今は秋。あるがままに語らい、咲くがままのコスモスの花を愛でれば

色鮮やかで、色とりどりの秋の花はコスモス。
風まかせになびけば、それがまた、赤・白・ピンク・紫・黄色の花が、しなやかに揺れ動く。
慎ましく自由で、切なくて可愛い。
醸すその佇まいが楚々として柔らかく、身体の深部までに流れてくる心地よさを感じてしまいます。
実際、コロナ禍にあっても、そしてまたコロナ禍が一段落したその後に於いても、楚々として風に揺られるままに咲いているではないですか…。

色とりどりに咲く美しい花と言ってしまえば、それまでの花の命。
否否!コスモスの花は、何故に美しく切なくて、きれいな詩歌が生まれるのか?などと絡んでみたくなりますよね。
秋はコスモスの花という誰もが知っている季節花であっても、飽きることはない。
眺めれば話したくなる私の話も、飽きることなく何度でも…ってな訳なのです。

コスモスの花は、細く繊細に枝分かれして、高き枝であれ、小さき枝であれ、不揃いな色・不揃いな背丈のコスモスたち。
風が吹けば、一斉に風にそよぎ、風になびき、花弁は揺れ、枝葉は風になびき、風に歌い、風に踊るという佇まい。
高原に群生しようが、野辺に咲いていようが、私達を爽やかに誘い入れてくれるのです。

誰だって思わず「ワオッ!! 綺麗!! 可愛い!!  爽やか!!  幸せ!!  泣きそう!! 切ない!! 」

そんな歓声が上がってくるのではないでしょうか?。

 

さて、コスモスのお話は、ちょっと中断致しまして、ここ最近にぎわせている話題と言えばこの話。を少し取り込んでみましょうか?

何だかんだと世間を騒々しくさせている「芸能社:ジャニーズ」の問題は、“如何にも”らしく喧々諤々の社会現象。
かような問題を引き起こした問題の根本は、ジャニーズという芸能大会社の最上層部の人(達)だ。
だがしかし…と思わざるを得ない、もやもや感が、頭をめぐりとても「うっとおしく」「空々しい」。
そこに映像が流される何事に於いても、(被害者の方々は別として)社会的に見た場合、この何十年間、問題を感知していながら放置してきた「情報発信社=マスメディア」や、解っていて乗っかっている芸能人も、しっかりと多くいるわけで、僅かな方々が、懸命の救助要請をやっとこさ表明するや、怒涛の如くうねりを増して「重要な社会問題」へと認識拡散したという、皆様ご存じの経緯があるわけですよね。

そして今、問題解決への対応が継続しているのですが、マスコミの報道・対応は何かしら、今尚白々しく感じられるのです。
私自身、内容的に詳細を知っているわけではないので、深入りなコメントを記して申し上げることはできませんが、この白ける感は、一人の思いとしてお伝えしても良いかな?との思いで書いております。

社名のジャニーズを改名して、一応、出直しを図るため、従来の社名を棄て、新たな陣容で新社名を標榜して「新社の出発」を表明しました。
しばらくは、多くの重要な問題・課題の整理、対応、対策に追われ、意思決定して行かねばならないプロセスは、多くの困難な課題に立ち向かい、そこには意見対立・路線選択の決定課題が、重くのしかかっていると思います。
決して安直な決定は出来ないでしょうから、何度も何度も繰り返し行われるのであろう検討は、多岐にわたるため並大抵にはいかないでしょう。
あまりにも多岐にわたる生身の人間を対象に、対応していかねばならないのですから、社会に叩かれもするでしょう。
問われるべき責任が大きすぎ、多すぎるように思います。

周囲の特にマスコミは、他人事に突き放して話題にしていくのではなく「マスコミの責任」はどうであったのか?
そこをしっかり、社会の重要な責任と役割を担っている組織として、大いなる社会的役割を示していただきたく願うばかりです。
私は、マスコミの攻め方は、狡いし怖いなあと思っている次第です。
ある意味、少なくとも社会の味方であるはず(と思っていて)、マスコミの検知力、探索力は、如何様にも発揮でき、解決への意見を具申する事も発揮できたであろうにと残念に思います。
マスコミや週刊誌の方々こそ、もっと必死になってお働きになって、建設的意見を伝えていただきたいと願います。

このようなブログ展開は、これまた、私としてはどうよ!!
とも思いましたが、コスモスの花咲く野辺を歩き、風の爽やかさとコスモスの花達の揺れ動く爽やかな群舞(というほどではないにしろ)、ゆらゆらしなやかに咲き生きるは、私達に仕切り直しの穏やかさ、もしかしたら我が身もそのように巻き込まれてしまうかもしれない危うさの同調感をもって、爽やかな芸能活動・芸能界の発展の歩みへと進めていただきたいと思った次第です。

ええ格好でもなんでもなく、何か社会の中に潜む魔物を、皆で対応して変革していくべきと思う次第。
一方的責任論を、今引き受けたばかりの(しかも芸能人として生きてきた)人達に追及しているようで、それ自体ちょっとおかしくないか?
芸能雑誌社、新聞マスコミ等も、やはりキチンと建設的な提言を交えて、社会的対応をしていただきたいと願っています。

私達一般人は、一生懸命働いて、僅かな娯楽の時間を思いっきり楽しみたいわけです。
一方的責任追及ではなく、マスコミの方々共々に、これからの健全な姿勢をご検討いただき、積極的な芸能社との交流を創造していただきたく思います。

