臓器移植:何度考えても悩ましき問題!!

私の高齢(85歳)の男性知人が、昨年の11月に亡くなられた。生前よりご夫婦でご自分たちの死について、死後の処し方について等々、忌憚ない会話を通して、ご夫婦共々に意志を固められ、角膜提供・解剖の献体提供に署名された。2~3年後、先に奥様が昇天され、その3年後には知人男性が昇天されたが、ご夫婦共に、献体提供された。

最後のお別れ儀式はなく、彼らと親交を交えてきた人々は、何か物足りない中途半端な心持ちのなかで、いつのまにか、静かに人知れず(詳細解らないままに)、個々人それぞれがお別れのけじめをつけたのだと思います。 亡くなられたお顔は拝しなくとも、一つの儀式(この世とのお別れのけじめというか…)により、懐柔できるひと時を持つのは悪くないのではないか? 飄々としたこの「近代的な逝去時のお別れの在り方」即ち、味気ないお別れ、を知った、経験したという思いです。

今まで、喜びや悩み苦しみなど、時には共に語り合い・笑いあい・涙流して喧嘩もした近しい気さくな友人とのお別れの余韻はなく、さらっとからっと「じゃあね~行ってらっしゃ~い」なんて気楽な挨拶も無い、否、できなかったそれって、どう言えばいいのか…。悲しみもなく乾いた感触で、別に何事もなかったこと…なんてね。

この臓器移植の問題、角膜提供あたりは「了承できる」範疇ながら、それを超える話になると、「脳死」判定基準の是非がそもそも、心得にくい(そう思いませんか?簡単なことではなく、慎重で悩ましすぎる問題なのだ)。

日本の臓器提供実数が取りざたされて、まだまだ提供数不足が報告されるが、そう急かさないで下さいよ。との思いから、未だ解放されることなく過ごしているわけです。

皆さんは、街角を歩きながら、所要で役所に出向きながら、何かしらのクリニックに行った時等々に臓器移植への理解と提供のアプローチを受けることが良くあると思いますが、どのように受け止めていらっしゃいますか?

死後の臓器提供、献体、必然的で現実的なきっかけが、私自身にどのように巡ってくるのか解りませんが、その時に真実に悩み深めるのだろうか…?

この文面にては、問題の深部に深入りしないままに語りかけていて、ある意味軽すぎるのですが、一度、皆さんも立ち止まって、考えてみてはいかがでしょうか?

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ノンちゃん

投稿者: ノンちゃん

大阪・住友病院で教育担当副部長を経まして、系列看護学校の副学長を歴任。その後、活躍の場を他の総合病院に移し、看護部長として就任いたしました。現在はワークステーションで登録スタッフの方の相談役として、様々なアドバイスを行なっております。長年の臨床経験・指導経験を元に得た知識を、皆さんにお伝えできればと思います。