えばこの話。を少し取り込んでみましょうか?

何だかんだと世間を騒々しくさせている「芸能社:ジャニーズ」の問題は、“如何にも”らしく喧々諤々の社会現象。
かような問題を引き起こした問題の根本は、ジャニーズという芸能大会社の最上層部の人(達)だ。
だがしかし…と思わざるを得ない、もやもや感が、頭をめぐりとても「うっとおしく」「空々しい」。
そこに映像が流される何事に於いても、(被害者の方々は別として)社会的に見た場合、この何十年間、問題を感知していながら放置してきた「情報発信社=マスメディア」や、解っていて乗っかっている芸能人も、しっかりと多くいるわけで、僅かな方々が、懸命の救助要請をやっとこさ表明するや、怒涛の如くうねりを増して「重要な社会問題」へと認識拡散したという、皆様ご存じの経緯があるわけですよね。

そして今、問題解決への対応が継続しているのですが、マスコミの報道・対応は何かしら、今尚白々しく感じられるのです。
私自身、内容的に詳細を知っているわけではないので、深入りなコメントを記して申し上げることはできませんが、この白ける感は、一人の思いとしてお伝えしても良いかな?との思いで書いております。

社名のジャニーズを改名して、一応、出直しを図るため、従来の社名を棄て、新たな陣容で新社名を標榜して「新社の出発」を表明しました。
しばらくは、多くの重要な問題・課題の整理、対応、対策に追われ、意思決定して行かねばならないプロセスは、多くの困難な課題に立ち向かい、そこには意見対立・路線選択の決定課題が、重くのしかかっていると思います。
決して安直な決定は出来ないでしょうから、何度も何度も繰り返し行われるのであろう検討は、多岐にわたるため並大抵にはいかないでしょう。
あまりにも多岐にわたる生身の人間を対象に、対応していかねばならないのですから、社会に叩かれもするでしょう。
問われるべき責任が大きすぎ、多すぎるように思います。

周囲の特にマスコミは、他人事に突き放して話題にしていくのではなく「マスコミの責任」はどうであったのか?
そこをしっかり、社会の重要な責任と役割を担っている組織として、大いなる社会的役割を示していただきたく願うばかりです。
私は、マスコミの攻め方は、狡いし怖いなあと思っている次第です。
ある意味、少なくとも社会の味方であるはず(と思っていて)、マスコミの検知力、探索力は、如何様にも発揮でき、解決への意見を具申する事も発揮できたであろうにと残念に思います。
マスコミや週刊誌の方々こそ、もっと必死になってお働きになって、建設的意見を伝えていただきたいと願います。

このようなブログ展開は、これまた、私としてはどうよ!!
とも思いましたが、コスモスの花咲く野辺を歩き、風の爽やかさとコスモスの花達の揺れ動く爽やかな群舞(というほどではないにしろ)、ゆらゆらしなやかに咲き生きるは、私達に仕切り直しの穏やかさ、もしかしたら我が身もそのように巻き込まれてしまうかもしれない危うさの同調感をもって、爽やかな芸能活動・芸能界の発展の歩みへと進めていただきたいと思った次第です。

ええ格好でもなんでもなく、何か社会の中に潜む魔物を、皆で対応して変革していくべきと思う次第。
一方的責任論を、今引き受けたばかりの(しかも芸能人として生きてきた)人達に追及しているようで、それ自体ちょっとおかしくないか?
芸能雑誌社、新聞マスコミ等も、やはりキチンと建設的な提言を交えて、社会的対応をしていただきたいと願っています。

私達一般人は、一生懸命働いて、僅かな娯楽の時間を思いっきり楽しみたいわけです。
一方的責任追及ではなく、マスコミの方々共々に、これからの健全な姿勢をご検討いただき、積極的な芸能社との交流を創造していただきたく思います。

付録:コスモスの花について
【四季語】
秋桜、おおはるしやぎく

【解説】
キク科の一年草。高さ二メートルくらいになる。葉は細かく裂け、茎はひょろひょろと伸びる。九月から十月にかけて白やピンクの花をつける。花弁が桜に似ているところから、秋桜ともいわれる。

