私は、文句なしに“夏場に弱い女”
どうにもしようがなく、夏季の苦痛から逃れられず、我が身を削るように弱っていく。
老いの身にとっては、夏の熱波の体力消耗負担は、二重に重なる苦痛。
身体動作の対処にまごつき、一つ一つの動作が、サッさとスムーズに運ばない。
手がかかり、時間がかかる。
その上、身体の動作が今一つ安定しない平衡感覚の鈍麻は、転びやすいとあって、慎重になるものだから、結構余分な力量を使っているんじゃないか?と…。
夏場の我が身を遠巻きに眺めてみると、もうほんとに御婆ちゃん状態になっていて、滑稽すぎて笑えても来る。
いやいや、そのように貶めて考えるのは止そう!!
大切な命を永らえて今を生きている身ならば、加齢なる滑稽さ、退化への成長過程を受け入れ、時には丁寧に退化の流れに抗してみるのが良いのではと思うが…
とんでもない奇策を考案して周囲を驚かせてみる、という意気込みや楽しみを増やし、愛しみを深くして生きていくのがいいのではないか?
この頃、つくづく我が身の老いる力に、抗すべき何かの手立てを考え実行してみる方法がないものか?と。
しかし、ちょっと老いのボヤキを言わせていただくと、何事の所作も一手間多く、掛かるのを自覚し気持ちが萎えてしまう事が多くなり、弱気に引っ張られてしまいます。
ボヤキを口に出せば、それは良くないという認識はある。
何しろ、顔の表情筋活動が減り、表情の豊かさがなくなり、活き活きしなくなってくるのは確かだから。
さらに、ボヤキを口に出さないようにしているとはいっても、思いっきりボヤいてリセットしてみたくなるという気持ちのざわつきがあるのは、どうしたものか?
何度も支度を繰り返し、一度できれいにすることが段々できなくなり、何事にもドンくさくなっているのである。
時には息子に叱られることもあり、息子の励まし・愛情ある応援叱咤と思うも、さすがに、息子に直言されると、悲嘆のどん底に突き落とされたように悲しくなる(もう少し優しく言ってよネ)。
息子とは離れて暮らしているためか、久しぶりに帰ってきては、母の日常生活動作上の衰え、できていたことができなくなっているなど、高齢ゆえの衰えを見たり感じたりするのは、息子なりに悲しみになっているようで
「僕がキツイ目に言ってしまうのは、そんなお母さんではなかったのに…と思うと悲しくて…!?…、お母さんに発奮してもらいたくて…お母さんに元気で居てほしくて…。つい刺激的な発言になってしまう。お母さんが、僕のそんな返しに、元気な反発とか反応してほしいと思って…。けどつらいことは僕に言ってくれればいいんだから」と。
母は、涙がボワ~!出てきそうになる。
「ありがとう。解ってるよ。でももう少し優しくいってほしいわ」
確かに息子は優しい。街歩くときなど自然体でレディーファーストの巧みな先導・寄り添いをしてくれ、とてもうれしく楽しい時間を提供してくれ、とにかく優しい。
何の不足もない。息子なりに久しぶりに見る母親の老いた姿は、淋しく忍びなく、しみじみ感じるものがあるのでしょう。
彼の繊細な優しさには、母としては幸せ感に満たされるひと時です。
高齢の日常生活を自立して、一人で生きている場合、生活上のアレコレに関しては、自分流に省略をし、丁寧な所作で毎日を過ごすよりは、身軽くこぎれいにできるだけ負担を省き、手早く済ませるという活動習慣を、身に着けていくことが多くなり、我流に便利よい生活動作をこなし面倒くさいことは省略の一手を使いまくり、et ceteraなのです。
重労働になってしまって、身体全体が参ってしまう前に、後期高齢の活動変化を感知しながら、簡素な生活習慣・生活空間を作っていくことが、必要ではないかとつくづく思うこの頃です。誰かが何とかしてくれるのではなく、自分自身で生活の楽しみを簡素に創造していけるならば、ギリギリの限りまで、これほど楽しく、自分らしく生きていくならば、素晴らしきかな人生であったと、自分に言い聞かせることができるのではないかな?と思いますね。
私自身、夏場の猛暑続きに対しては、簡単に脱水状態になって死を招くというプロセスが、他人事ではないという大きな恐怖心になっていまして、そうはなりたくないという思いは人一倍あるのに、脱水予防・エネルギー不足防止・低血糖予防の対処をしっかり自覚して、外出しているとは限らず、むしろ無頓着ではないかな??
ただ後期高齢者は、体調の変化・我が身に起きた異変を感知しにくいことは、確かにあるように思います。
いずれにせよ、今年の夏は、猛暑・炎暑・激暑なのであり、老いも若きも相当に堪える夏場ではありますね?
皆様、夏場の過労や睡眠不足を防ぎ、脱水予防のために水分補給は十分にまめに行ってください。
そしてこの夏場、元気をキープして過ごしましょう。