【第五章】3節 とぎ澄まされた命(後編)

【第五章】3節 とぎ澄まされた命(前編)

Nちゃんは小学校に通いながら、年2~3~4回と、輸血もしくは検査・治療、継続治療上の調整、などで入退院を繰り返し継続してきましたが、小学4年生頃には、貧血治療の効果は、次第に厳しさを増してきていました。

ある日、小児科外来を受診した時、「最近検査結果が悪くなっているから、ちょっと入院して、元気をとりもどそうか?お薬の調整を早い目にしといた方が、Nちゃん、楽になるからね。」と主治医に進められて、そのまま入院となりました。状態は、本人が自覚する元気さとは、裏腹に検査値があまり良くなかったという事なのですが、入院して1時間後には、輸血を開始するという段取りで、Nちゃんを迎え入れました。私達の目にも元気良さげなNちゃんでしたが、まもなく(主治医の先生は外来担当日でしたので)、ベテランの上部の先生が輸血を担当することになり、血管確保して輸血開始しようとしたときのことです。

輸血管側の接続部の空気抜きのために、一滴の血液を管から流し出すのですが、この時、私はガーゼを敷いた膿盆で輸血の一滴を受けるために、Nちゃんの目線に“一滴の血の廃棄”を晒すことのないように手配したはずなのに、真顔のNちゃんは零されたに違いない一滴の血液の方に目線を落として、こう言ったのです。

「看護婦さんや先生にとっては、“たった一滴の血”かもしれないけど、僕にとっては大事な大事な命なんだ。」

思わず、先生と私は、絶句!何秒かほどは、声も出ず、出す言葉さえも解りませんでした。

Dr.先生は、「先生もそう思って、N君に輸血してるんだよ。これからも血液を大事にしていくよ。気を付けるからね。」
あわてて私も「婦長さんもね、これはNちゃんの大切な血液なんだと思って、先生と一緒に輸血のお手伝いしてるよ。ずっとNちゃんの気持ちを大切にしていくからね。」 本当は、何を言ったのか?こんな風に言えたのか?しどろもどろな言葉でしかなかったのではないか?

先生には先に退席いただき、私は、事後処理の調整を図るためにNちゃんの気持ちを推し測りながらベッド環境を整え、彼の苦痛の不都合を確かめるように、彼の表情が緩んでくれないか、そんな期待感に願いを込めながら、間合いをとりつつ、彼の心理が整えられていくことを願って、自分自身が「慌ててはいけない、びくびくしてはいけない、何時もと同じように、Nちゃんとの時間を過ごし、ここに留まっている間に、自身の立ち居振る舞いを整えなければ。」との思いで、心が委縮しているのを解きほぐさなければ…との焦りと闘っている動揺は、大きくありました。

その様に入退院治療の日々を、繰り返し過ごしていたNちゃんが、5年生になる春休みを迎えたある週末の土曜日だったか日曜日だったか…。私は休日の管理者当直勤務で、当直医は外科のDr..が登板していた昼過ぎの事です。玄関に待機している事務当直者から、「小児のN君が来院してきたのでよろしく。ちょっとしんどいようで顔色も悪いです。」と。

すぐさま飛び出していくと、N君が「婦長さん!居てくれて良かった!…僕いつもと違うねん…あ、…口から……」 口から、僅かに泡沫様の出血を認め、そのままストレッチャーに乗せて小児病棟へ。看護婦は、血管確保の点滴を至急準備し(他方では輸血確保に向けて準備)、当直医も直ちに駆けつけ、呼吸・気管及び血管確保の良肢位をとり、Nちゃんは逼迫する緊急処置を施されながら、次第に呼吸困難、意識混濁、ついには意識消失の経過をたどり、とにかく私達は、大きく声掛けを繰り返しながら、ようやく血管確保できたところへ、ご両親がお見えになりました。

ご両親は、無言の対面となりましたが、「N!今日はしんどかったんやね。いつもと違ったんやね。よく頑張ってきたんやね。一生懸命生きて来たよね。お父さん、お母さんだよ。遅れてきてごめん。N!今まで良く頑張って生きてきてくれてありがとう。…」

最近のN君の様子から、ある意味、ご両親の覚悟めいたものは脳裏にあったのでしょうか?ご両親が病院に到着された時は、よろけるように声を抑えて泣き崩れていらっしゃいましたが、懸命の言葉を掛けられて…。やがて気持ちを整えられると、静かにDrの説明を聞かれた後、身体を整えられたNちゃんとご対面され、そのままご一緒にご退院されました。

看護師となって初めての経験の場=小児病棟であり、数年間を共にしたN君と私(20代後半~30代初期)の看護物語をお話しいたしました。衝撃的な症例でしたし、私自身、意味ある学びをお伝えできたのか…?どうか解りません。が私は、小学生のN君がつぶやいた

「看護婦さんや先生にとって、管より零された血は、たった一滴の血であるかもしれないけど、僕にとっては大事な命の血なんだ。」

の一言は、命の大切さを十分に想起させられた言葉であり、生涯忘れ得ぬことばとして、私の看護職務を支え続けてくれました。

この世に生まれ出てきたその時から、一部正常ではなかった身体上の問題を持って生まれ、生まれたばかりの新生児の末端部の身体にメスを入れ、正常の形に整えられて、Dちゃんの人生が始まりました。その時に私は、看護学生として手術室実習をしており、その場所に、Dちゃんが来られて手術を受けたのです。そしてその後、成長した彼が3~4歳になり、再び小児病棟で出会ったのです。彼は生まれ出たその時から「与えられた未知の命」を生きて、Dちゃん、Nちゃんとして、覚悟のその時代を一生懸命、果敢に生きてきたのです。

私は、看護学生時代に「児の誕生直後」に出会い、3~4歳頃に再会してのち、数年間の長期を、児と関わり、命の終わりを見届けさせていただいたというプロセスを体験しました。私は、壮絶で重くて尊い命の変遷を生きてきた「この幼い児の命」に恐れ入るしかなく、ひとときも忘れたことなく過ごしてきました。また、ご両親の在り方に於いても、消えることの無い感銘を決して忘れることはありませんでした。

現在は、医療の著しい進歩の恵みの中に、多くの命が救われております。そのような状況にあって時代の変遷を感じながら、人の命の重さが、どのように受けとめられていくものなのか…私には表現のしようもないのですが、皆様にはどのように伝わりましたでしょうか。

 

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【第五章】3節 とぎ澄まされた命(前編)

Dちゃんは、ご両親の意向でDちゃん ⇒ Nちゃんに改名されましたが、一方的にご両親が改名したものではなく、 “身体が健康になって元気に生きていく事ができるように、と願いを込めて、Nちゃんにしてみるのはどうか?” Dちゃんに、父母の願い、希望、改名に至る説明をされたようで、”息子は解ったと言ってくれましたが、解りません。見守っていくしかないです”と。Nちゃんは、私達の前で苦笑い(というか照れ笑い?)していましたが、まもなく「よろしくお願いしま~す。」といつものように明るく張りのある声でご挨拶をしてくれました。記憶の中では、小学校入学前に改名されていたと覚えているのですが、どうもあやふやですね。Nちゃんのはにかんだ苦笑いが強く、大人びた印象が残っています。

ご両親の一縷の希望に託した強い意志が働いたのだと思いますが、説明によれば、「姓名判断で、名前を変えた方が良いと勧められて、この名前に変えました。」と、静かに穏やかな笑みを浮かべて教えて下さいました。ご両親の深層にある思いを計り知る由もないまま、私は少しあたふたとしながら「そこは突っ込みどころではない。黙してしっかり受け止めておくべき。」ととりなして、少しばかり笑みを浮かべながら「Nちゃん、N君、とお呼びして良いのかな?」と了解しましたが、内心、Dちゃんよりは、普通の名前感のあるNちゃんで良かった…と思ったことです。Nちゃんが、可愛く本当に愛おしく思われた瞬間でもあり、すぐさま打ち解けたのを思い出します。

