【第1章】6節 中学生・高校生の頃~多感の驚きとそのエネルギーが懐かしい~

もう少し、小学校・中学校の頃に感じていたことを懐かしんでみましょう。

小学時の各学年は1クラス50名の7~8クラス編成。担任の先生は、男:女=5:3の構成で、どの先生方もしっかりした貫録があり大きく見えました。

特に、4年生以降になると周りが見えてきますから、先生方への畏れと緊張感を持ちながら、その感情を飛び越えて話をすることができていました。ですから私達生徒は、やんちゃっ気も加えて、きさんじ(関西の方言で呑気・素直・生真面目)なこども達であったと思います。

その頃の先生方は、教育の自由を求めて、気迫さをもって戦後民主主義教育の模索を続け、お互い議論をしながら、試行錯誤で取り組んでいました。誤解を持つ私の見解かもしれませんが、真新しい思想「民主主義」への変換を、実践的に成し得ていく教育道を求めて進もうとする真面目さが伝わってきました。
生徒たちの親も、PTA活動をとおして、けっこう先生方との意見交換をしていて、見解の相違からかトラブルも表面化する事がありましたが、オープンにしてましたから、各家庭で議論をすることが多かったように思います(思えば、小生意気な口調で知ったかぶりに意見などを言い合っていたかな)。

中学校に入学した時も先生方は、民主主義が求める教育の模索を試みていましたね。先生たちも、また、私達の愉快な仲間たちでもありました。

皆、明るくて活動的な先生方でしたから、当初から生徒たちは、先生方と対等な感覚で何かにつけてディスカッションするという風潮ができていきました。1学年8クラス(1クラス50人規模)の担任の先生方の結束は強く、且つ、自由な学校の校風を創ろうという気概と闊達な行動をされていたように感じます。

時は昭和34年~40年代半ばの歴史背景ではありますが、集団就職の悲喜こもごもの情景が社会風物詩ともなった時代です。その頃の高校進学・就職率は5分5分比で、約半数の生徒が中学を卒業して京阪神・東京方面への集団就職をしていきました。あの頃大ヒットした井沢八郎さんが歌う「あゝ上野駅」に励まされ、元気づけられた方々が多かったのではないでしょうか?

私の将来の選択に関しては、中学3年時の担任先生が、背中を押してくださいました。
「君のお母さんは、今は健康になって元気で働いている。経済の基盤も安定してきているようだ。今までは大変だったけど、もう一度お母さんと自分の将来について相談して決めてみないか?」

私は、高校進学ではなく、准看護婦養成学校に進むことにしていて、最終段階での申請を出していました。勿論、私は、心中それを望んでいたのではなく、高校に進学したかったので、先生にチャンスを頂いたような嬉しさがありました。

実は担任先生は、私の父の同級生。中学時代を父と共に過ごされたようで、3年時の夏休み前、「君のお父さんには、僕はお世話になった。チビすけの僕に善くしてくれた恩人なんだよ。その友の娘さんの担任になったとは、何か不思議な気がしている…。僕は、やはり君には、必ずや高校に進学して正看護婦さんの看護学校に進んでもらいたいと思っているよ。このことをもう一度お母さんと相談してみないか?僕がお母さんと相談しても良いよ。」と。

そのような経過を経て、私は高校への進学を決めることができました。

わが町の教育信条には、「自由な校風を創る」という風潮があり、私の高校時代にも継続されていました。全ての教員たちの、気概のあふれる「生き甲斐や働き甲斐」に翔ける思いを思いだします。生徒たちにとって嬉しかったのは、私達は、爽やかでしたし、甘えん坊でしたし、独りではなく結構同級生の皆と高校生活を謳歌できたことです。

看護師への道を選択できた本気度は、教育の現場で育まれ、これからの社会に生きていく真摯さへの原体験ができたのだと思います。

 

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ノンちゃん

投稿者: ノンちゃん

大阪・住友病院で教育担当副部長を経まして、系列看護学校の副学長を歴任。その後、活躍の場を他の総合病院に移し、看護部長として就任いたしました。現在はワークステーションで登録スタッフの方の相談役として、様々なアドバイスを行なっております。長年の臨床経験・指導経験を元に得た知識を、皆さんにお伝えできればと思います。