看護師現役時代に考えていたことがあります。
病棟で新しい患者さんたちと出会うたびに、
「この出会いって人々がどうつながりあってこの場所で会うことになったのかな?」
「ここでの生活上のつながりは個々の患者さんの生き方として
どのように変化(進化)するのだろうかな?」
そんな好奇心があったように思います。
病院での患者さんとの出会いは、根源的には「生命の維持」という欲求(希望)があり、
患者さんと看護師は極めて近い関係になり得ますよね。
看護師は当然のごとく、プライバシーを尋ね、患者さんの皮膚に触れ、痛む箇所を直に触り、
口の中を観て、体を清拭して、陰部洗浄して、浣腸もしてなどなど、
看護師に託された身体上の観察・処置をしていますよね。
これは極めて非日常的な出会いで、看護師だから為しえる関係です。
近年、病院や施設は、患者のプライバシーの保護や患者が治療の質を選択決定する
自由度の拡大や自己責任など、患者の権利として保証していますから、
患者さんの生き方、考え方が看護活動に大きく関わってきます。
例えば、診察を受ける患者さんが、特に女性の場合、
やたら脱衣する行為を嫌がったり、高齢の患者さんが脱衣にもたもた時間がかかるという場合、
Dr.もその辺は引き気味で、脱衣しなくともいいという了解をして診察するのですが、
私は、これは大変な省略医療であって、不平等な格差診療と思うわけです。
現役時代には、最近のご時世の配慮として受け止めていた節もあるのですが、
現役を離れ一市民として病院を訪ねる身となった今、身体上の異常を感じて受診すると、
問診と簡単な聴診、後は検査結果(採血・レントゲン・他)に任せられる場合が多すぎて、
受診の満足感にはならず、違和感を感じたりもするのです。
なにせDr.はPCと向き合い、PCの処理をするまで会話を中断したりして
顔を合わせる事はないのですから。
PCがはじき出してくれる診断能力も確かにすごいのですが、
このフィジカルアセスメントの技を駆使してくれる診察は、
この頃まったくといっていいほどなくなりました。
医療の現場で、医療提供者と患者さんの出会いの中で、緊急であれ慢性であれ、
生命の維持に関わる関係を築いていく場合、人と人とのつながりの欠如感は
生じさせたくないものですし、自分だけの安全を遵守するのではなく、
その人の立場に付随する規範をもって
「おたがいさま」の安らかな関係ってできないものでしょうか?
ノンちゃんのお正月の猫目線は、そんなところに関心を寄せてみました。