看護学生時代に遡りますが、3年時前半の実習は手術室でした。手術室の婦長さんは、やり手の元気良し、器量よしの名物婦長さんしたが、学生の実習に於いては厳しく熱心。分け隔てなく容赦しない指導は有名で、睨まれたら立ち動きようがないと、学生の間では畏れられ、学生は全般に、手術室実習には苦手意識が強く、しかし終われば、婦長さんのファンになるという名物の看護管理者でした。勿論、私もご多分に漏れず、苦手意識の先走りしてしまいました。何故ならば、私は、夏場に罹る蒸し暑い時期になると、ダル重い体調になって動きが取れないのです。手術室だろうが病棟だろうが外来だろうが…弱いのです。
厳しい婦長さんのご指導に耐えうるのだろうか?考えても致し方のない覚悟の3週間の手術室実習に入りました。なるほど手術室は、夏場だろうが冬場だろうが一定の低温に調整されているので、手術室実習は、夏場の蒸し暑さで体調に影響するなどは、問題になることではない。自分の固定観念に支配された緊張の手術室実習であるということだが…手術室に向う足取りは重かったに違いない。やはり、鋭い婦長さんの目利きから逃れ出ること敵わず「実習する気あるのか?ないのか?」勢いの良いお声は、鋭角に頭頂に飛び込んできて、とにかく怖かったですね。
手術室実習が始まってまもないある日の事、生まれて3~4日目の新生児が手術室にくることになりました。「手足多肢症」の「新生児」ということで、手術室では緊張感が漂い、小児整形外科主治医の一声で、手術が開始され(麻酔がどのように行われ、どれくらいの時間をかけて、手術が始まったかは記憶定かでないですが)、終了後は保育器に移され、新生児室の看護婦さんに伴われて帰っていきました。手術室では、兎に角、無事に終了した事に安堵感を漂わせ、「ご両親はびっくりされただろうな。このままじゃ連れて帰れないという思いだったんだろうね…。とにかく一応無事に終ったけれど、このまま何事もなくね…大きく育っていくんじゃないかな?」同情されていたのではないかと思いますが、麻酔科・整形外科の先生や看護婦さんが、ホッとしたように「お疲れ様でした。ありがとうございました」と声掛け合っていたのが印象に残っています。
この事例は、まもなく、私の記憶から遠ざかっていきましたし、看護学校卒業・国家試験合格・看護婦として歩き出しました。
看護婦3年目の時(小児病棟に配属されて1年経ったころ)、4歳の男の子が緊急入院してきました。お父さん、お母さんに伴われて病室に案内されてきましたが、児の名前に聞き覚えがあり、カルテの現病歴を見ると、なんと手術室実習で出会ったあの時の新生児ちゃん!Dちゃんでした。血の気の薄い、透き通るような白い顔色で元気がなく、お父さんにおんぶされての入院でした。小児外来での診断名は「再生不良性貧血」、緊急入院という事でした。私は内心、「え~っ!あの時のDちゃん?!どうしたの!」のことばを呑み込むように無言で事態を見守っていただけでした。
ご両親は写真館を営み、アーティスト風でお若く、さっぱりと淡々とした感じでお話しされるご夫婦でした。極めて冷静を保っていらっしゃるようで、慌てふためくことなく、看護婦や医師の説明・案内に従いながら、時には看護婦に児を預け「私達は、本当にまだ何も解りませんのでよろしくお願いいたします。」と丁重なごあいさつをされていました。慌ただしい時間(血管確保や追加検査、輸血準備など)を経過しながら、やがてまもなく、主治医師からご夫婦に、診断名の詳細が説明され治療方針も説明されたのですが、ご両親は「今の私達には、よく解らない事ばかりで、どのようなことを先生にお聞きして良いかも解りません。もう少し時間をいただき、この子の事をよく考え、夫婦で話し合ってみますので、どうかお力添え下さい。」と。ご夫婦の詳細な訴え、発信された言葉を完璧に捉えていませんが、穏やかに落ち着いてお話しされていたのが、印象深く残っています。
そしてその後2か月~3か月経過しただろうか…?壮絶な痛苦を伴う処置・体動の制限など、慎重で必死の覚悟を要する治療を続けたDちゃんは、やがて寛解期を迎え退院していく事になりました。Dちゃん入院の期間中、ご両親は二人で写真館を営業しておりましたが、悲嘆の日常の中で、結構多忙に過ごされたのではないでしょうか。病院のベッドに幼いわが子を1人にして置いていくご両親の思い・回復への願いは複雑であったろうと推察いたしますが、Dちゃんの苦痛に耐える様子を目の当たりにしたときは、いかばかりだったろうか? 私達もまた張り裂けるような思いと祈りの中で、児と向かい合った覚悟は、今尚、記憶に甦ってきます。