ご両親がつくづくと仰るには、「名前の付け方は、色々考えて付けないといけないものですね。親が良かれと思い願いを込めて付けた名前でしたが、その名前が災いになっていたなんて考えも及ばなかったですわ…。Nには申し訳なくてね。名前がこんなにも、その児の人生に影響を与えるなんて思っていませんでしたんで。でもNは、何も言わずに受け入れてくれて、Nちゃんと呼ばれる響きに馴染んでくれました。愛おしくてね。涙が出そうになるけど、息子の前では涙を見せるわけにはいかなくて…。いつも笑って返事を返してくれるNと軽口の応酬をしながら…いつものようにね。息子は健気にも、私達には元気良い声で応じてくれて…、自分が普通の身体でないことを自覚してくれているのが、何とも…つらいです。彼はきさんじな子でして…それはもうあの子に、いい加減な対応はできません。普通にきちんと応えていかないと…私達親の責任です。Nは生意気なようで、良く気が効いて、可愛い息子です…」と。感情を込め過ぎずにサラッと一言一言静かにお話し下さいました。

当時はまだ20代の終わりに差し掛かっていた私には、まだまだ人生の、あるいは医療従事者としての経験や知識は大きく不足していましたし、ご両親の思いや振る舞いへの想像力が、有効に働いていたわけではなかったのですから。ですが、小児科部長先生の「こどもの世界観、医療観」から醸し出される私達 看護師への何気ないアプローチは、その都度、瞬時の光を放つご指南オーラに触れることができ、刺激され、創造的に看護活動ができるように導かれたように思うのです。当時の小児病棟は48床、一日の入退院は、合わせて6~20床の入退準備・整備・手続きや、乳幼児の手術1~3件を抱え、看護師7名という超多忙さは、想像できるでしょうか?疲れ果てるエネルギーの損失感を味わうのではなく、超多忙の勢いに乗って働く力が湧くという雰囲気があり、職場は、何時の時も楽しく暖かい空気が流れていたと思っていて、私の看護経験史のなかで、大切な学びができたのです。

さて、Nちゃんは小学校に通いながら、年2~3~4回と、輸血もしくは検査・治療、継続治療上の修正(調整)などで入退院を繰り返し継続してきましたが、小学4年生頃には、貧血治療の効果は、次第に厳しさを増してきていました。Nちゃん一人で病院にやって来るときは、タクシーを使ってくることも多くなり、彼の訴える力は、息切れを伴うように。それでも、自分の言葉表現は、省略したり、なおざりに発することなく、私達の顔を見て訴え、健気にも微笑してくれるのでした。「Nちゃんのしんどい時は、看護婦さんしっかり解っているからね、我慢しないで。」とか「早く輸血始めようね。おしっこは大丈夫かな?先生がもう病棟に来て待って下さってるよ。」そんな会話?を交わしあったNちゃんとの様子が、今も浮かんでくるのです。

この続きは次回にも掲載いたしますが、言葉の使い方、表現の在り方、私自身の思考力など、不足を感じ入ることばかりです。当時の私の感性の働き方が、どうだったのか?それはもう随分と年月を経ており、私の勘違い、記憶間違いが多々あるものと推測もされ、慎重になって割愛していく事も多く、文章のつながりが、一層不備に陥ってしまっているかも知れませんことを、弁明させていただきたくお許しいただければと思い、当時の医療現場と大きく改善され進歩した医療の変遷を感じていただければと思っています。

 

【第五章】3節 とぎ澄まされた命(後編)

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【第五章】2節 看護婦(師)の道半ばの展開②~命の現場での衝撃と学びは大きくて深い~

看護学生時代に遡りますが、3年時前半の実習は手術室でした。手術室の婦長さんは、やり手の元気良し、器量よしの名物婦長さんしたが、学生の実習に於いては厳しく熱心。分け隔てなく容赦しない指導は有名で、睨まれたら立ち動きようがないと、学生の間では畏れられ、学生は全般に、手術室実習には苦手意識が強く、しかし終われば、婦長さんのファンになるという名物の看護管理者でした。勿論、私もご多分に漏れず、苦手意識の先走りしてしまいました。何故ならば、私は、夏場に罹る蒸し暑い時期になると、ダル重い体調になって動きが取れないのです。手術室だろうが病棟だろうが外来だろうが…弱いのです。
厳しい婦長さんのご指導に耐えうるのだろうか?考えても致し方のない覚悟の3週間の手術室実習に入りました。なるほど手術室は、夏場だろうが冬場だろうが一定の低温に調整されているので、手術室実習は、夏場の蒸し暑さで体調に影響するなどは、問題になることではない。自分の固定観念に支配された緊張の手術室実習であるということだが…手術室に向う足取りは重かったに違いない。やはり、鋭い婦長さんの目利きから逃れ出ること敵わず「実習する気あるのか?ないのか?」勢いの良いお声は、鋭角に頭頂に飛び込んできて、とにかく怖かったですね。

手術室実習が始まってまもないある日の事、生まれて3~4日目の新生児が手術室にくることになりました。「手足多肢症」の「新生児」ということで、手術室では緊張感が漂い、小児整形外科主治医の一声で、手術が開始され(麻酔がどのように行われ、どれくらいの時間をかけて、手術が始まったかは記憶定かでないですが)、終了後は保育器に移され、新生児室の看護婦さんに伴われて帰っていきました。手術室では、兎に角、無事に終了した事に安堵感を漂わせ、「ご両親はびっくりされただろうな。このままじゃ連れて帰れないという思いだったんだろうね…。とにかく一応無事に終ったけれど、このまま何事もなくね…大きく育っていくんじゃないかな?」同情されていたのではないかと思いますが、麻酔科・整形外科の先生や看護婦さんが、ホッとしたように「お疲れ様でした。ありがとうございました」と声掛け合っていたのが印象に残っています。

この事例は、まもなく、私の記憶から遠ざかっていきましたし、看護学校卒業・国家試験合格・看護婦として歩き出しました。

看護婦3年目の時(小児病棟に配属されて1年経ったころ)、4歳の男の子が緊急入院してきました。お父さん、お母さんに伴われて病室に案内されてきましたが、児の名前に聞き覚えがあり、カルテの現病歴を見ると、なんと手術室実習で出会ったあの時の新生児ちゃん!Dちゃんでした。血の気の薄い、透き通るような白い顔色で元気がなく、お父さんにおんぶされての入院でした。小児外来での診断名は「再生不良性貧血」、緊急入院という事でした。私は内心、「え~っ!あの時のDちゃん?!どうしたの!」のことばを呑み込むように無言で事態を見守っていただけでした。

ご両親は写真館を営み、アーティスト風でお若く、さっぱりと淡々とした感じでお話しされるご夫婦でした。極めて冷静を保っていらっしゃるようで、慌てふためくことなく、看護婦や医師の説明・案内に従いながら、時には看護婦に児を預け「私達は、本当にまだ何も解りませんのでよろしくお願いいたします。」と丁重なごあいさつをされていました。慌ただしい時間(血管確保や追加検査、輸血準備など)を経過しながら、やがてまもなく、主治医師からご夫婦に、診断名の詳細が説明され治療方針も説明されたのですが、ご両親は「今の私達には、よく解らない事ばかりで、どのようなことを先生にお聞きして良いかも解りません。もう少し時間をいただき、この子の事をよく考え、夫婦で話し合ってみますので、どうかお力添え下さい。」と。ご夫婦の詳細な訴え、発信された言葉を完璧に捉えていませんが、穏やかに落ち着いてお話しされていたのが、印象深く残っています。