【科学的見解】
コスモスは、メキシコ原産のキク科一年草であり、日本へは明治以降に導入された。花の美しさから、庭先や花壇などで栽培されている。花序は、ヒマワリと同じ構造で、中央に筒状花、縁に大きな舌状花が並んでいる。別名としては、アキザクラやオオハルシャギクとも呼ばれている。(藤吉正明記)

他人事ではない 医療界・介護界の労働人口減の現実!!少子高齢社会:労働人口の確保とAIという労働力との共存

最近、新聞・雑誌・TVなどは、日本の労働人口減は確実に進行中で、深刻な社会問題として特集されていて、また毎日、ニュースを見ていると、何かと高齢者の深刻で悲惨さを伴う問題提起なニュースが多くあるように思います。

次世代に繋ぐ希望的な未来への展望は儘ならず、一瞬、警戒心を高められてしまいます。がしかし、立ちどまって危機感を意識化することはなく、そのままニュースの流れに身を任せながら、やはり他人事にしてきたようで、今改めて反省な気を持ってこの文章を書いているのです。
日本の少子高齢社会は、著しく労働人口の減少をもたらし、社会全体が悲鳴すらあげるほど、人材不足の影響は大きくて深刻。
給料が高い・低いとか、綺麗・汚いとかの仕事ではなく、何しろどの分野においても、人材確保そのものが困難だというどうしようも動かしようのない、社会状況になっているというわけです。

私は、表記のお題で、医療界・介護界に焦点を合わせていますが、国全体の危機であることを受け止め、この問題の深刻さを意識して書かないといけないなと思って書き始めましたが、どうも記述の焦点が定まりきれないままに書いているように思われます。

労働人口減少の問題に関して、既に誰もが、その深刻さをキャッチしているのでは?特に若い方々のほうが、自分たち若者世代を強烈に意識していて、働き方の仕組みをリードされているのかもしれないが…。

労働人口の減少の前提は、1970年代半ばに、出生率は2.0を切って以降、1990年代には出生率1.5に低下し、その後も歯止めが効かず、確実に少子化が進む一方、既定の60歳定年制は、延長・改善されないまま(むしろそれまで一生懸命働いてきた人たちにとっては、老後の夢と描いたその後の生活の形や、余生の過ごし方に希望を託していたのだったが…人口の少子高齢化が進む事への危機の到来に関して、結構広報されていたと思われるが、危機意識の高まりにはならなかったという事なのか…?)

日本の未来の問題としては、既に2010年頃には、少子高齢化は確かな予測値(統計値)を捉え、危機の到来を防止すべく政策をとってきたことではあるが、有効な政策の一手を認識できるものではなく、流れのままに、国の平均寿命は順調に伸びて高齢者の健康寿命政策の徹底は結構順調に経過しているようにも思え、最近は60歳定年制が、65歳、70歳にまでも延長され始めているようで、場合によっては80歳にまでも延長している会社もあるようです。
社会は、若年者の労働不足が著明となり、歯止めとなる有効な手段がない中で、60歳定年制の改定・延長、健康寿命の延伸を図りながら、高齢者の労働力確保(人材の有効活用)に力を入れざるを得ない状況です。

この傾向は、私自身が既に当事者であるので、高齢者の就労の感想を述べるならば、「元気で生きている間は、やはり働けることは良きことだ!人生の終盤の生活に張り合いが持てる」と言う事にもなります(但し、労働時間の短縮と余暇の楽しみのバランスがお気楽に保証される事が前提となりますが…)。

確かに高齢者活用は、将来的な展望として、労働人口減の潮流を堰き止める効果になるのか?というと、簡単にそのような引き合いにはならず、少子高齢社会の歪みは顕著になっているにもかかわらず、有効な政策上の展望も引き出せず、若者の労働人口の減少・学生人口の減少、に関わる出生率の減少の解決の芽が一向に出てこない。
世の中、既に世界的には多様性の受け入れを主流に回り始めているが、その傾向を否定はしないが、多様性を容認する色々な事象に対して、私自身は、まだまだ構築しえないし、問題の焦点を合わせにくく感性が育まれていないような気がします。

