ちょっと話は遡りますが、私のニックネームは「ノンちゃん」。このネームの由来がなかなか戴ける話です。
時は小学4年生(1955年…65年前にもなりますね)。学校授業の映画鑑賞で、児童文学作家:石井桃子さん著作「ノンちゃん雲にのる」を映画化したものを鑑賞しました。彗星のごとく現れた新人「鰐淵晴子」さん主演で、目のクリッとした可愛い女の子でした。映画が始まるやまもなく私は、グイグイと画面に吸い込まれるように魅入ってしまいした。
映画の始まりは、鰐淵晴子さん演じる8歳の田代信子(ノンちゃん)。ノンちゃんは、学校から早くまっすぐ家に帰ってきたのだが、真っ先に会いたいお母さまは不在で、その時知らされた不在の理由が、お母さまと兄がノンちゃんに黙って出かけたという。ノンちゃんは置いてきぼりにされてしまったことが悲しすぎて、泣きながら神社の木の上に登り、池に映る空を覘いているうちに、池に落っこちてしまう。その衝撃的な画面に、私はア~ッと声が出てしまったが、大丈夫!ノンちゃんは綿のようにふわふわな白い雲の上に。まるで私は、夢見るノンちゃん状態の幸せ感が充満したひと時でした。
映画のノンちゃんは、バイオリンを弾きバレエを踊る優雅でお転婆な女の子。これはもう鰐淵晴子さんの為に作られた映画であり、私の大好きな世界観が展開されていましたから、見終わってしばらくの期間は、夢心地の日々でした。私も小学3年時までバレエを習い、4年生時より音楽は合奏部に所属して打楽器で活動していたからでしょうか、級友たちは、誰からともなく「夢見るのりちゃんは、これからノンちゃんと呼ぶわ。」と。以来、私の呼び名は「ノンちゃん」。
映画(児童文学)に感化され、皆が呼んで下さる「ノンちゃん」の響きが、心地よく耳に馴染んでいるのです。
さて小学校を卒業し、やがて中学・高校時代を経て、看護学校時代、看護師時代へと話は展開させていきますが、こうして時代折々のエピソードを書きあげていくと、ふと気になることがあります。殊に、幼少期~思春期~青年期の思い出は、遠く年月を経過しており、思い出の良きことは、細部の欠落のおかげ?で美化されて記憶に残っている事もあり、また悲しく憂う事象などの記憶は、その時の感情がおぼろげな不確かさがあって、さらに大げさな表現になったり、あるいは何事もなくすり抜けてノープロブレム(同化)になってしまっているなと思われます。このあとに続くお話も、不確かなままで語ってしまう、その辺の胡散臭さが表出されているかもしれませんが、そのような記憶間違いもあるという恐れを持ちながら、大筋を見失わぬように気を付けて記憶を辿っていきたいと思っています。
“私は、看護婦(古称)になる”未来像が明確に意識化されたのは、中学生半ば(2年生~3年生初期の頃)でした。そこにたどり着く思考プロセスは決して確信的ではなく、母の繰り返す尋常でない持病の疼痛発作が、私の手におえる範疇ではない修羅場のごとくでしたが、その時は、ひたすら一生懸命背中をさすったり、浮腫む足を摩ったり、吐物の始末、トイレ介助等々、苦痛事ではなく坦々とやり果せながら、深層には、母は死ぬかもしれない不安を持っていたのだが…。はたして、この状況をどのように受け入れ、どのようにすれば良い方向へと母を看てあげられるのか?
誰にどのように相談して良いのかさえ解らず、積極的な思案を口にすることはなく、周囲の伯父叔母の援けを頂き、言われるままにお世話をしながら、お金を触ったこともなければ、正直、お医者さん看護婦さんに接する度合いは少なく、遠い存在でしたから、所作の一部始終を見届けることはできなかった。一人で母の介助をしないといけない時、看護婦さんだったら、こんな時どうしてあげるんだろう?と思ったことはあるが…、自分の力の限界、現実の悲しみを黙って背負っていたのだろうか?本当に何も感じていなかったのか?実際のところ、私はどんな感性を持っていたのか定かに思い出せない。
やがて1~3か月の病が癒えて、母は健康・元気を取り戻すと、ただちに働き始め、身体上のダメージの過酷さをものともせずに平常の生活に戻していく姿を見るに於いては、嬉しいに違いなかったが、流石に私は辛い思い「母は本当に大丈夫なのか?母は無理しているのでは?」と信じられない思いが流れていました。しかし、思いは、たちまちのうちに払拭され、母は、勢いを得た魚のように動き回り、声に力が入り、笑い声は高らかに豹変していく。母には、いつも、何とか楽にしてあげたいと、思うことしきりでしたが、周囲の人たちに、その心情を伝えることはなかったと今でも思っている。母の調子は、中学1年生を終えた頃から好転し、順調に安定した健康体を維持し始め、定職にも付けるようになりました。
ところで、中学1年生後半ごろから、友達は何故か「ノンちゃんは将来看護婦さんになる」と公認されていたのですが、これには、びっくり!!それ何処からの発信?と思ったけれど、担任の先生、保健室の先生などが、私と面談するたびに、「あなたは、将来、看護婦さんになる人やから、しっかり道を開いていかんとね。」と。看護婦への想像が育まれたのでもなく思索が無いままに、私の歩むべき道が「看護婦になる」と刷り込まれていて驚くが、それ自体、私自身が、身の程をわきまえた(?)当然の将来像として、疑問を持たずに受け入れていたということかもしれません。あるいはもしかして、私の母が、担任の先生などに、娘の将来の心配を話し、母自身の健康状態を話して私達、母子への理解を懇願していたのかもしれないが。
中学・高校を通して、ナイチンゲールの物語は、既に耳に目にして知ってはいましたが、「看護婦になる」意識化が明確になっても、実質、クリミヤ戦争での彼女の看護活動を深く知ることはありませんでした。看護婦さん像に関して語り合う、友達、先輩、先生たちとの接点を探る由もなく、看護への道に射してくるであろう光のまぶしさに思いを果せることなく、ただ流れのままに、当然の選択をしていたのだなと残念感が漂ってます。
果たして、「私は、看護婦になる」この意識化が、今後、どのように変遷していくのだろうか?