そしてその後2か月~3か月経過しただろうか…?壮絶な痛苦を伴う処置・体動の制限など、慎重で必死の覚悟を要する治療を続けたDちゃんは、やがて寛解期を迎え退院していく事になりました。Dちゃん入院の期間中、ご両親は二人で写真館を営業しておりましたが、悲嘆の日常の中で、結構多忙に過ごされたのではないでしょうか。病院のベッドに幼いわが子を1人にして置いていくご両親の思い・回復への願いは複雑であったろうと推察いたしますが、Dちゃんの苦痛に耐える様子を目の当たりにしたときは、いかばかりだったろうか? 私達もまた張り裂けるような思いと祈りの中で、児と向かい合った覚悟は、今尚、記憶に甦ってきます。
治療を続けるDちゃんに、ご両親は「何時ころ来ると約束できないけど、一日一回は必ず、お母さんか、お父さんが来るからね。看護婦さん達と一緒に待っててね。苦しかったり辛い時は、看護婦さんに正直にお話しして助けていただこうね。今日は良く頑張ったよ、元気になろうね。」と言い置きながら病院を後にし、面会は必ず約束を守って、親子の信頼関係の維持継続を真摯に図っておられたと思いますし、ご一家の生計に支障来すことの無い生活循環を作っていらっしゃったと思います。若き夫婦の逞しくも児と共に在る毅然とした覚悟に恐れ入る思いでした。Dちゃんは、苦痛の続く治療を継続的に続け、一つ目の寛解期を迎えて退院が叶いましたが、治療は、輸血・輸液・投薬・採血検査・骨髄検査・X-P検査その他の検査等々、幼い子供にとって、言い尽くせぬ大きな傷み、苦痛の不安があったろうに!?…。ついに安全な寛解期を迎え、退院できることになったのです。

この時のご両親の決意・覚悟は彼らなりに考え、主治医や婦長さん達と何度も話し合いながらDちゃんの生活の在り方、闘病を伴う育児方針を築き上げられました。
ご両親は、できるだけ普通の生活を精一杯経験できるようにと、幼稚園→小学校に。また小学校に入学する1年前から、幼稚園の先生あるいは、小学校の先生には、Dちゃんの病気の詳細を説明して、ご両親の育児方針、医師の先生の指示、容認されうる活動の在り方など、Dちゃんに関わる大人たちが理解しておくべき知識を、共有されていたのが印象に残っています。どんなことが引き起こされるか解らないというこの非情さに対して、ご両親は、「この子が自分の意志で行動ができるように」とご両親の「我が子の命の危機への遭遇を覚悟」して、普通の子として生きるできる限りを緩し、感染・出血に対する予防上の約束を、時々の子の成長に合わせて、一つ一つを自律的にコントロールして生きていく過程を子に託したとでもいえばいいのだろうか? 良し悪しについては、色々多岐にわたるご意見があるところで、なかなか結論の出ない問題ですが、どんな結論を持って今を生き抜いていければ良いのか?正解を求めるなど、軽々な語りはできません。
ですが、ご両親はDちゃんには、「自分が、したいと思う事はそのようにしてもかまわないが、自分の体はみんなより傷つきやすい。そのことに注意しながら、自分がちょっと変、ちょっとでも苦しい時は、どうしたら良いのか?」そうした生活上の安全な方法を医療側とご両親の間で、検討され合意を形成していかれたと私は解しています。
体調の不良(いつもと違う感じ、少しでもしんどいと感じた、何かしらフワフワとふらつくみたい)を感じたら、直ぐにタクシーに乗って病院に向うように。先生にお願いして家に電話で知らせていただく、自分で電話できる時は、車に乗ってから家に知らせる…!そのような非常時の対処行動をしっかり教えていらっしゃいました。「お母さん・お父さんは直ぐに病院に駆けつけていくからね。」…そんな信頼関係、緊急事態体制を、この幼い児童にしっかり教え込んでおり、Dちゃんの首には、お金の入った袋が架けられていました(否、ポッケに入っているときもあったね)。

いつも一人で「今日は早い目に来たよ。ちょっとしんどいねん」「ちょっと朝から変だって、家から病院に行こうと思ったけど、学校に寄って病院に来てん。」などと、精いっぱいの声で明るく話し、人懐っこい笑顔…というスタイルでした(実際この幼気な姿は、私達には辛いものでしたが)。早めの対処をして大事に至らぬようにする、早く体を楽にする、輸血の力を借りて自分の元気を取り戻す、さらには感染対策もしっかり心得ていたその姿がつらくもあり、大切な命と向き合っているDちゃんへの祈りは限りなく…どうかこのまま、何事もなく命永らえて成長していきますようにと。

治療方針は、どうなっていたんですか?と突っ込みの質問が飛んできそうですが、その時代の最先端の、しかし完治する保証(補償)はかなり困難を極めた時代の一つの現実です。

Dちゃんのお話は、父と母とDちゃんの命を生きる向き合い方として、私には大きくて深い学びなのです。こうしたご両親の「我が子の命」の覚悟の在り方としてありえないとも言えるのかもしれませんが、大いに私はこのご両親とDちゃんに動かされるものが大きく残っています。(治療上の詳細においては、記憶が欠落している部分が多々かもしれますんが、この命を生きる流れに於いて大方を語り得てると思います。)
次回に於いて、反芻しながら考えてみようと思います。

 

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【第五章】1節 看護婦(師)の道半ばの頃①

私の生き方の主たる選択は、看護婦(師)人生を生きる、ということであろうか!と思います。振り返れば18歳の看護学生から看護婦(後に看護師)として63歳までをとにかく生きてくれば、なにかと小さな石に躓いたり大きな石にぶつかったりー。大小の痛い思いは、私の人としての具えに必要な影響を示された事と受け止めてきたのですから、大方の一つ一つの場面が幾重にも浮かんできます。

さて今回のお話を展開していきましょう。
看護学生を卒業して、一年間の大学(教育学部)生活を経て、休職中の病院に復帰した時、子どもが好き・嫌いのレベルで捉えていたわけではないけれど、小児病棟配属となった時には、「私が…?」と驚いた話は、以前に記述しました。

配属に関する驚きの気持ちは、意外性の感覚が即座に働いた理由は、私と小児の接近感を経験したことがない、ということになるでしょうか?
大学時代の教生実習は、小学4年生を二組、中学1年生・2年生の合計3~4週間で展開したと思います。指導の教官とのやりとりを徐に覚えていますが、子ども達との交わりは、授業展開に一生懸命だったけれど、接近感を持つ対話時間ということへの関心・工夫は、施すことなく過ぎた、ということだから…?の弁明あるのみ。とにかく復職した私は、小児との距離感が解らず小児病棟配属などの予想だにしないままに、意外性の感触で配属となったという事です。

 

一つの物語は、ここから始まります。
小児病棟看護婦の道を歩み出した私の心のザワツキ?!小児科部長先生は、入学試験の時に困難な採血トラブルを難なく解決して下さった先生なのです。やや緊張でしたね。

部長先生は、基本は静かで書物の読破力は半端じゃなく、頭に記憶されていらっしゃる。朗らかによく笑い、こよなく阪神球団を愛しておられ、高校野球の開会式には必ず、半日休暇を取って観戦。プロ野球が始まれば阪神球団を応援し、昼食時には、巨人応援の先生方と、負けた・勝ったの賑やかな談義を展開していましたが、部長先生のお名前は「虎太」ですから、話の先は、良くも悪くもオチがついて終わりになるといった具合でした。子ども達も部長回診時には、虎太先生を待ち構えていて、先生が病室入口に立てば、「六甲おろし」の大合唱が。これだけでも当時の病棟の雰囲気がお分かりいただけるでしょう。今では、許されないことかもしれない伝説になったというべきでしょうか。

部長先生は、小児科外来を含む小児病棟の絶え間ない多忙さにも泰然とされて慌てることなく当然に指示が飛んできます。と、私達は悲鳴を上げる。エ~ッ?先生~?!それって~!!今から~!!!不愉快・拒絶の悲鳴ではなく、覚悟の悲鳴とでも言いましょうか?