日本の労働力人口とは、15歳以上の者で、就業者及び就業したいと希望し、求職活動をしているが仕事についていない者(完全失業者)の総数をいいますが、こうした社会現象を丁寧に見直すことも必要なのでしょうし、見直すというよりも、離職者・求職者の活用の方向で、有効な手段を考えていかなければならないと思い、世の中の見失ってはいけない財産を丁寧に掘り起こし、適正な教育を施し、簡単に見捨てる、捨て去る事なき、人材の育成を促していく必要があるといえるのでしょうか?

最近、凄い勢いでAIの活用が、本格的になってきていて、あっという間に、デジタル業界、放送業界、販売業界、そして医療・介護業界に浸透してきています。労働力不足を補っているということになるのか、業務の複雑化の緩和というのか、目に見えない、理解不能なまでのAI活用が、速いスピードで押し寄せ、実用化してきている事には驚きです。というか理解不能な速さで拡散・拡大しているのですから、違和感とか理解できなくて付いていけないとか、感想を述べている場合じゃなく、既にそのシステムに乗っていかざるを得ない。凄い世の中になってきたものだなぁなどと、のんびり感想は言っておれず、ひたすら、解ろうが解らないだろうが、AIの誘導・語りかけに乗っていかないといけないのです。

“AIが、労働生産人口を救う” そんな世界が出来上がってきたとき、医療・介護に携さわる私たち人間は、どんな生命観、価値観をもってはたらくことになるのだろうか?AIについて、何の知識もなく、理解不能な私が、今は、黙して、成り行きを見守るしか無いようです。が、もう少ししていつか、誰かさんや先輩たちと、こうしたことを語り合い、理解して受け入れていく時が来るのを楽しみにしているのです。

シニアマンション暮らし~「高齢者の多様性」~黄昏てこそ面白く~

私が、「シニアマンションに暮らしている」ことを、私の友人達には、好意的に見守っていただきながら、引っ越してまもなく1年を迎えることになりました。生活は安定しており、かかる経費は、まだまだ気をつけて運用をしなければならない危うさがあるけれど、贅沢な出費を避ければ、なんとか持ち堪えることができていて、安定した心地良さを保っています。たまには贅沢を…と気楽に展開してみるものの、図に乗るな!油断大敵!と、多少の緊張感を持って慎ましく、暮らしの快適生活が身についてきたように思います。

年齢を重ねながら示されて来る体力の減退は、日々変動する
体調不良感を加速させ、不愉快さと健康への怯えを意識するようになってきます。こうなると老齢への警戒感が増幅してくるばかりです。同じマンションで暮らすシニアの皆様を眺めれば、1年前よりも住人数は倍になり、程よい速度で増えてきました。それ故、個々人のお顔を覚えやすく、親しく会話も交せる日常です。

我がシニアマンショへの入所年齢は、実は50歳からの入居が可能で、その若さでご入居される理由に合理性はあるように思います。ご夫婦での居住は、夫妻のどちらかが50歳、どちらかが60歳以上の組み合わせも多く、また働き盛りの独身女性及び男性の方は、早い目の老後対策・セキュリティー対策を考えて入居されているようです。シニアマンションの名のもとに、居住者達の年齢幅がある程度、広く設定されているのは「これは良いことでもある」と居住し始めて私が了解できたことです。「シニアマンション」イメージの多くは、「食事は、お粥のような柔らかいものばかりで…。老人食って嫌よね。いつまでも歯ごたえのある美味しいお食事を食べていたいものね~。早くから入ると、すぐ老けてしまわないかしら~!ね~?」この問答が多くあるようですよね。

しかし、これからの社会では、こうしたイメージは払拭していかないといけないと思います。館内の人々の活動エネルギーは、高齢者の鈍麻さというか、テンポの緩やかな漂いは多少ありますが、多くの場合の日常生活状況は、「身体を動かす、声を出す、笑って過ごす、周りの動き・変化に興味を示す」などの活動が継続し、慎重になり過ぎることもなく、時には、住人が「敬遠する大声もあり、面白くないお話を大声で仕掛けてくる」などもあり、そのような場面で困っても、私一人で負わなければならない話ではなく、他の人のお力添えなる「お気楽な声掛け・笑い・まあまあええやないかの受け応え」が入ってくるのです。不愉快さは忽ちのうちに、年期の入った黄昏語録は面白く笑って流し去っているのです!!

