石原慎太郎氏は、83歳。
TVのバラエティー番組でお目にかかったのだが、
大分、好々爺風貌感ありの人物になってきたなと、つぶやいていたら、
彼氏曰く「この年になってくると、いつ死んでしまうのか?
まもなく死ぬんだろう…毎日考えている。
若いころは、どれくらい生きるんだろうと、死は身近ではなく遠いものだった」
概ねこんなことを吐露されていた。
司会者から「石原さんは長生きしますよ」と応援されると、
「そうだな、憎まれ者になって生きるわ」と、
まだまだへこたれない気概を持っているようだ。
ほんの数秒間の会話というか吐露した場面に足を踏みとどまらせたわけで、
「おやっ?石原氏も普通にそういうことを感じる人物なのか?」
遠い存在が身近に感じた瞬間だったかな?
私も年のことはあまり気にしないとはいえ、
「死ぬこと」の意識は、身近なものになってきているように思う。
その思いが頭を過ろうとしたとき、ハテ?私の生命が死を迎えた時、
私が息子に伝えることは何だ?伝えてきたことは何だ?
もしかして何もない?何も伝えてこなかった?
彼との生活時間のどれもこれもが愛おしいというのに。
神様からの恵みをいただいたと思っているわけでして、すくすく育てよと、
心身ともに息子の成長に思いを注いできたものだ。
息子は、水の中の小さな(大きな)生命、畑に育つ作物の生命、
家屋に飼う犬猫や動物園に生きる生命の連鎖というか自然の摂理というか
共生し合う営みに思いを乗せ、生命を生きる哲学を育ませてきたように思う。
祖母(私の母)が、息子との時間の流れを
そのように伝え繋いでいってくれたと感謝している。
死の意識を身近なところに置くようになってきているのを感じながら、
あらためて息子の存在を考えてしまったのは、
最近、息子が独立したからなのだが、息子が独立したといっても
今までの離れ離れ生活の形が変わったわけではない。
私の生活は全く変わっていない。だのに…こりゃなんだ?
一種の喪失感というのかな、身の回りのどこかの部分の
ロス体験を感じてしまったというのかな?
なんとなく寂しさが漂っていて感情が落ち着かなくなっている状況です。
さ~て、ここから私の老い永らえて生きる生活の仕切り直しかしら?
ノンちゃんは、元気を出して楽しく明るく…なんで~す。