「小児の病気は待ってくれない」「小児の病気は勝負が早い」「私たちは直ぐに、何をどうしなければいけないか?」「判断を遅らしてはいけない」「拙速に判断してはいけない」「子どもの命は、親御さんにとって全てなんだ」これらは、常々発せられる言葉でしたし感情的に舌鋒鋭く命令的に私達に、指示を飛ばしてくることはありません。医療観(殊に、小児医療観)を秘めて活動されている姿には、「小児の命とその家族」への医療人としての在り方、人間としての命との向き合い方 を受け止めておられその覚悟が伝わってくるのです。一つの医道(哲学)を持っていらっしゃったと思います。常に、一つ一つの場面が、その児の性質、病気の重さに対して、心尽くされ配慮されていることが思い出されるのです。看護婦たち個々の中に、しっかり浸透していましたね。その教え、伝え方が、殊更ではなく、自然にと言えばいいでしょうか?

約2~3年たった頃と思いますが、大学紛争が結構激しくなって、臨床医学部でご活躍されていた中堅やベテランの先生方が、2~3人赴任されてきて、Dr.の特質、特性が示される中で、一層、症例の多様さ、深みが出てきました。そして間もなく、京都大学医学部出身の若手Dr.が、我が病院の小児科医として就職していらっしゃいました。小柄で華奢な先生とお見受けしましたが、胸中にはやる気を秘め、アウトドア派のご趣味をお持ちでした。早朝ボーリング、卓球、バレーなど、お誘いすれば、乗ってきてくださるというエネルギー感あり、笑えば可愛いロマンチスト。その頃は、大変な症例が多くあり、勉強熱心で、私達看護婦には、論理的臨床解析をして説明して下さるので、学びの満足感があり楽しくもありましたね。当然(断然)看護婦さんから頼りにされましたから、病棟の雰囲気は活気づきいつも笑いが巻き起こっていました。

さて、今日のお話はこの辺で終わりにしましょうか。次回編をお楽しみにお待ちください。

 

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【第四章】 看護師人生の第一歩は、小児病棟看護婦から

教育学部養護教員養成課程での勉強は、あっという間の1年を経過した3月には修了証書と共に、養護教員1級免許の資格を頂きました。ですが私は、養護教員への道は選ばず、4月からは、元の所属病院に戻り、休職契約通り「看護婦」復職をしました。

頂いた辞令には、「小児病棟勤務」とあり「何故に私が小児病棟」なのか??
実は、私は、一人っ子だった所以か(?)小児認識が「好きとか嫌いとか苦手」というのではなく、「私と小児期の子供と病棟」のシチュエーション(立ち位置)が思い描けていなかったのです。看護部長(当時は看護部のトップは、総婦長の役職名でした)は、「貴女は何のために、児童心理学を、わざわざ1年間も休職して学びに行ったのか?」と問い返されたが、確かに、「児童心理学を学びたい」と1年間の休職を申し出たことを考えれば、当然の小児病棟配属になるのかもしれません。そこは素直に「あっそれはそうです!申し訳ありません。よろしくお願いいたします。」咄嗟の言葉で一礼し辞令を受けとりました。

ノンちゃん!しっかりせんかいな!! 慌てて認識を新たにして、子ども達の存在価値を見失わないように、子どもをそのままに受け入れることから始め、子ども達の看護婦さんになろう!と。私の心に、そのような電流の流れを感じました。

私は小児病棟勤務の辞令を眺めながら、入学試験の時から既に、小児科にご縁があったんだなあとつくづく思いました。私が看護学校入試の日、健康診査で私の血管が委縮してしまって採血が困難を極めた時、アッ!という間の採血手技で採取して下さったのが、小児科部長先生であったのです。その時は、何処のどなたか?また顔も認識できなかったのですが、柔らかい声で私を落ち着かせてくださった感触は覚えていました。私にとっては、お顔は知らねど忘れ得ぬお人=小児科部長先生であったわけです。部長先生の「所作とお声」、それはすごく安寧な親近感を覚えていて、小児病棟配属辞令は、私の看護婦人生の良き出発点になると思いましたし、私自身が看護婦としての存在(どんな看護婦になろうとしてるのか)の自覚を持つことができ、覇気が湧きあがってくるようで感謝でした。

総合病院を標榜する看護部は8単位あり、私は48床の小児病棟看護婦として10年間を過ごしました。当時私は、実際に子どもが好きなのか嫌いなのか?苦手意識を払拭できるのか?そんな躊躇感をもって働き始め、これからの小児病棟での働き(小児科医師と看護婦たちと病児たちとそのご両親様…とのこれから)を、とにかく何の手立ても持ち合わせていない私本人に委ねていくしかなく、それはもう、医師団をはじめ看護婦仲間の「立ち居・振る舞いをそのままに受け容れ、経験を増やしていけば、働く楽しさを覚えながら、心にゆとりを得ていければよいと。とにかく何事も経験値を高め、児と家族の方々との距離感に注意していこうと。しかし実際は、躓き、迷い、嘆き、喜べない、哀しみ、恨み、闘いに出くわし続けましたし、私の頑固で生真面目な主張や、不愉快さの顔相をバラマキしてしまうなど、調整しがたき私の振る舞いがあったと思います。今思えばなんという振る舞いをしたものか…。

病児とその家族たちとの良好な距離感は、病児の顔や所作に現れ、児の顔の輝き、声の力強さ如何で察知することができるということにも気づきながら、やがて1年を経過した時、病院付属の看護学校の小児保健・小児看護の講師を担当することにもなり、仕事の幅(キャリア)も広がり、論理性のある指導、学びのプロセスを大事にすることができるようになってきたと思います。

講師の担当は、私にとって日ごろの仕事上の経験や知識を、論理的に整理することになりましたし、健康・保健に関しては、特に小児期の成長を見守ることになり、患児達の成長発達・健康上の問題点・小児特性上の知識を受け止めていかなければならない慎重で意味深く学べる良き機会を頂けたと思います。しかし実際のところ、小児の背丈に目線を合わせ、小児の動揺(動きのリズムというのかな?)に馴染み込んで、病院生活の楽しみを、医師の先生方や看護師さん達と、創りだしていくという即興的(であったり)計画的な試みは、やはり簡単なことではなく難しく大変でした。

総合病院の中の小児病棟は、明るいエネルギーが満ちる一方、悲しみのどん底に突き落とされるような心の動揺が色濃く、児の家族の苦しみは、表しようがないくらい迷い、堪える、不安定な感情が交錯するという多様な体験を繰り返すということはしばしばあり、しかしとにかく「児を見失わない」一体感なエネルギーを保ちながら「生きる」手立ての限りを実践していくこと、児やご両親の悲嘆に寄り添い尽くすしかなく、私は希望を持ってこの状況に処していく…こんなことを学ばせていただいたと思います。

抽象的な言い回しになってしまいましたが、病児たちは「病」からの苦痛を抱えて病院生活の中に過ごし、生活と遊びのバランスはかなり制限されています。日々ストレスからの解放を得て、平安で笑顔の中に暮らす時間・場面は僅かなわけです。単に同情的に情緒的に優しく…ではなくなのです。

話は大きくぶれてしまうかもしれませんが、ナイチンゲールは、クリミア戦争時、戦地の傷ついて苦しんで横たわる兵隊さんの一人一人に、深く心を寄せて仕事をされた という伝記は、小さい頃から読み知り得ていたことではあり、しかし、成人して看護学校に学ぶ私達は、さらにクリミア戦争とナイチンゲール伝記をより深く読み解き、学びを得、看護の原点に感動したことを覚えます。小児看護に接し、現実に看護実践し始めていくと、このナイチンゲールの看護の原点を現実的に学んでいく事ができていくような感慨を覚えたものです。勿論、私などの看護力を、ナイチンゲールと比較対象するなんて畏れ多き事と承知していますが(苦笑)、希望のよりどころとして大きな力になってくると思います。

本日はここまでの私ストーリーです。今後は看護現場でのエピソードの一つ一つを思い起こしながら、話題提供して行きたいと思っています。

 

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【第3章】2節 僅か1年の大学生経験は、私の自由観の形成期でもありました!?

