【第1章】4節 二人の祖父と私 ~私の看護における感性の芽生え~

第2話 母方のお爺ちゃん

彼は、城下町の趣を残す市街を通り抜けた海岸沿いの町の漁師。筋肉の発達した屈強な体格は、背丈と体つきが比較的調和していて、頼もしく男前でした。家に居る時の口数は多くないのに、門外に出ると、街の老若男女問わず皆さんから声がかかり、調子よくその声掛けに乗って話は弾み笑い声が聞こえてくる。話のネタは、たくさん持っていて自由自在な話ゆえ、どんな話が飛び出しているのやら…?時には、近所の小学生~中学生の子ども達3~5人が「話を聴かせて」とやってきて、母屋(お爺ちゃんの家)の縁側に座って待っている。お爺ちゃんご本人にとっては、嬉しいのだろう。穏やかな顔して子ども達を迎える。

そんなに長く相手をして疲れないのか!?もうこれくらいにしてくれという気持ちを隠して愛嬌しているのか…?! ホントの話か作り話か定かでない面白話が、飽きることなく続くので、家の者たちは時折に顔を覗かせ、様子見をする。と、子ども達の顔は、お爺ちゃんに集中していて、そのまま見過ごすしかない。何回聞いても面白い話だと、子ども達の爆笑を誘っていたようだ。

私と母の二人は、母屋の離れに住んでいました。母屋の前には、四角く広い庭があり、その一辺筋に、祭事の用具納屋、外トイレに続いて網納戸、その∟字隣りに離れ屋があり、そこに住んでいました。

母は日々忙しく働き、父方の祖父母の健康上のトラブルが起きれば、介護のために、父の祖父母のところに1~2か月は居住する。その間、私は母屋の叔父夫婦に食事のお世話を受け、夜は9歳上の従姉に泊まりに来ていただいていました。夜の一人は、さすがに怖くて、母の不在を感じる時ではあったけれど、特別、寂しいとか、私の生活はみんなと違って何でこんななのかしら?とか、心がちぢんでしまうことなく過ごしたように思われ、むしろ寂しさを感じとられないように振る舞っていたように思っています。お爺ちゃんの出かける時には、大概どこにでも付いて行きました。二人は、漁後の網を洗ったり、干したり、破れを繕ったりする浜辺の小屋に行って、一仕事終えての帰り道には、知人の家に寄っては短い談笑したり、お店に寄って私のお菓子を買ったりしながら、小高い家路の坂道を上っていくのだ。長閑(のどか)な闊歩でお爺ちゃんと二人なんて、ちょっといい場面じゃありませんか?

彼は、どの子に対しても「子供は宝」と分け隔てなく接してくれていましたから、子ども達にとっては、お爺ちゃんの懐に飛び込んでも許してもらえる、安心で安全な基地と感じていたのだと思います。漁師としての彼は、洋行帰りの人。戦前(何年かは不詳)にハワイに渡り、3年間ほど現地の人達に、漁の方法、網の使い方、網の作り方・修理の仕方等々指導官として働いたそうで、第二次世界大戦の開戦直前に、帰国してきたと聞いている。

帰国に際しては、ミシンやらハサミ、爪切りなどの鉄製の日用品(成人している子ども達4人分)、パイン缶詰、その他の缶詰やチョコレートなどの食料品、を沢山日本に送っているが、ミシン2台と鉄製の日用品などは没収されたらしい。幸い我が家のミシン・ハサミや他の金属製品は無事でした。けれど、ミシンは古くなるにつけ革のベルトが切れたり、ゆるんだりしてミシンの車輪から外れては、足踏み車輪を回し回ししながら輪に組み込ませて使うなどして(中学1年ごろまでは使っていたはずです)。やがてミシンは、交換部品が無くなり車輪の革ひもは特注で高価すぎましたから、いつの間にか、我が家から消えました。ただ、今も尚、使い続けている爪切りやハサミなどは、骨董品級の大切な日用品になっているのです。大したものではないか?と改めて思うところです。

さて、お爺ちゃんのもう一つの人となりをお話ししましょう。

彼は愛煙家。その喫煙の様は独特で、泰然自若に構えて“あゝなんてうまいんだ~?!”、長いキセルの先端の小さな杯に、刻み煙草を詰め込み、一服一服煙を燻らせながらゆるりゆるり味わっている。外出時にはキセルと刻み煙草を腰に巻いた革ベルトにぶら下げて歩く姿は、なかなか粋で洋行帰りの紛いの嫌みを感じさせぬお爺ちゃんの定番スタイルになっていました。

一週間に3回ぐらいは、キセルを分解してヤニ掃除していましたが、私はそのヤニ掃除の時の匂いが大好きで、新聞紙を広げた上に、分解したキセルを並べ、一つ一つ取り上げては、針金にガーゼを絡ませた棒をキセル管の中に差し込みヤニを掃除していたのですが、煙草ヤニの匂いに近寄って、作業工程を見ていたら、彼は、「子どもはあっちに行っといたほうが良いから…」と私を遠ざけるものの、私はとにかく飽きもせず真近で見ていました。成人して今に於いては、断然“アンチ煙草“派。煙草の匂いは臭くて頭痛を引き起こし、嫌で嫌でたまらない…。未だもって「何故煙草ヤニ掃除の匂いが好きだったのか?」解らないが、あの時のヤニの匂いは、今はもう失われている。

お爺ちゃんは、60代に腰を強打骨折して以来、約7~8年間、寝たきり状態になりました。彼は手術を強く拒否したこともあって歩行は敵わなくなってしまいました。下のお世話は、同居している叔父の妻には決して頼むことなく、何時も私を呼んで、お世話をさせていました。時に「なんで私ばかりなのよ。」と不満を持ったこともありましたが、長く私がお世話をしてきた思い出は忘れ難しです。

 

私の二人の御祖父ちゃんを語ってきましたが、こうした原体験が、私の看護師の歩みにどのように影響しているのか?と思い返します。その時は深い思考が働いたわけではないので、確たる思いを述べることはできません。そして、私は必ずしも、人の老い、老いを生きながら死に向う身体の理不尽さを理屈を解って捉えてはいなかったけれど、哀しく二人の老人を見送ったのではない。息苦しそうに絶え絶えに呼吸している老人に成り代わって何とかしてあげたいという思いが込み上げて、何とかしてあげたいと思ったのでもない。それ以上の事は何もできない自分の非力に悲しんだわけではない。むしろ死にゆくお爺ちゃんの、その時が来た…と受け止めていたように思われ、二人の祖父は静かに死を迎えました。

死の臨床にあって、苦しみと悲しみが交差して、死は人の不幸ごとと捉えなければならない場面を経験したのではなく、穏やかな二人の老人の死の場面に居合わせていた、という中学・高校時の私の体験でした。

 


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ノンちゃん

投稿者: ノンちゃん

大阪・住友病院で教育担当副部長を経まして、系列看護学校の副学長を歴任。その後、活躍の場を他の総合病院に移し、看護部長として就任いたしました。現在はワークステーションで登録スタッフの方の相談役として、様々なアドバイスを行なっております。長年の臨床経験・指導経験を元に得た知識を、皆さんにお伝えできればと思います。