今年の干支は「寅」の年。干支は日本人にとって、日常的な馴染み深さがあるように思います。何故ならば、多くの日本人は、自分の干支を即答できる方がおおいようですし、十二種の動物が1周すれば12年もの年月を経ており、その事は我が加齢の意識に深く関心を持っていて、健康上の変化や体型を確認しているように思えます。
因みに私は「申」年ですが、猿の動物習性は、深く知る由もなく、悪知恵が働くとかなんとか言われながらも誇りをも感じており、初めて出会った人が「〇年の申年生まれ」なんて、自己紹介しようものなら、俄かに同じ穴のムジナの親しみを感じるという、瞬間親和魔というかおっちょこちょいなのも申年所以かな?
干支の習わしは、単純に陽気なコミュニケーションが生まれようというものではないですか。干支の所以を調べれば、中国から伝わったとされ、時刻や方位、物事の順序などに用いられ…云々ではあるのですが、私は、何度読み直してみても頭には残らず状態で過ごしております。
さて、一昨年、昨年、今年と3年間連続のコロナ感染禍が続いており、直近では、オミクロン株という変異種が、瞬く間に世界に広がりを見せています。ウイルスは、感染拡大の経緯の中で、独自の変異を繰り返し様々な変異株が発生するということですから、現在もまだその途上にあって、収まる気配がない。しかもこうした世界的に新型コロナ感染症の発生に於いて、今尚、その予防、感染防止対策、医療環境・体制は、国民性のあり方に左右されていて(と思われます)、国情・その国の文化性の違いが、こんなにも不協和な社会問題に発展していくものか…?と、びっくりしています。
経済への影響が大きく、私達の生活に深刻度が増し長引いている故に…人々の忍耐が持ち切れなくなるのは、他人事ではなく、誰しもがナーバスな反応になってくるという一定の理解は必要なのだと思うが、それにしても…?!?人の自由とは何ぞや?国の法規定とは何ぞや?国民性の習慣の違いとは何ぞや?今一つまとまりがつかない頭の中は、科学的・文化的・習慣的・慣習的、な違いに、どう方向性を見出して考えてみることができるのか?と思います。
2022年の新年を迎え、私は、3年間のコロナ感染禍のなかで、何を見つめてみることができたでしょうか?わが日本の、地域の食文化について、食材のもったいなさを強く感じさせられながら過ごしたように思います。
食材其々の生成過程は、簡単には操作できないし、特に農作物は、売れ行き具合を調整して保管できる物でもない。止む無く廃棄したり、畑にそのままに捨て置かれたりの場面は、ニュースや近隣の農地を歩けば目にする作物の放置。高齢の友人夫婦も、余生の楽しみに農作物を作っていたが、作り余りが多く、近隣に分けようもないと嘆いていて、聴かされる私も何の応えようもなかったのがショックでした。それでも、捨てられる運命の食材があり、変色し始めていようが、形が崩れていようが、喩え萎えていようが、打つ手なしの食品ロスを、目の前にしては、微々たる譲り受けに協力しながら、遠方にいる息子家族に繋げるべく策(野菜の佃煮、糠漬け、甘酢漬け、柚子漬け)なる保存食を作り置いたものです。食品ロス。他に打つ手はないのだろうか?
私自身、哀しいかな!良き御託が並ぶべく対策もなし。幼い孫たちには、私が作り置いた食品には、興味もなくスルーされてしまうという哀れを感じた次第。しかしまあ、そんなことには懲りずに、今年の努力目標として「食品ロスを招かない。食の満腹感を求めず、作物の一つ一つへの慈しみ感を意識しながら、感謝してほどほどに食すること」で生きてみようと思っています。
皆様其々の思いを込めて、齢の始めを歩み始められたことでしょう。お互いの健康を願い、元気にご活躍されますよう願っております。今年もよろしくお願いいたします。