看護学生生活3年間の不自由感は、大袈裟かもしれないが日々、心理的に追い詰められていくようで、その心理の行き先は、解放感を感じにくい箱の中に納められていくようで息苦しいものでした。生活上の営み全てが自動的に進み、決められた何時も通りの時間が過ぎゆくままに、明日を迎えていました。ですが、そこは青春のエネルギーがそこはかとなく漂っているのですから、じっとしているなんてことはありえなく、ちょっとした事にも大袈裟なくらい弾け合って賑やかでした。与えられた空間は、狭いながらも楽しい我等の住処と心得、狭い箱の中に笑い声があり、喧々諤々の騒音があり、そうよ~!そうじゃないよ~!良いじゃないの~!の歓声が交錯していたと思いますから、案外、学則には素直に従い、心地よい不響和音の青春の響きに酔いどれながらも、日々感謝の心を持って迷路に陥ることなく仲間に支えられて過ごすことができたと思います。

さて、大学生活を始めた私は、この1年をどのように過ごそうとしていたのだろうか?

私は郷里の同級生の大学生活を遠目にして、羨ましさを募らせ大学生活の自由な学びを経験したくて入学したのですが、1年という期間は結構慌ただしい日々と心得て、大学の先生方や学生たちと自由に語り合える時間を持ちたかったですし、広い学びがあることを願っていました。当初は臆病さも手伝って静かにその場(教育学部保健研究室)に身を置いて模様眺めでのんびりしていましたが、まもなく早い時期に、好きなダンスをし始めてみたくてフォークダンス部(F.D)に入部し、他学部の学生たちとの交わりができるようになりました。

この時代の思想軸は、いろいろあったと思いますが、私が影響を受けたのは、フロム著の『自由からの逃走』などが上げられ、それを学ぶ機会ができたように思います。
また1960年代の学生活動は、先鋭的行動が繰り返されていて、学生運動は、アメリカのベトナム戦争(侵略)反対運動に呼応するかのように活発化し、やがて管理体制化を求めての方向に向かっていくであろう境界にあったと思います。混沌とする世界的な反戦運動のうねりの中、なかなか止まぬベトナム戦争は、解決なき敵対連鎖が長期化しており終息に向かうには遠く、世界全体が、疲弊感・無力感・空虚感に支配されていたのではないでしょうか。そして、フロムのこの著書は、広く読まれており、私も多少影響を受けて、難しい本著を読みました。ただ単に読み始めたのであれば、私は途中で放棄していたと思いますが、触発されて読みはじめたって感じですかね。教育学部の教授先生方や研究室の若者、F.D部に集う学生達ともちょっとした話し合う機会があるなど、話題になりました。

F.Dは、週2~3日、3時間ほどの練習で、学生達は男性が多く女性達は男性の3分の2ほどでしたので、大事にしていただきました。練習の内容は、選曲・振り付け・新作への挑戦など、運動量は多く研究的でした。金沢にやってきて初めて、北陸3県(福井・石川・富山)はフォークダンスが盛んであることを知り、本格的な運動量の多いダンスでしたが、踊りは、エキゾチックで浪漫的で民族的で融和的なのが楽しく魅力を感じましたし、練習を終えれば、夫々に帰路につきますが、三々五々に分かれては、喫茶店や居酒屋に立ち寄って、色々語り合うわけです。これがもう楽しくって、学ぶことができて、恋に陥るカップルもできて…と、青春を謳歌してるな!自己満足感多々でした。

残念!ながら私は、恋人は出来なかったものの、1年間をエスコートして下さる若者(法学部)が現れ、古書店、和菓子店、レコード店を回り、クラシック・レコード鑑賞、絵画芸術鑑賞・金沢散策など、未知なる世界を幅広く案内していただき、多くの知的な栄養を得ることができました。きっとその頃の私の顔は、輝いていたのではないでしょうか?

私の学生本来の学びの軸は、教育学部保健研究室に所属して養護教員養成課程の教育カリキュラムに沿って展開される授業です。看護学校時代の教育と違うのは、教授たちの存在が身近であり普段的であり、緊張感を持つことが無かったのには、びっくりで新鮮でした。授業の中では、紹介される諸本が多くあり、全て読破できはしなかったが、勝手に重厚感を感じ、自己満足感は高かったのですから、単純な人間だったのだと思います。こうして私は多くの人々と出会い、未知の著書と出会い、金沢にマッチングする郷土の産物や歴史的な町並や武家屋敷路の散策、古書探し、老舗和菓子とお抹茶の味わい、九谷焼との出会いなどなどを通して、一歩一歩金沢の学生生活に馴染んでいけました。

さてフロムの「自由からの逃走」について端折って要約してみると、「自由-心理学的問題か?」「個人の解放と自由の多義性」へと進み、子どもが成長し、第一次的絆が次第にたちきられるにつれて、自由を欲し独立を求める気持が生まれてきます。子どもは個性化が進むにつれて強くなっていく一方、孤独が増大していきます。孤独な子どもは、権威への服従か自発的行動かの二者択一を迫られるということです。そして「近代人における自由の二面性」人間はよりいっそう独立的・自律的・批判的になったことと、よりいっそう孤立していく「逃避のメカニズム」「自由とデモクラシー」へと展開し、われわれの社会では、感情や思考、意志的行為における独創性が欠如している。自発的な活動は、人間が自我の統一を犠牲にすることなしに、孤独の恐怖を克服する一つの道です。云々…。ほとんど解らないに等しいのですが、このような著書と出会ってこなかった私は(勿論、読みこなすことはできないにしろ)、読書する機会に出会ったこと、周囲の人たちによって読破して、中味を吟味できたことは大きな体験学習となりましたし、「学生を味わえた」と思えたのです。

金沢大学の1年は、時間軸としては幅が小さいものの、10年くらいの学びを得たという感触は、大阪に帰ってきて以降いつまでも忘れ得ぬ思い出となり、私の働き方、働く姿勢に、長く大きく影響を与えてくれました。

さて、次回は、どんな思い出を切り取ってお話ししようか考えあぐねます。が、楽しみにお待ちください。

 

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【第3章】1節 潜在していた「大学での学び」!まさかの挑戦!?

3年間の看護学生生活は、世間知らずのなせる業、波瀾を招く万丈さをもって、困難な時々を通り過ぎてきましたが、総合的に見れば、病院や看護学院の教育的な視点の礎はしっかりしており、毅然とした教育体制があり教育環境も良く整えられていました。教務の先生方の意気込みと熱意は計り知れないほどの迫力が、私達に伝わってきました。私達もまた守るべき学則や日常の学びにおいては、几帳面で素直な学生であったと思います。社会全体を見渡せば、私達の10代の頃は、自由への模索が熱気を帯び、解放されるべき方向に風穴を開けようとした時代で、戦後復興への力強さが溢れていましたが、一方では、旧き社会の窮屈感・閉塞感に抗しきれぬ苛立ちを感じていた社会ではなかったか?と思います。このような社会背景の中で、看護婦養成課程の教育プログラムは、幾重にも検討が重ねられ、さらなる高等教育化に向かって、課題解決を図ってきたのは確かです。看護職者たる看護職域の論陣を張る先人の方々の熱き思いは、ほとばしる真剣さで検討されていたのを思い返せば、ひたすらに感謝であり、時代の変革期ではあったと思います。しかし私は、当時の看護婦養成学校3年間を経験したわけです。見渡せば、何か物足りないむなしさを覚えていたのは確かですし、先生方との関係性には、ある種の緊張感がありましたし、簡単に親しみを表現することはできなかったですし、ある種の距離感を保っていました。が、しかし、先生方は、専門職業人としての誇り高い信念を持って、教えることの困難さ、学生達を導くことの困難さに悩まれていたと思います。