ところで、老後をどう生きていくのか?希望的に、準備万端の具えを整えていくのは、何歳くらいの時に具体的に考えていくものだろうか?いやいや自分の人生観を以って生きながらえていかないと…。
私自身、転居するなら齢70歳後半の今が最適の時、しかも夏場前に!と決め転居、このシニアマンションの住人になって以来、日々の生活に対する満足度は高く保っています。この一年、限りなく老いに向う自覚は確実に増え、体力減退の自覚、日々体調不良感で警戒しまくりです。周りの他の住人の方々も、体調悪化・緊急入院など、転居してきてこれからの生活を歩み出したばかりであっても、急な健康上の変化で、人生終盤への覚悟をしているとはいえ、明日はわが身に襲い掛かってくる変化は油断できません。幸い、受け皿であるマンションの体制・仕組みは、高齢者の自立支援の生活枠組みを解り易く提示してくれています。人生の終盤を生きる満足度が高められ、安心できるを担保に、快適であることをキープしたいものです。

ところで、70代が「老いの分かれ道」といわれ、既に子供や孫たちとの価値観は異なり、寂しさと理解されない悔しさを味わうことしばしばですが、世の中の「多様性」に呼応して、シンプルに、老人のカテゴリーの中での多様性と、融和で柔軟なコミュニケーション態度を養わねばと思っているのです。50半ばの方が入居されて、足腰の不都合な機能を杖に委ね自立歩行されていて、時々、「痛みは無いのですか」と尋ねれば、「いえいえもうホントに痛くて痛くて…、自由がきかないものですね~」と、穏やかな笑顔で答えて下さいます。
また、会話の不自由な60歳前後の女性の方は、エレベーター内、ロビー、レストランなどで出会えば、ゆっくりゆっくりお口の形を整えながら、聞き取れる限りの口話で話しかけてこられます。決して媚びることなくご挨拶されますが、しっかりお顔を見てお話を聴こうとすれば、齟齬なく聞き取れて、面白く語られる事もしばしあります。
また、ご主人が時々、廊下中、洩れ亘るほどの大声を発するのですが、この夫婦が、レストランで食事される時、ご主人は大きな声でビールを催促されます。高齢で腰の曲がった奥様は、お膳立てされた食事セットをテーブルまで運び、ビールの缶を開けて注ぐという一連の行動を実行されるのですが、何かにつけて夫さんは妻さんに大きな声で注文されるのです。ご主人のトンデモナイ癖ある注文は、このご夫婦にとっては了解し合っての日々の生活なのであって、何ら問題なく、むしろ、このような関係が無くなると、その喪失感の方が大きな問題となってくるのでしょう。
これが源点となる営みを通して、生かされるままに生きているのであり、「世にも不思議な夫唱婦随」の営みであると思うところです。妻さんが申すには、どれだけ怒鳴られ、面倒を掛けられようが、夫も私の苦手の生活負担を担ってくれているのだと。夫がいないと私は生きていけないのですと。喜びの中で夫を支えているというまさかの不可思議な申し分!!を、周囲の私達は、今では微笑ましく見守っているという状況です。

話を解せば「夫婦の形は如何様にもあるのだ」という事でしょうか? 私達は、結局、住人の人々から限りなく「儚くて面白い黄昏時の人生模様であり、今どきの多様性と受け止めれば、毎日が、可愛くて切ない人生、黄昏てこその物恋しい「多様な生の形」があり、「私自身の生活」もちゃんとあるのだと感謝を思います。