治療を続けるDちゃんに、ご両親は「何時ころ来ると約束できないけど、一日一回は必ず、お母さんか、お父さんが来るからね。看護婦さん達と一緒に待っててね。苦しかったり辛い時は、看護婦さんに正直にお話しして助けていただこうね。今日は良く頑張ったよ、元気になろうね。」と言い置きながら病院を後にし、面会は必ず約束を守って、親子の信頼関係の維持継続を真摯に図っておられたと思いますし、ご一家の生計に支障来すことの無い生活循環を作っていらっしゃったと思います。若き夫婦の逞しくも児と共に在る毅然とした覚悟に恐れ入る思いでした。Dちゃんは、苦痛の続く治療を継続的に続け、一つ目の寛解期を迎えて退院が叶いましたが、治療は、輸血・輸液・投薬・採血検査・骨髄検査・X-P検査その他の検査等々、幼い子供にとって、言い尽くせぬ大きな傷み、苦痛の不安があったろうに!?…。ついに安全な寛解期を迎え、退院できることになったのです。
この時のご両親の決意・覚悟は彼らなりに考え、主治医や婦長さん達と何度も話し合いながらDちゃんの生活の在り方、闘病を伴う育児方針を築き上げられました。
ご両親は、できるだけ普通の生活を精一杯経験できるようにと、幼稚園→小学校に。また小学校に入学する1年前から、幼稚園の先生あるいは、小学校の先生には、Dちゃんの病気の詳細を説明して、ご両親の育児方針、医師の先生の指示、容認されうる活動の在り方など、Dちゃんに関わる大人たちが理解しておくべき知識を、共有されていたのが印象に残っています。どんなことが引き起こされるか解らないというこの非情さに対して、ご両親は、「この子が自分の意志で行動ができるように」とご両親の「我が子の命の危機への遭遇を覚悟」して、普通の子として生きるできる限りを緩し、感染・出血に対する予防上の約束を、時々の子の成長に合わせて、一つ一つを自律的にコントロールして生きていく過程を子に託したとでもいえばいいのだろうか? 良し悪しについては、色々多岐にわたるご意見があるところで、なかなか結論の出ない問題ですが、どんな結論を持って今を生き抜いていければ良いのか?正解を求めるなど、軽々な語りはできません。
ですが、ご両親はDちゃんには、「自分が、したいと思う事はそのようにしてもかまわないが、自分の体はみんなより傷つきやすい。そのことに注意しながら、自分がちょっと変、ちょっとでも苦しい時は、どうしたら良いのか?」そうした生活上の安全な方法を医療側とご両親の間で、検討され合意を形成していかれたと私は解しています。
体調の不良(いつもと違う感じ、少しでもしんどいと感じた、何かしらフワフワとふらつくみたい)を感じたら、直ぐにタクシーに乗って病院に向うように。先生にお願いして家に電話で知らせていただく、自分で電話できる時は、車に乗ってから家に知らせる…!そのような非常時の対処行動をしっかり教えていらっしゃいました。「お母さん・お父さんは直ぐに病院に駆けつけていくからね。」…そんな信頼関係、緊急事態体制を、この幼い児童にしっかり教え込んでおり、Dちゃんの首には、お金の入った袋が架けられていました(否、ポッケに入っているときもあったね)。
いつも一人で「今日は早い目に来たよ。ちょっとしんどいねん」「ちょっと朝から変だって、家から病院に行こうと思ったけど、学校に寄って病院に来てん。」などと、精いっぱいの声で明るく話し、人懐っこい笑顔…というスタイルでした(実際この幼気な姿は、私達には辛いものでしたが)。早めの対処をして大事に至らぬようにする、早く体を楽にする、輸血の力を借りて自分の元気を取り戻す、さらには感染対策もしっかり心得ていたその姿がつらくもあり、大切な命と向き合っているDちゃんへの祈りは限りなく…どうかこのまま、何事もなく命永らえて成長していきますようにと。
治療方針は、どうなっていたんですか?と突っ込みの質問が飛んできそうですが、その時代の最先端の、しかし完治する保証(補償)はかなり困難を極めた時代の一つの現実です。
Dちゃんのお話は、父と母とDちゃんの命を生きる向き合い方として、私には大きくて深い学びなのです。こうしたご両親の「我が子の命」の覚悟の在り方としてありえないとも言えるのかもしれませんが、大いに私はこのご両親とDちゃんに動かされるものが大きく残っています。(治療上の詳細においては、記憶が欠落している部分が多々かもしれますんが、この命を生きる流れに於いて大方を語り得てると思います。)
次回に於いて、反芻しながら考えてみようと思います。