私が新人看護婦として配属された最初の病棟は内科病棟でしたが、結核既往歴があり排菌の恐れがなく、他の内科疾患治療を必要とされる患者さまの病棟でした。56床ほどの病床はほぼ満床で、入院経過が1年~3年~5年の長期入院患者さま達でしたから、新人の私は、患者さまから真面目な顔してからかわれたりすると、不愉快さを覚え、何でこんな病棟?と涙が出るほど悲しみが込み上げました。先輩の看護師さん達が申すには、「世の中生きていくには、こんなことぐらいで怒ったりメソメソしてたら、きりないよ。患者さんからのからかいなんか、何事もやり過ごすことやね」と。モチベーションは下がり、半年くらいは仕事が面白くない気分で働きましたが、そういえばいつ頃からか、本来の笑顔が出せるようになり、看護上の対応にもどうやら工夫と思慮・思考が巡らせるようになってきましたから、ま、1人前の看護婦さんになっていけたと思います。

そして気持ちのやり場が落ち着いてきた頃、私の頭の中に、成し得たい一つの小さな願いが沸々と湧いてきました。それは、看護学生の頃、夏休み、冬休みで郷里に帰ると、大学に進学した友人たちと会って近況など色々と話合ううちに、私は密かに「私も大学での勉強をしてみたいな」と思うことがしばしばありました。大学生をしてみたかったのです。明快な視点に導かれたのでもなく、漠然としたものでしたが、叶えられるにはどうしたらよいものか?安直であるにせよ、大学受験がどうにかできないものだろうか…?と。調べて導き出した案は、国立系の総合大学教育学部養護教員養成課程1年修了コースの道です。大学に進める道はそれしかなく、大学受験を目指して勉強して来なかったけれど、何としても受験して1年間の大学生生活を経験してみたい…。看護婦職の道を歩んでいくその気持ちに変わりはない。養護教員養成課程1年間の学びの場で、教育学分野を学び、他の学部の方々との交流もできる、その経験だけでも、看護婦としての歩みに大いに役立つことがあると思いました。

受験理由を私なりに正当化して受験準備にかかることにしました。が、ここでしっかり考えないといけないことは何か?1年間の大学生活…を実行すれば、1年間の学費と滞在生活費の経費を準備しなければならない。さらに…看護学生時代の奨学金(2年間分)を返済しないといけないのです。忽ちに金銭的には破綻を来してしまい、さらにもっと大事な約束が…。卒業を前にして言い放った忘れようもない誓いの言葉「3年間を病院で頑張ってみせます」。これを反故にしてはいけないのだ。決断できずに思いあぐねる日が続くうちに、受験票は届き、入試日の1月末は刻々と近づいてくるばかり。解決に至らぬまま、ついに入試日が来て、迷うことなく雪降る金沢大学に向いました。2日後には合格通知を受け、それはとてもうれしい私自身へのニュースでした。

何が何でもの意を決して事務長さんに相談させていただくこと致しました。ではありますが、卒後一年目の私が何申す!?と自問自答するばかりの気後れ感、もやもや気分と闘いながら、事務長さんに面談を申し入れました。「どんな相談ですかな?」笑みを浮かべておっしゃられましたが、そこはやっぱり用心深く控え目に…! 問題多き5回生の私が何を言いだすのか?

 

「私は、1年間だけ大学(金沢大学教育学部養護教員養成課程)で勉強したい。養護教員になりたいとは思っていないので、終了すれば病院に帰ってきます。ですから、1年間を退職にしないで休職にしていただきたいのです。看護婦の道を残していただきたくお願いできないでしょうか?1年後には必ず病院に帰ってきます。大学で学びたい主科目は児童心理学です。看護婦として大事な学びになると考えています」と。

目を閉じて話を聴いて下さっていた事務長さんは、おもむろに、

「この話は、聴かなかったことにする。あなたの所属の管理者はどなたですかな?」

「はっ?あの~看護部長です」

「ならば先ず、相談しなきゃいけない人は誰かね?」

「看護部長ですが…?看護部長さんに話しても否定されるだけですから。」

「私は何も聞かなかったことにします。あなたはあなたの上司、看護部長にきちんと申し出なさい」と突っ返されました。

一から交渉し直しの苦手な交渉に、この話はもうまとまらないことを覚悟して看護部長に面談を申し出ました。勿論、いきなり看護部長は私を叱り飛ばされました。2~3日後、事務長からの呼び出しがあり、「看護部長から話を伺い、検討した結果、1年間の休職を認めましょう。必ず帰ってくることを前提で、あなたを信用して許可するのです。初めての事ゆえ、この契約を破棄すればどういう事になるか?社会人の責務としてしっかり認識して手続きを進めるように」と。私は、許可されたのです。晴れて、1年間を大学で学ぶことができることになりました。

(この続きは次号で またお話ししましょう。楽しみにして下されば、大変嬉しいです)

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【第2章】5節 私の看護婦人生:希望のスタート

私は、一応順当に看護学校を卒業。国家試験も無事合格して、社会人看護婦1年目を初々しく歩み始めました。その辺りの詳細は、もう忘却の彼方に飛び去り、定かでない事が多いのですが…。そこはお話ししておくのも良いかと思っております。

当時、私が入学した看護学院は、病院付属の高等看護学院であり、入学生の学費・寮費の経費は、3年間、病院から奨学金として支給され、学生は全員寮生活をする事が義務付けられていました。奨学金の返済は、卒業後3年間は母体病院で働く、という条件が義務化されていて、理由あって3年内に退職するときは、残費清算して返済することになっていました。そして最も大事なことは、「保健婦・助産婦・看護婦国家試験」に合格することが最大の命題でした。看護師国家試験の実施日程は、基本的には2月の第2日曜日(看護学校卒業直前)で、私達の卒業式は3月でしたから、卒業仮認定申請して受験に臨みました。

3年生は、国家試験と卒業を控え、新年早々から落ち着かない緊張感の中で過していました。教務の先生方からは、「当看護学院は、開校以来、不合格者は出していません。合格するのは当然で不合格はありえない。」と、ことあるごとに力強い励まし?の発破をかけられ、私達もまた「ご心配いただきありがとうございます。合格できるよう頑張ります。」と力強く応答してみるものの、頭の中は、実感の持ちようが無く、奇妙な感じでした。国家試験を合格しなければ、看護婦としての旅立ちは出来ない。前に進むしかないわけで…とならば、ここは国試勉強に必死で取り組まざるを得ない とばかりに、誰に助けを求めることもなく、自分自身との闘いでした。私自身、失敗に対しての覚悟を持ち合わせた強い意志がほしいのですが、問答は空回りして思考が集中しないから、案外安直な構えだったように思います。

国試合否の発表は、4月入社後の6月。幸いなるかな全員合格の報を受け、ほ~っと腑抜けていくように緊張感が解けていったように思います。合格の報を受けて、その夜は仕事を終えると、5回生6名は、足取り軽く身も軽く「お祝い会」に出かけ、思いっきり弾け、喜びお祝いの乾杯をし、労いあいました。
やっぱり苦しかったよね!よく頑張ったね!3年間を無事過ごしてこれたよね!乾杯!!