日々、黄昏時の静かなひと時、仲の良いご老人友達とレストランの窓際に身を寄せて食すれば、時は静かに流れ、一日の終わりの無事を「あゝ今日も、何気に楽しい一日でしたね~」で終るのです。

“子育て”の窮屈さ(ママのジレンマ)の在り処

最近の話。週刊誌?(新聞?)だったか「……ママたちのジレンマ」という見出しの記事が目に留まりました。本題の主旨は「日本には、社会で育児する という意識がない」…と断じた衝撃的な表示。解決されぬ社会問題と心得て読んだこの記事は、 旧くて新しい昔からの“あるある話”。そして私自身、記事と同じ場面に幾度となく出くわしていますが、不遜ながらママさんの在りようによっては、目にしなきゃよかったと思う場面もあり、ちょっと、おざなりな見つめ方をしてきた後ろめたさを感じたものです。

世の中、経済活動を活発にする景気浮揚策として観光事業が盛んになり、国内外旅行の手続きの簡素化・便数増・セット割企画等々、便利さ盛り盛りの観光施策が多くなりました。「自分の楽しみ世界」観が広くなり、経済感覚というか育児感覚も怖いもの知らずというくらいの「これくらいの事、普通」になっているように思えます。首の座らぬ生まれたばかりの(?)乳児を連れ、国外・国内旅行するはもう不思議でも不謹慎でもない。とにかく乳幼児の身辺用具(離乳食~オムツ~衣類など)は圧縮・ディスポ化して身軽に持ち運びでき簡便になって、旅行の簡便さ利便性は目をみはるばかり。小さい子ども連れ家族旅行は当たり前になっています。

ところが一方で、子育て中のママさん達の日常生活の現実はどうでしょう?まだまだ多くの理不尽で未解決な難題があるという事を理解してますか?という事です。

さて、“子育て中のママのジレンマ”の話に戻せば、大通りや路地の道を行き交う人々の多くは、子どもや大人に限らず、大声で語らいながら歩いたり流れを止めるようにのらりくらりしながら話し込んだり…そして、ゾロゾロとうるさく、時にけたたましい笑い声や甲高い声に、実にうんざりする光景に出くわします。人の往来がスムーズに流れていれば、毎日の事であろうと多少の停滞感を受けいれ(多くは普通に受け容れて)流れに乗じて歩きもするのですが、電車・バスの中(所謂、箱物の中)では、大きな声や笑い声、若者の甲高い声が行き交うと、とどまり知らぬ騒がしさや混雑さ感が増幅し、そこに、大きな荷物や乳母車が加われば、この混雑に何故?との無言の迷惑目線、わざとらしき声で「何でなんだよ」の呟きが痛く突き刺さるものです。常にそのような状況の中を潜り抜けて嫌な思いを経験しているママさん達には、気持ちが打ち萎れてしまうという嫌みな経験になるでしょう。が、これが長くいつまでも解決していないか、解決の目途が経たないままというわけです。そして本題の「ママたちのジレンマ」となっている解決できない難題が、そのままにして長引けば、「日本には、社会で育児するという意識がない」という問題提起になってくるのです。

私自身、残念ながら “わりと日常的にある話”が多くあったので、びっくりしましたが、長く改善されない現代の社会問題(少子化・子育て環境)だという事です。世の中、晩婚化、結婚回避、そして夫婦共働きの増加があれば、少子化するのは、日本だけの現象ではなく世界的に共通している部分も多くあるとは思います。夫々の国が取り組む“社会で育児”の在り方にはいろいろ方策が見えてくるものがあり、そこから知恵を学び、取り組んでいかなければならないのだと思います。そして日本は、核家族の時代から多世帯同居(住宅)へと積極的に取り組んでいくべき問題ではないかと思います。現状は、狭き住居が多く、大きな家や集合住宅は空き家となって朽ちていく状況も多くあるようで、保育園不足や学童保育の環境・設備と人材不足、これらの現状を考えれば、こうした問題が重なり合っているにもかかわらず、解決の動きが見えて来ないという事なのでしょうか?

