「日本人は自分の国に誇りがなさ過ぎる」とは、よく聴く話である。
私の息子も、外国に留学してそのような感想をもったという。
とにかく歴史を語らない、語れない、そんな習慣になっていない自分がいたと。
彼は、留学先の大学で、それこそ人種の異なる学生同士が自己紹介し合うとき、
ほとんどの場合、自分がどのような国・家族のなかで育ってきたかについて、
歴史的背景を交えながら嫌味なく誇らしげに語るのには驚いたと。
それがきっかけになったかどうか定かでないが、無造作に机上に置いてある本を覗きみると、
息子は歴史的で社会的で文化的な本を読んでいるようだ。感心している。
実は私も、20代前半の頃、しきりに同級生の男子から
「のんちゃん、日本歴史、世界歴史はやはり大事だから、
この教科書(高校で使用した副本もつけて)をもう一度
きちんと勉強してみるのがいいよ」と進められたことがあった。
そして近年グローバル化に対応していくことが求められるようになり、騒がしい。
自国の歴史、自国の文化に誇りを持つことは大事であることは確かなこと。
ただ、穏やかな誇りであるほうがいいのでは?と思う。
身近なところで人間関係が争いに発展するとき、周りの人たちは関係修復を図ろうとするのだが、
その人が持つ絶対的なプライドが問題解決どころか
問題を異質な方向へ向けてしまうことがあると思うからである。
自国の歴史への誇りが、他国の歴史とそこに築き上げられた
文化性を受け入れる寛容さに繋がっていければ、グローバルな交流を、
スムーズに受け入れていくことができるのだろう…。
がしかし?…と思うところがあり、むしろ、
このグローバル化のスピードに追い付けなくて怖いと思っている。
しかし、今はグローバルな時代。歴史を知らないと
グローバル化を生き残れないとまでは云わなくとも
自他国の歴史と文化を受容する感性は磨いておきたいものだ。という結論に。
さてさて、日本は高齢社会。
認知症で居住場所が分らなくなってさまよう高齢者が、
そのまま行き着き先で保護され施設に入所されたままで
命を永らえているという報道をきっかけに行政が注目し、
何人かの高齢者が家族と再会でき始めている。
毎日新聞の余禄にこんなのが載っていたので紹介しますが、ノンちゃんは考えた。
高齢者福祉施設が時の流れに抗せずグローバル化するということは、
このようなやんごとなきユーモレスクの詩が満ち溢れてくるということだろうかと。
***
シドニーの高齢者福祉施設に入院しているジョージは
大声でしゃべる明るい男だが、時おり旧宅が恋しくなるらしい。
ある時、突然立ち上がって叫んだ。
「俺は今からこの塀を乗り越えて脱走する。賛成してくれる奴は、梯子を支えてくれ!」
よろよろと梯子を塀に立てかけると何人かの仲間が横から支えた。
ジョージが塀を乗り越えると、そこには施設職員が待ち構え手を差し伸べる。
「シドニーへようこそ」付き添われて周辺を一周したジョージは
仲間の拍手に迎えられ、満足げにソファへと戻った。
***
(認知症専門医の橋本篤さんの詩集より)