私達の学年は一つの強固な意志特性(12名それぞれが、個性的な意見・見解を持っている)があり、何かある度に賑やかな議論舌戦を展開する5回生でした。強固な5回生ではありましたが、出尽くした議論がそれ以上に進展せず、良き知恵に集約されないと解ると、あっさり多数決か合意的妥協で決定し、恨み言なし。そこはホントにさっぱり終りにするという良質な特性を持っていたと思いますし、可笑しな笑える5回生でした。

卒業は12名全員ができる事になり、3月中旬に行われる卒業式の当日は、糊の効いた白衣に身を包み、髪の毛は乱れぬようしっかりピン止めし、ほどほどに頬紅をさして爽やかな溌剌とした若人仕上げに。胸元には紫のカトレアの花を飾り付けた卒業生12名は、両親や親族、看護学校の先生方、院長兼学院長と病院の主要な方々、下級生一同の皆様に見守られ式事を終えるのですが、在校生代表の送辞、卒業生代表の答辞に至れば、号泣に近い嗚咽がクライマックスな高揚感に。これはもう、止めようのない泣きのシンドローム状態で、その乙女チックさを思い出せば、ちょっと照れくさい話です。

ところで、5回生12名の卒後進路についてはひと波乱ありました。私達5回生は、入学時から欠員状態の上、途中退学者を出して12名という最少人数で学んできました。12名グループというのは、コミュニケーションの距離は取りやすく、口論になっても一晩寝れば鞘に収まっている。良く言えば、その結束力は如何なく発揮してきましたし悪く言えば、ごね得とも言われた5回生です。ところが当に、良くも悪しくもなのですが、生涯忘れ得ぬ「卒業間際のひと波乱な深刻事態」を引き起こしてしまったのです。

卒業後の就職は、全員が付属する病院に就職するのが従来の鉄則(基本的な契約?)で他施設に就職するなどということはありえない事でした。
しかし12名中5名は、外部の病院・福祉施設に就職を決め、1名は就職せず結婚を決めていたのです。当然、病院側からの強い慰留の説得が数日間続けられ、次第に叱責に至り感情的な対立となりました。私達学生側の契約上の遵守責任も然ることながら、教務の先生方にとっては、仰天の職務上の責任問題で、病院側からの厳しい追求があったはずです。どんな説得工作に於いても6名は、説得に応じず強固な意志貫徹を持って突破しようとしていました。

私達12名は、仲間だけを見つめ、守り合うという意気込みではあって、それしか見るべき方向が見えなかった(見ようとしなかった)という事かもしれません。残留する6名は6名で、彼女たち外部に所属しようと決め込んでいる仲間の決意の頑強さに、説得する意思は持ちえず(むしろ説得しようとは思わなかったと思われる)交渉中の病院側に対して、「私達6名が残ってこの病院のために、頑張っていきますので、6名の仲間の意志を尊重して認めてください。」などと、ありえない主張を繰り返したのです。

ついには認めていただくことになりました。が、しかし、残留する私達6名の主張が「認められた」という甘い汁の回答を頂けたとは思いませんでした。実際、この問題については、対立の過程では、学籍抹消に値するくらいの病院側の強い怒りを私達に向けられ、「何故そうしたことが解らないのか?これから社会人として厳しい社会の中で生きていかなければならない事を解っているのか?医療人として看護婦として、人の命と向き合っていくということはどれだけ大変で、責任の大きい仕事か解っているのか?」と。まさしく親が子に生きる術を必死で教え覚え諭すように…何故それが解らないのか?そんな必死な説得であったかと思われ、これからこの病院で働いていく6名は、「自分たちは病院に残って勤めていこう。」「病院には大変な迷惑をかけた。私達が、このような事を引き起こさないように事前の策を取らずに、密かに突入させてしまった。しかしこれまでの順調な流れを受け継ぐだけではなく、ある意味で別の道を選んで行ける自由もあっていいではないか?」などなど、結論の出せぬ出せない思いを肝に銘じて、決して忘れないで働こう。私達がこれからしっかり頑張っていくことで、5回生の罪・恥にならないよう頑張っていこう!」と誓いあい、病院に留まることになりました。

~それにしてもエライ事をしてしまいました~。

この病院に残留の6名は、2年間ほど、看護部上司たちの目線の冷たさに耐えて働くことになりましたが、そのうちに重宝していただけるようになりました。全員が5年間は働き、その後は、結婚やら、故郷に戻るなどしましたが、永く勤めた3名は、看護部のリーダー的な役割を担い基礎看護教育の分野でも活躍してきましたが、今は昔の物語。

たまにこうして想い出してみれば、あの頃の青春時代、青臭く残るあれこれの思い出が、とめどなく噴出してきます。しばし立ち止まって、あの時あの人あの時代に思いを寄せてみれば、また苦楽の思いが、蘇ってくるでしょう。それは私の人生の希望の歩みとして…。

仕事をしていれば、時に人間的な感情を縛る時があり、そんな風に自分の感情を抑制していくうちに心が重くなっている。そんな時にこそ、多くの人との交流は、案外、自分本位な心を溶かしてくれるものだと感じてきました。耳を澄ませば、昔の仲間の声が聞こえ、はっと気が付けば現実の声を聞くという、そんな交錯を通しながら、人間同士の交流の信号を読み取り、心が穏やかに和んでいくのを感じるこの頃です。

 

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【第2章】4節 学業と寮生活と歌声の響(共鳴)

現状の看護師養成教育課程からは考えられ様もないが、その頃の看護婦(師)養成教育は、「学業と寮生活」が統合された形で教育展開されており、それはそういう一時代を経て、発展的な近代教育の今がある としか言いようがない。

寮生活の中にあって目覚めて始まる一日は、ピ~ンと張りつめた一環性の中に、計画的に規則正しく流れて行く。先輩の注視する、声、言葉、目線、仕草が、何かにつけ支配的であり(そのように思われ)、自由な雰囲気を得ることはなかったのではないかと思っている。

一般の大学生、短大生の教育課程とは異なり、教育カリキュラムは、医学・看護学分野の専門領域の教育課程が、ぎっしり詰まっていて、毎日の学びの忙しさは、結構ストレスフルであったけれど、深い学びの過程をたどるほどに、看護への興味は増してきました。

その変化の感じ方は、看護教育の力であると認識することはできました。私の場合、1年生後半になって、健康回復のきざしが出はじめ、クラスメイトたちとの呼吸がかみ合うようにもなって、大きな声で議論し合い、笑いあえるようになってきましたから、大きな進歩・成長ができたといえます。

今まで何かしら、このまま代わり映えしない閉鎖的な環境で3年間を過ごさないといけないのだろうか?こんな疑念に支配されていたようで、私は、世間に乗り遅れていくのではないかと体が強張っていましたね。パッと弾けるような解放感を渇望していました。

私の学年は、総勢12名。エネルギーとしての見た目は力不足の状態です。幸いなるかな!12名というのは、非常にコミュニケーションが取りやすい利点有りなわけです。良くも悪しくも12名は、学業は素直に学び、寮生活では、先輩の凝視点検の難儀を感じていたけれど、そこは結束力でサラッと受け流すという技を身に付け、3年を終えるまでは、ひたすら看護学校卒業⇒看護師国家試験合格に邁進するのみ。それを目標として頑張ってきたと言えるかな!?

大学・短大・専門学校の違いを知り尽くしながら、12名の仲間は、有耶無耶感をすっきりと再生させるべく自己表現を表出しあい、共有を図っていけたのではないかと思います。 謂わば私達、不揃いのリンゴ娘たちは、其々の個性を持って自分の立ち位置を自覚して共同、協同、協働を成し得ていけたのでは?と思います。さて2年生の後半に入った頃のこと、私は良き情報を耳にすることができました。1学年下の看護学生でピアノを弾ける学生がいると知り、何かピッと来るものがありました。さてどうしたものか…?!