ジレンマのあるある話の中で、重要な問題だと思う一つに、「混雑した場所でベビーカーを押す、混雑した路線バスや電車に乗車するなど、母親一人で、乳児1人ベビーカー+幼児1人連れ、あるい2人乳児用の乳母車を操作するとなれば、誰しもこれは大きな“ジレンマ”になるのは自明の事で、ママさんの悲壮感・孤立感を思いますし、これってホントに、心が押し潰されそうになります。

勇気を持って、「スミマセンがベビーカー移動を手伝ってください。」「ベビーカーを置くスペースをお願いできませんか?」と声を出しての救助を頂く意思表示をするのは、簡単にできるものではない。社会の理解が、そのように受け容れる雰囲気になってないと、なかなか言い出せるものではありません。現代の社会は、まだまだ寛容な受け入れに至っていないと思われます。ママさんが、児をベビーカーに乗せてマーケットなり保育園などの目的地に行く道程には、人ごみの中を通ったり、電車やバス時間に間に合うようにと急げば、慌ただしく小走り気味に乳母車を押して行くのを見ることがあります。人々に、「すみませ~ん。ありがとうございま~す。申し訳ございませ~ン」頭を下げ声掛けしながら急いで行く…。こういう時のママさんの心情は如何に?悲愴だろうなと…。

多くの子育て中のお母さんたちは、解決され得ぬ「育児の日常生活上の社会的ジレンマ」に、覚悟の日々を過ごされているという事を受け止めなければと思います。

私なりに想い出せば、外出の先々で、何かの所用で、乳幼児2人(または1人)を連れて、電車かバスに乗ってこられた親子・児に出会えば、乳児、幼児の目線を負いながら手を振ったり笑いかけたりをしてみます。当初は無反応、乃至はそっぽを向くのですが、たいていは興味を持つのでしょう。しばらくしてこちらの方に目を向け、目が合えば素早く顔をそむけ…を繰り返し始める(可愛いッたら、ありゃしない)再び応じてアイ・コンタクトすれば、照れくさそうにニタッとして…。やがて三度目の正直、たいていは馴染んできてくれる。知らん顔のお母さんも居るにはいるが、多くはにこやかに頭を下げて下さる。しばしの赤ちゃんとのジェスチャーコンタクト?をすれば、寸時の「私と赤ちゃん・幼児」対話を感じるのです。ママさんのお顔は、大概、嬉しそうで優しそうで穏やかな表情を返して下さると、私はしばしの時間を楽しむことができます。私の子育て社会参加は、まだまだこの程度。ママさんのジレンマの解決に至らないが、「あるある&よくある」ジレンマに、関心を寄せれば、少しずつほぐれてゆく手がかりが得られるのではないかしら?しかも誰もができうる接点を持てて、寸時の繋がりの善き時間ができると思うのです。

社会的問題解決の政治的施策が具体的に打ち出されることを祈り、知恵あれば発信して「ママさん応援隊」に絡んでいくことが大切だと思った次第です。

 

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◎看護師のお仕事探しはメディカルステーション

明けましておめでとうございます

2022年寅年を終わり、2023年の兎(卯)年が始まりました。
皆様如何なお正月をお迎えになりましたか? 私は、元日の朝、新年のダイアモンド富士の素晴らしい輝きに希望を託し 良き御年の始まりでありますように とお祈りいたしました。

朝食膳は、御雑煮・お節のこしらえが整い、思わず「ワァ!美しいお膳立て」に喜び、「お餅は喉に引っかけないよう気を付けて食べましょうね。食べるのもったいないわねえ。美味しいわ。」さんざんたらたら、交々の感想を表現しながら頂き、幸せなひと時でした。考えてみれば、このようなお正月模様なんて、私の経験値としては、けっして記憶がないものだから、妙な気分でしたが、ね。元日の始まりはこうして始まり、シニア・マンションの3室離れた10歳年上の高齢のお仲間さんと出会えば、「もう神社にお参りされましたか?」と年の初めのご挨拶を受け、新鮮で清々しくお優しい響きを感じました。何気に有り難き新年が醸す交感を思ったものです。

