【第四章】 看護師人生の第一歩は、小児病棟看護婦から

教育学部養護教員養成課程での勉強は、あっという間の1年を経過した3月には修了証書と共に、養護教員1級免許の資格を頂きました。ですが私は、養護教員への道は選ばず、4月からは、元の所属病院に戻り、休職契約通り「看護婦」復職をしました。

頂いた辞令には、「小児病棟勤務」とあり「何故に私が小児病棟」なのか??
実は、私は、一人っ子だった所以か(?)小児認識が「好きとか嫌いとか苦手」というのではなく、「私と小児期の子供と病棟」のシチュエーション(立ち位置)が思い描けていなかったのです。看護部長(当時は看護部のトップは、総婦長の役職名でした)は、「貴女は何のために、児童心理学を、わざわざ1年間も休職して学びに行ったのか?」と問い返されたが、確かに、「児童心理学を学びたい」と1年間の休職を申し出たことを考えれば、当然の小児病棟配属になるのかもしれません。そこは素直に「あっそれはそうです!申し訳ありません。よろしくお願いいたします。」咄嗟の言葉で一礼し辞令を受けとりました。

ノンちゃん!しっかりせんかいな!! 慌てて認識を新たにして、子ども達の存在価値を見失わないように、子どもをそのままに受け入れることから始め、子ども達の看護婦さんになろう!と。私の心に、そのような電流の流れを感じました。

私は小児病棟勤務の辞令を眺めながら、入学試験の時から既に、小児科にご縁があったんだなあとつくづく思いました。私が看護学校入試の日、健康診査で私の血管が委縮してしまって採血が困難を極めた時、アッ!という間の採血手技で採取して下さったのが、小児科部長先生であったのです。その時は、何処のどなたか?また顔も認識できなかったのですが、柔らかい声で私を落ち着かせてくださった感触は覚えていました。私にとっては、お顔は知らねど忘れ得ぬお人=小児科部長先生であったわけです。部長先生の「所作とお声」、それはすごく安寧な親近感を覚えていて、小児病棟配属辞令は、私の看護婦人生の良き出発点になると思いましたし、私自身が看護婦としての存在(どんな看護婦になろうとしてるのか)の自覚を持つことができ、覇気が湧きあがってくるようで感謝でした。

総合病院を標榜する看護部は8単位あり、私は48床の小児病棟看護婦として10年間を過ごしました。当時私は、実際に子どもが好きなのか嫌いなのか?苦手意識を払拭できるのか?そんな躊躇感をもって働き始め、これからの小児病棟での働き(小児科医師と看護婦たちと病児たちとそのご両親様…とのこれから)を、とにかく何の手立ても持ち合わせていない私本人に委ねていくしかなく、それはもう、医師団をはじめ看護婦仲間の「立ち居・振る舞いをそのままに受け容れ、経験を増やしていけば、働く楽しさを覚えながら、心にゆとりを得ていければよいと。とにかく何事も経験値を高め、児と家族の方々との距離感に注意していこうと。しかし実際は、躓き、迷い、嘆き、喜べない、哀しみ、恨み、闘いに出くわし続けましたし、私の頑固で生真面目な主張や、不愉快さの顔相をバラマキしてしまうなど、調整しがたき私の振る舞いがあったと思います。今思えばなんという振る舞いをしたものか…。

病児とその家族たちとの良好な距離感は、病児の顔や所作に現れ、児の顔の輝き、声の力強さ如何で察知することができるということにも気づきながら、やがて1年を経過した時、病院付属の看護学校の小児保健・小児看護の講師を担当することにもなり、仕事の幅(キャリア)も広がり、論理性のある指導、学びのプロセスを大事にすることができるようになってきたと思います。

講師の担当は、私にとって日ごろの仕事上の経験や知識を、論理的に整理することになりましたし、健康・保健に関しては、特に小児期の成長を見守ることになり、患児達の成長発達・健康上の問題点・小児特性上の知識を受け止めていかなければならない慎重で意味深く学べる良き機会を頂けたと思います。しかし実際のところ、小児の背丈に目線を合わせ、小児の動揺(動きのリズムというのかな?)に馴染み込んで、病院生活の楽しみを、医師の先生方や看護師さん達と、創りだしていくという即興的(であったり)計画的な試みは、やはり簡単なことではなく難しく大変でした。

総合病院の中の小児病棟は、明るいエネルギーが満ちる一方、悲しみのどん底に突き落とされるような心の動揺が色濃く、児の家族の苦しみは、表しようがないくらい迷い、堪える、不安定な感情が交錯するという多様な体験を繰り返すということはしばしばあり、しかしとにかく「児を見失わない」一体感なエネルギーを保ちながら「生きる」手立ての限りを実践していくこと、児やご両親の悲嘆に寄り添い尽くすしかなく、私は希望を持ってこの状況に処していく…こんなことを学ばせていただいたと思います。

抽象的な言い回しになってしまいましたが、病児たちは「病」からの苦痛を抱えて病院生活の中に過ごし、生活と遊びのバランスはかなり制限されています。日々ストレスからの解放を得て、平安で笑顔の中に暮らす時間・場面は僅かなわけです。単に同情的に情緒的に優しく…ではなくなのです。

話は大きくぶれてしまうかもしれませんが、ナイチンゲールは、クリミア戦争時、戦地の傷ついて苦しんで横たわる兵隊さんの一人一人に、深く心を寄せて仕事をされた という伝記は、小さい頃から読み知り得ていたことではあり、しかし、成人して看護学校に学ぶ私達は、さらにクリミア戦争とナイチンゲール伝記をより深く読み解き、学びを得、看護の原点に感動したことを覚えます。小児看護に接し、現実に看護実践し始めていくと、このナイチンゲールの看護の原点を現実的に学んでいく事ができていくような感慨を覚えたものです。勿論、私などの看護力を、ナイチンゲールと比較対象するなんて畏れ多き事と承知していますが(苦笑)、希望のよりどころとして大きな力になってくると思います。

本日はここまでの私ストーリーです。今後は看護現場でのエピソードの一つ一つを思い起こしながら、話題提供して行きたいと思っています。

 

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ノンちゃん

投稿者: ノンちゃん

大阪・住友病院で教育担当副部長を経まして、系列看護学校の副学長を歴任。その後、活躍の場を他の総合病院に移し、看護部長として就任いたしました。現在はワークステーションで登録スタッフの方の相談役として、様々なアドバイスを行なっております。長年の臨床経験・指導経験を元に得た知識を、皆さんにお伝えできればと思います。