私が、「シニアマンションに暮らしている」ことを、私の友人達には、好意的に見守っていただきながら、引っ越してまもなく1年を迎えることになりました。生活は安定しており、かかる経費は、まだまだ気をつけて運用をしなければならない危うさがあるけれど、贅沢な出費を避ければ、なんとか持ち堪えることができていて、安定した心地良さを保っています。たまには贅沢を…と気楽に展開してみるものの、図に乗るな!油断大敵!と、多少の緊張感を持って慎ましく、暮らしの快適生活が身についてきたように思います。
年齢を重ねながら示されて来る体力の減退は、日々変動する
体調不良感を加速させ、不愉快さと健康への怯えを意識するようになってきます。こうなると老齢への警戒感が増幅してくるばかりです。同じマンションで暮らすシニアの皆様を眺めれば、1年前よりも住人数は倍になり、程よい速度で増えてきました。それ故、個々人のお顔を覚えやすく、親しく会話も交せる日常です。
我がシニアマンショへの入所年齢は、実は50歳からの入居が可能で、その若さでご入居される理由に合理性はあるように思います。ご夫婦での居住は、夫妻のどちらかが50歳、どちらかが60歳以上の組み合わせも多く、また働き盛りの独身女性及び男性の方は、早い目の老後対策・セキュリティー対策を考えて入居されているようです。シニアマンションの名のもとに、居住者達の年齢幅がある程度、広く設定されているのは「これは良いことでもある」と居住し始めて私が了解できたことです。「シニアマンション」イメージの多くは、「食事は、お粥のような柔らかいものばかりで…。老人食って嫌よね。いつまでも歯ごたえのある美味しいお食事を食べていたいものね~。早くから入ると、すぐ老けてしまわないかしら~!ね~?」この問答が多くあるようですよね。
しかし、これからの社会では、こうしたイメージは払拭していかないといけないと思います。館内の人々の活動エネルギーは、高齢者の鈍麻さというか、テンポの緩やかな漂いは多少ありますが、多くの場合の日常生活状況は、「身体を動かす、声を出す、笑って過ごす、周りの動き・変化に興味を示す」などの活動が継続し、慎重になり過ぎることもなく、時には、住人が「敬遠する大声もあり、面白くないお話を大声で仕掛けてくる」などもあり、そのような場面で困っても、私一人で負わなければならない話ではなく、他の人のお力添えなる「お気楽な声掛け・笑い・まあまあええやないかの受け応え」が入ってくるのです。不愉快さは忽ちのうちに、年期の入った黄昏語録は面白く笑って流し去っているのです!!
ところで、老後をどう生きていくのか?希望的に、準備万端の具えを整えていくのは、何歳くらいの時に具体的に考えていくものだろうか?いやいや自分の人生観を以って生きながらえていかないと…。
私自身、転居するなら齢70歳後半の今が最適の時、しかも夏場前に!と決め転居、このシニアマンションの住人になって以来、日々の生活に対する満足度は高く保っています。この一年、限りなく老いに向う自覚は確実に増え、体力減退の自覚、日々体調不良感で警戒しまくりです。周りの他の住人の方々も、体調悪化・緊急入院など、転居してきてこれからの生活を歩み出したばかりであっても、急な健康上の変化で、人生終盤への覚悟をしているとはいえ、明日はわが身に襲い掛かってくる変化は油断できません。幸い、受け皿であるマンションの体制・仕組みは、高齢者の自立支援の生活枠組みを解り易く提示してくれています。人生の終盤を生きる満足度が高められ、安心できるを担保に、快適であることをキープしたいものです。
ところで、70代が「老いの分かれ道」といわれ、既に子供や孫たちとの価値観は異なり、寂しさと理解されない悔しさを味わうことしばしばですが、世の中の「多様性」に呼応して、シンプルに、老人のカテゴリーの中での多様性と、融和で柔軟なコミュニケーション態度を養わねばと思っているのです。50半ばの方が入居されて、足腰の不都合な機能を杖に委ね自立歩行されていて、時々、「痛みは無いのですか」と尋ねれば、「いえいえもうホントに痛くて痛くて…、自由がきかないものですね~」と、穏やかな笑顔で答えて下さいます。
また、会話の不自由な60歳前後の女性の方は、エレベーター内、ロビー、レストランなどで出会えば、ゆっくりゆっくりお口の形を整えながら、聞き取れる限りの口話で話しかけてこられます。決して媚びることなくご挨拶されますが、しっかりお顔を見てお話を聴こうとすれば、齟齬なく聞き取れて、面白く語られる事もしばしあります。
また、ご主人が時々、廊下中、洩れ亘るほどの大声を発するのですが、この夫婦が、レストランで食事される時、ご主人は大きな声でビールを催促されます。高齢で腰の曲がった奥様は、お膳立てされた食事セットをテーブルまで運び、ビールの缶を開けて注ぐという一連の行動を実行されるのですが、何かにつけて夫さんは妻さんに大きな声で注文されるのです。ご主人のトンデモナイ癖ある注文は、このご夫婦にとっては了解し合っての日々の生活なのであって、何ら問題なく、むしろ、このような関係が無くなると、その喪失感の方が大きな問題となってくるのでしょう。
これが源点となる営みを通して、生かされるままに生きているのであり、「世にも不思議な夫唱婦随」の営みであると思うところです。妻さんが申すには、どれだけ怒鳴られ、面倒を掛けられようが、夫も私の苦手の生活負担を担ってくれているのだと。夫がいないと私は生きていけないのですと。喜びの中で夫を支えているというまさかの不可思議な申し分!!を、周囲の私達は、今では微笑ましく見守っているという状況です。
話を解せば「夫婦の形は如何様にもあるのだ」という事でしょうか? 私達は、結局、住人の人々から限りなく「儚くて面白い黄昏時の人生模様であり、今どきの多様性と受け止めれば、毎日が、可愛くて切ない人生、黄昏てこその物恋しい「多様な生の形」があり、「私自身の生活」もちゃんとあるのだと感謝を思います。
日々、黄昏時の静かなひと時、仲の良いご老人友達とレストランの窓際に身を寄せて食すれば、時は静かに流れ、一日の終わりの無事を「あゝ今日も、何気に楽しい一日でしたね~」で終るのです。