高齢者集団の中に暮らせば、お高くもなく低く控えるもなく、年相応の所作があって、昔懐かしい空気を感じました。気分はもはや後期高齢を歩む私に閉じ込めることなく、すんなりとこの齢までの「生」に感謝したものです。この感覚、不思議ではあり、また可笑しくもありでした。

皆様の23年の始まりに託す願い事は、何でしょうか? 多様な社会情勢の中で、自分自身を生きていくのは難しいこともありましょうが、今年は卯年!!卯年の特徴は、愛嬌・義理堅さも見せる・ユーモアのセンスがある・起用で要領がよい・等々、そこそこの良き特徴を捉えて、跳ねてみてはいかがでしょうか?

今年も ワークステーション・メディカル事業部の発展を祈念しまして、よろしくお付き合いくださいますよう、皆様のご活躍と健康をお祈り申し上げます。

 

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◎看護師のお仕事探しはメディカルステーション

寅年の終わりに、改めましてこの一年を振り返りご挨拶申し上げます

寅年のこの一年は、この一年はというよりも、2019年末より収束することなきコロナ感染の蔓延を繰り返してきた3年間は、世界的にも日本独自においても、個々人それぞれに、経済活動はおろか、日常生活へのマイナス影響が大きく経過してきました。

何かしら、生活上の多くの事を学べたように思いますが、生活の変容は価値観をも変更せざるを得ないような雰囲気にも惑わされるという、生活の基準や、人生観の変容・是正せざるを得ない何ものがどう正しいのかも解らなくなっているように思われます。すでにこのように記述している私自身、どのように述べ立てるのがよいのやら?思案するばかりなのです。

改めて、皆様にとって、この3年間、否、2022年は如何なお年でしたでしょうか?

医療の世界は、社会的貢献・活動に於いて、この3年間は主軸となって社会の協働体としての働きを提供してきたのですし、学びも多く有意義な社会的医療活動をされてきたのではないでしょうか?色々な時々の新しく巻き起こされる現象に翻弄されながらも、医療従事者・介護従事者・福祉従事者の連携上の社会的歪なども明らかになり、不足・不備有る状況下にあって、現役でこの厳しい感染症パンデミック禍を切り抜けるべく英知というか、日常生活的な知恵が提供されるなど、それに伴う新たな歪などへの対応のために、そこかしこに従事されてきた方々には、幾重にも、感謝あるのみと思うばかりです。心から「ありがとうございました」と申しあげます。

そして、まもなく新しき年2023年を迎えます。本格的な厳しい第8波が今蔓延して、医療状況は、やはり厳しくなってきております。これまでの取得した知恵や工夫、定型化して日常生活の中に馴染んできた感染対策に、留意して、安直で惰性的な生活態度を自重しながら、これ以上蔓延しない、させない新年で在りたいと思います。

皆様の新しき兎年の2023年が、良き年でありますようにと願い、お祈り申しあげます。

 

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◎看護師のお仕事探しはメディカルステーション

シニアマンションの住人達あるある話 ≪2≫

シニアマンションの住人は、3月→5月→7月・8月・9月→10月→11月の経過を巡りながら、12月現在に至って、次第に増加してきています。

盛夏となる7月~9月期は、さすがに夏場の暑さが堪えるためでしょうか?お引越しされる新入居者はほとんど無く、例えば、温泉浴場やレストランの込み具合は、2~4~6人程度で、ま、閑散としていると言った方があたっている。時間差を狙っているかのように利用しに来ている状態で、一人一人のお膳が用意されるまでの時間は、長待ちしなければならないというような状況にはなく経過している。今の所、レストランは広すぎて、食事を介して出会う皆さんとゆっくり雑談を交わし食事時間を楽しむという雰囲気作りは、ちょっとできにくいのだろう?!また、昼膳にせよ夕膳にせよ、1時間30分という時間制約を受ける中で食べないといけないのですから、少々急かされ感があるのが、正直なところ残念に思っています。これが、居住者数が増していけば、大混雑が起こって来るであろうし、早食いを強いられはしまいか?と、心配しているのです。