彼女とは、寮舎内で会えば普通に話もし笑いあうという親しさもあったので、ある日、私は「指揮棒を振ったことは無いにしても、中学・高校では合唱部で練習を重ねてきた経験があり、その経験を頼りに期間限定で合唱部を作ってみたい。あなたが、ピアノを弾けると聞き、合唱部を結成できないだろうか?」と尋ねたところ、「良いですねえ。簡単な曲ならば弾けると思います。」との反応を得て、思い当たる3曲ほどを提案したところ、「ちょっと弾いてみて、弾けそうなら直ぐ返事します。」と。その後日、「トライしてみましょう!」との良き返事を受け、あれよあれよという間に、準備が整い、1年生、2年生を募集したところ、20名は集まりました。合唱部結成の喜びは大きく、不安ながらも挑戦してみることになりました。

計画の詳細は、練習曲3曲(モルダウの流れ、ゆりかご、夏の思い出)、練習期間は1年2か月(再来年3月までの18か月間)、この間、春休み・夏休み・冬休みを除けば約15か月弱、練習日程は毎朝7時15分~8時、目標は「3年生の卒業祝賀会で練習成果を披露してお祝いする」。こうして20名の賛同者を得て、期間限定の合唱部が発足できました。えらいこっちゃ!!です。

発声練習、パート別練習、全パート合わせ を組み合わせた練習を実施しましたが、やはり朝練は、実習前の時間利用という事ですから、学生にとっては少々厳しかろう?続くだろうか?との思いは杞憂に過ぎず、予想外な反応が得られたのです。

「朝の練習を終えて、実習場に行くのは気持ちよく、身体もすっきりする。」との好反応。毎朝10~15名は参加するという状況で、合唱曲の選定にも好感を持ってくださり、1年2か月間で3曲を仕上げることができたのです。その間、大きなトラブルには至らず練習は続行されたという事です。早朝の発声は、本当に気持ちよく美しく響くものです。学校にはピアノは無く、病院の講堂にありましたから、その広い場所をお借りして練習ができたのですから、ラッキーというよりほかなく、ありがたかったです。一部の患者様や、病院職員の方々から、「毎朝きれいな歌声が聞こえてきて、気持ちいいわ。上手に歌っているわね。」との感想を頂き、嬉しかったし、励みにもなりました。

そして3月中旬、3学年一同で開催するイベント「卒業生を送る祝賀会」に於いて、練習してきた合唱曲2曲を披露する時が来て、病院院長兼看護学院長、事務長、総婦長(現看護部長)、婦長(現師長)さん方と、3学年の看護学生が共に会合する場に於いて、私達合唱部員18名(だったかな?)は、晴れやかに、美しく、歌い切りました。

この経験は、「感動した」物語ではなく、看護学生の3年間の中で、看護学生の寮生活の窮屈さに閉塞感を持ち、如何に逃れようとしていたのか?単なる反発行動に陥ることなく、教務の先生方や病院の経営にあたる院長、事務長、看護部長の方々と、敵対ではないながら、しかし親しみからの距離感で交流が交わされる意識などありえず、むしろ遠い存在であったと思われるが、そんな面倒な意識解析はどうでもよく、垣根は解けて、グンと近づけていたのです。

凄い拍手喝さいを頂いたのは言うまでもありません。
アンコールの声もいただきました。あぁ~!気持ちよかった~!

私達の達成感・満足感は最高でした。その時の感激・感動が今も蘇ってきます。

 

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【第2章】3節 看護学生の反抗?それとも穢(けが)れなき悪戯?

私達5回生は、2年時の後半までに2名、2年目の前半に2名、計4名の自主退学者を出し、5回生は12名という極めて少人数のクラスになりました。

看護婦への“begin”は、ようやく5回生としての、安定を得て進み始めました。想像だにつかなかった看護学生生活は、当然、初期混乱を巻き起こし「自分の道はこの分野では無かった、このような学び方を3年間続ける意味がない。」などと御託を並べ、悩みを打ち明け合う日々を過ごし、共感・共有の流れのままに、意志結集力はゆるぎない力となっていったようです。(然しまぁ…12名とは淋しいものでございました…!? )

意思疎通良し!風通し良し!正義感の迫力良し!実直で真面目!夫々の個性がはっきりしていて意志強固、誰彼区別なく級友の為なら、何としてでも、友を守るという熱血女子隊に成長。お人好しで世話好きな分、ガサガサしていたようでもあるが、女性のしなやかさ、若気の恥じらいはありました。

文学好きな学生が多く、皆が本をよく読んでいて、センチな詩や文章を諳(そら)んじたり、物思いにふける乙女チックな自己表現をする役者ぶりも発揮するなど、最初のうちは、そんな自己表現に違和感ありながら、皆が慣れてくれば楽しみあうなど5回生は、可愛く弾くような素直感のある学生として成長していきました。

看護教育とは一体どのようなものなのか?どのように学んでいけばよいのか?と考えるには、まだ看護教育全体の可視化は万全ではなく、大まかには、1年目は「看護の基礎教育を終えて戴帽式を終えると基礎実習に入る。その間に前期テスト、後期テストを経て、進級が決定する」という説明があり、促されるままに取り組んでいました。先生方は、全員が進級していくために、精いっぱいの説明と檄を放ってくれたようですが、入学したばかりの私達にすれば、皆未知の世界の他人事気分で受け止めていたように思います。

現在のように、情報が豊かに入ってくることはなく、見よう見まねの最初の一歩から、どのように踏み出せば良いのか、どのような仕組・段階を通っていけば良いのか…?今までとは異なる教育内容に対して、チェンジする手がかりも解らず、導かれるままに従っていたように思う。

ほどなく疑問符が生じまくり、興味度を高めるには、抑揚のない講義が多く面白くない。ひたすらにとりあえず暗記だけしておけば…。及第点をとるために頑張ろう!という意気込みで支え合ってたのかな?

「とにかく卒業までは、私達何も解らないままに従うしかないね。それで頑張って国家試験を絶対パスしていこうね。」

健気なまでに学生たちは、腑に落ちない机上の勉強をクリアーして、いよいよ医療現場の臨床実習へ。計画的な流れに乗って実習に出て半年ほども経てば、実習の現状に、批判的な見解(実習は学びの場ではなく労働の一部として捉える)など無知なる青臭い主観を持って、励まし合ってきました。これが5回生12名のグループ力だったと思っています。

 

私達5回生は、わずか12名の小集団ながら、結束力が強固にありましたから、教務や病院側と改善に向けての話し合いを何度も重ね、3年時の修学旅行(研修旅行とも名付けられていました)が、従来より東北地方と決まっていましたが、私達は、北海道旅を希望し、その実現に向け交渉を重ねた結果、北海道は認められず、東北旅行を実施すると。ならば、私達は修学旅行は致しません。との返答で再び交渉となり、更なる旅行の意味づけ、日数の短縮を交渉の材料にして、列車・船旅・ユースホステル泊の組み合わせによる4泊5日の北海道修学旅行を認めていただくことになりました。

それは「ごね得」ではなく「話し合いによるコンセンサス」の形成であったと思っていて、私達も単に我を押し出すのではなく、どのような説得性を持って交渉するのかという貴重な体験をさせていただいたと感謝でした。

後々の看護学校の授業に、ディベート(テーマに対して対峙する2組が観客を説得するために論理的に議論する)学習が取り入れられるようになりましたが、私は、今でも、ディベート体験学習より、コンセンサス(論理的合意)の形成学習体験が、大事であると思っています。

そんなことを論理的な思考をもっていたのではないけれど、どうしても、学生の身分にある看護学生の日常が、寮生活の中に詰め込まれているようで、自由を感じなかったのは事実でした。看護学生ではなく看護労働者としての学生ではないか?という不満感から解放されることなく過ごしていましたから、世の中から取り残されていくようで、学生としての肯定感が形成されずにいたのでは無いか?と。何かしら遮断された不自由感に成すすべもなく…。

看護学生時代に、何を学び、体験学習を重ねていくのか、創造する力をどのようにして養っていけばいいのか…と、ノンちゃんはつぶやくのです。

 

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