【第1章】2節 戦後間もない敗戦から復興期のワンシーン

70数年前の子どもの頃(3歳くらい?まで)は、終戦後の疲弊感が漂っていた。
と言っても、終戦間際の何日か前、町に焼夷弾が落とされ、家を焼かれ怪我をするなどの傷害を受けた方々がいらっしゃったものの、小さな地方の城下町全体は悲惨極まりない状況とはならず、大きなダメージとなることはなかった。そしてようやく落ち着きを取り戻し始めていたが、どの家々も貧乏状態は皆同じであり、子だくさん家族が多かった。

だから本当に泣き声笑い声怒鳴り声ひしめき声が入り混じり、あけすけに家の周りのあちこちから、朝な夕なに、子どもの大きな声が聞こえてくる。
子ども達がたくさん居るというのは、そういう不規則で不定期で不協な和音が響きあうってことであり、要するに、父母に叱られ怒鳴られ叩かれたりの直ぐあとに「ワァ~ッ」と泣き叫ぶ声が聞こえ、また兄弟姉妹入り乱れての喧嘩が始まると、ドタン!バタン!ビシャン!倒しあい、ぶつかり合い、平手打ち、等々どんでん返しの物騒な音が聞こえてくる。密室の出来事、暗い出来事というのではなく、案外壮絶であってあけすけな風景だったのだ。

海(湾)を前にした漁師町は、活気あるあけすけの街であった。だから子どもたちの声が響くと、家の中では母と私が、「○○ちゃんがまた叱られてる。」とか「なんであんなに兄弟げんかばかりするんだろうか」とか、「何もあんな大きな声出して、暴れたり障子を壊したりせんでもいいのに。」とか。母は母なりに「××ちゃん、腹立つことあったんやろうね。」「いつも今の時間になると怒られてるね。お腹空いててお母さんに無理言うてるみたいやね。」「兄弟多いからおやつ無いからなぁ…後でこのおまんじゅう持って行ってあげようかね。」「あんたも、お母さんのいう事聞かずにしつっこい事したら怒られるよ。」「あんたはすぐ泣く子やから、泣きすぎるようなことしてたら、泣く涙無いようになってしまうで。」「いう事聞けないなら、目咬んで死にな。」何の意味かわからないような、会話にもならない母子の会話をしては、母子間のややこしい感情に緊張感を走らせながら、周囲の音に聞き耳を立てていたものである。
私は一人っ子だったから、物資の少ないご時世を呑気に生きていたように思う。母は、質素な身近にある食材を工夫してこしらえてくれたので、おかげで喧嘩もせず食いはぐれもなく生活できた有難さは心中にしっかとしみ入っている。

しかも有難いことに、私の父方の祖父母が寺住職でしたから、仏様のご供養物のお下がりの分配を届けていただけたり、母方の祖父はハワイ帰りの人でしたので、ハワイのパイナップル缶やその他の缶詰食材に与かるなど、案外満たされた幸せな一時期を過ごせてたのです。

でも、世の中は貧乏でしたから、母は生計を立てるべくありとあらゆる仕事に立ち向かっていました。また、1~2年に一度はやってくる胆石の激痛に見舞われ、その頃の痛みどめ薬は、モルヒネという注射薬に救いを求め、病の癒える3~4か月の療養を存(ながら)えて、働きに出て、また私を育ててくれましたから、そのご苦労の大変さたるや、今も忘れ得ぬ亡き母の思い出の核となっています。

私の看護師になる願望は、くり返される母の闘病が原体験となっていると思う。母のノタウツ痛みに対して何もしてあげれないわが身に心を痛め、そこから派生する将来への思いとして「私は大きくなったら看護師(婦)さんになるんだ」と、思いが積み重ねられたのだと思います。

1944年6月某日、終戦の約1年3か月前にこの世に生まれ出た戦争を知らない子(私)。
けれど胎教という点から眺めると、母の胎内で戦争の悲惨を感知していたはず。唯一戦争の直後の片鱗に触れた思い出が、淡い記憶として残っているワンシーンがある。
生まれてきて3年ほど経ったある日、まだ進駐軍への恐れが解けないわが町に、進駐軍がジープに乗ってやってきた。なぜか私は、9歳上の従姉の手を離れ、最前列によちよち歩き出て眺めていたようだ。一人の軍人さんがジープから下りてきて私を抱き上げてくれたのだが、遠巻きに海岸沿いに集まって眺めていた地元の人達が、びっくりするやら大騒ぎ。
「ノンちゃんが進駐軍の兵隊さんにさらわれた!」「早くお母さんに連絡して~!」と叫び、母を呼びに行ったらしいが、私は、キョトンとして兵隊さんの膝の上に乗せてもらっていて、チョコレートやチュウインガムやクッキーを頂いて、うれしそうにしていたのだという。呼ばれて走ってきた母が、泣き崩れるように「どうしたらええの?」と叫んでいたらしいが、まもなく私は兵隊さんに連れられて、みんなのところに戻ってきた次第。この逸話は、母の生前、よく語られ、今も尚、従姉が語ってくれます。泣きもせず、にこりともせず、兵隊さんに「ニコニコ バ~」などとあやされながら、抱っこされていたという。
私の心臓は、そんなに強心ではない。
ほんとにその時どんな顔してどんな気持ちで、抱かれてたんだろうと思うが、私の記憶には、「兵隊さんに抱っこされて車に乗った」この感触だけが残っており、まんざら嘘ではない事実なのではある。と思ってはいるけれど、怖がりの私は、ホントにすんなりと抱っこされて車に乗ったのだろうか?と疑問にも思っている。

戦時中、あるいは敗戦後の日本については、当時、4歳以上の方々なら、後々の人々に具体的に語られもしようが、私はほとんど戦後派と呼ばれる層に入るのだと思います。
また、和歌山県は主要都市、大都市でもなく、私の住む町は半島南部で、戦争惨禍の傷は深く有るにはあるが、私が何か深く確信的に語れるものは何もないのです。
多くの書物を読むにつけ、戦争を知るということになるわけです。戦争に関連する書物は日本だけでなく、世界の書物を読んで知るべしの大きな遺産だと思います。

皆さんが、社会的な活躍を通して、色々な理不尽さや心痛む出来事、現象に出くわしながら、自分の人生を見つめて、希望に向って生きていく糧になりえましょう。

また、次の物語を楽しみにしてくださいね。


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ノンちゃん

投稿者: ノンちゃん

大阪・住友病院で教育担当副部長を経まして、系列看護学校の副学長を歴任。その後、活躍の場を他の総合病院に移し、看護部長として就任いたしました。現在はワークステーションで登録スタッフの方の相談役として、様々なアドバイスを行なっております。長年の臨床経験・指導経験を元に得た知識を、皆さんにお伝えできればと思います。