私達高齢者は、何かにつけて動作が緩く鈍く時間が掛ることが多くなってくるわけでして、そうなると高齢者の食事風景は、話なんか交し合う時間もなければ、そそくさとなんとなしに、静かに(無口に)ひたすらに(大雑把で孤独な)食事行動をしなければならないのでは?とやや不自由感を以って眺めているのです。

コミュニケーション(情報交換・安らぎ)のゆとり時間があるというならば、穏やかでゆったりした風景が描けもするのだけれど、そうで無いのは確かで、皆さん楚々とひそひそ話をし、あるいは無口っぽい感じが流れています。もう少しの辛抱だろうね。住人が増えれば、今度はきっと、「もう少し静かにしていただけませんか~?」なんて、叫びたくなる賑やかな食事風景になるのかもしれません。

今の所、静かでのんびりした日暮しの中で、偶然、出会った人々と顔見知りになりながら、挨拶や会話を交わすに至るという事ですが、やがて新しい生活の形に慣れ親しみながら、交流のエネルギーが出来上がってきてコミュニティーの多様性が生まれてくるでしょう。今はまだ、その段階には至ってないかな~?!仕方がないよね!もう少し待ってみれば、高齢者の人懐っこさが、解きほぐされてくるにきまっている。私達の生活が安全であるように見守りお世話して下さる方々の寄り添いに援けていただきながら慣れ親しみが熟成してくるのだろうと、期待しているのです。

そうこうしているうちに、日の経つのは早く2か月にもなれば、否応なく館内(マンション内)で、何度も顔を合わせている安堵感も湧いてくるのでしょうか?これ以上はよそよそしくすることも無かろう、とでも心境が入れ替わるのか、ちょっとしたきっかけで、自然な声かけができてくる。ご安心あれ~と拍手を送りたくなるような安堵の芽生えもあるもので、気分が微笑ましくなるものです。特に、女性の高齢者は、ほほ笑み外交はお手の物。人の認知力・容認力は捨てたものではない と思い直させられることに多々出くわしたものです。シニア・マンションでは、コミュニケーション形成の支援・サポート体制(システム)が準備されていて、その有意性は高いように思われます。

住む人々が、生活上の異変や不便さに立ち往生していれば、何らかの声が寄り添い、手立てを示唆して下さる。(全面的にということではなく、指し示してくれるし、在りかが解れば、その手立てに乗っかることができホッとします)。孤独感から解放され、その柔らかさのある人付き合いに促され、緊張が解きほぐされていくのだと思います。

先日も秋の深まりを感じるこの頃、朝夕の空気は随分とヒンヤリして、身に浸み入るように寒さを感じ冬の到来を意識しました。が、1人だと、思う・感じる・だけで行き止るのですが、直ぐ傍に、顔見知りの、仲良しの、何時もの顔があれば、声になってことばがほとばしるのです。こうして生まれ出る状況は、自分自身の健康状態・今の自分の喜怒哀楽の感情を感じ取れ、心が動くものです。

生きてるね~!爽やかだね~!嫌な季節・冬がもうすぐやってくるね~!

いやいや冬が来る前に紅葉の秋・実りの秋がもうやってきたね~!幸いだね~!

如何なるたくさんの表現が飛び出して、人との交換・共感ができるものやら。

そして、黄昏感に包まれ寂しさも伴って、秋の夜長がこれから始まるという夕刻の5時すぎ、最近仲良くなった私達老女3人は、マンションの1階レストランで、又もやご一緒になり、これで何度目の夕食時の出会いだろうか?と、笑いあう。 夫々の高齢者の心中には、マンションのシステムに助長されて、あるいは、居住空間を共有する親近感を容認する(受け入れる)行動が、自然な形で柔らかく出来上がっているのを感じもして、ほっとしているのです。

 

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