付録:コスモスの花について
【四季語】
秋桜、おおはるしやぎく

【解説】
キク科の一年草。高さ二メートルくらいになる。葉は細かく裂け、茎はひょろひょろと伸びる。九月から十月にかけて白やピンクの花をつける。花弁が桜に似ているところから、秋桜ともいわれる。

【科学的見解】
コスモスは、メキシコ原産のキク科一年草であり、日本へは明治以降に導入された。花の美しさから、庭先や花壇などで栽培されている。花序は、ヒマワリと同じ構造で、中央に筒状花、縁に大きな舌状花が並んでいる。別名としては、アキザクラやオオハルシャギクとも呼ばれている。(藤吉正明記)

他人事ではない 医療界・介護界の労働人口減の現実!!少子高齢社会:労働人口の確保とAIという労働力との共存

最近、新聞・雑誌・TVなどは、日本の労働人口減は確実に進行中で、深刻な社会問題として特集されていて、また毎日、ニュースを見ていると、何かと高齢者の深刻で悲惨さを伴う問題提起なニュースが多くあるように思います。

次世代に繋ぐ希望的な未来への展望は儘ならず、一瞬、警戒心を高められてしまいます。がしかし、立ちどまって危機感を意識化することはなく、そのままニュースの流れに身を任せながら、やはり他人事にしてきたようで、今改めて反省な気を持ってこの文章を書いているのです。
日本の少子高齢社会は、著しく労働人口の減少をもたらし、社会全体が悲鳴すらあげるほど、人材不足の影響は大きくて深刻。
給料が高い・低いとか、綺麗・汚いとかの仕事ではなく、何しろどの分野においても、人材確保そのものが困難だというどうしようも動かしようのない、社会状況になっているというわけです。

私は、表記のお題で、医療界・介護界に焦点を合わせていますが、国全体の危機であることを受け止め、この問題の深刻さを意識して書かないといけないなと思って書き始めましたが、どうも記述の焦点が定まりきれないままに書いているように思われます。

労働人口減少の問題に関して、既に誰もが、その深刻さをキャッチしているのでは?特に若い方々のほうが、自分たち若者世代を強烈に意識していて、働き方の仕組みをリードされているのかもしれないが…。

労働人口の減少の前提は、1970年代半ばに、出生率は2.0を切って以降、1990年代には出生率1.5に低下し、その後も歯止めが効かず、確実に少子化が進む一方、既定の60歳定年制は、延長・改善されないまま(むしろそれまで一生懸命働いてきた人たちにとっては、老後の夢と描いたその後の生活の形や、余生の過ごし方に希望を託していたのだったが…人口の少子高齢化が進む事への危機の到来に関して、結構広報されていたと思われるが、危機意識の高まりにはならなかったという事なのか…?)

日本の未来の問題としては、既に2010年頃には、少子高齢化は確かな予測値(統計値)を捉え、危機の到来を防止すべく政策をとってきたことではあるが、有効な政策の一手を認識できるものではなく、流れのままに、国の平均寿命は順調に伸びて高齢者の健康寿命政策の徹底は結構順調に経過しているようにも思え、最近は60歳定年制が、65歳、70歳にまでも延長され始めているようで、場合によっては80歳にまでも延長している会社もあるようです。
社会は、若年者の労働不足が著明となり、歯止めとなる有効な手段がない中で、60歳定年制の改定・延長、健康寿命の延伸を図りながら、高齢者の労働力確保(人材の有効活用)に力を入れざるを得ない状況です。

この傾向は、私自身が既に当事者であるので、高齢者の就労の感想を述べるならば、「元気で生きている間は、やはり働けることは良きことだ!人生の終盤の生活に張り合いが持てる」と言う事にもなります(但し、労働時間の短縮と余暇の楽しみのバランスがお気楽に保証される事が前提となりますが…)。

確かに高齢者活用は、将来的な展望として、労働人口減の潮流を堰き止める効果になるのか?というと、簡単にそのような引き合いにはならず、少子高齢社会の歪みは顕著になっているにもかかわらず、有効な政策上の展望も引き出せず、若者の労働人口の減少・学生人口の減少、に関わる出生率の減少の解決の芽が一向に出てこない。
世の中、既に世界的には多様性の受け入れを主流に回り始めているが、その傾向を否定はしないが、多様性を容認する色々な事象に対して、私自身は、まだまだ構築しえないし、問題の焦点を合わせにくく感性が育まれていないような気がします。

日本の労働力人口とは、15歳以上の者で、就業者及び就業したいと希望し、求職活動をしているが仕事についていない者(完全失業者)の総数をいいますが、こうした社会現象を丁寧に見直すことも必要なのでしょうし、見直すというよりも、離職者・求職者の活用の方向で、有効な手段を考えていかなければならないと思い、世の中の見失ってはいけない財産を丁寧に掘り起こし、適正な教育を施し、簡単に見捨てる、捨て去る事なき、人材の育成を促していく必要があるといえるのでしょうか?

最近、凄い勢いでAIの活用が、本格的になってきていて、あっという間に、デジタル業界、放送業界、販売業界、そして医療・介護業界に浸透してきています。労働力不足を補っているということになるのか、業務の複雑化の緩和というのか、目に見えない、理解不能なまでのAI活用が、速いスピードで押し寄せ、実用化してきている事には驚きです。というか理解不能な速さで拡散・拡大しているのですから、違和感とか理解できなくて付いていけないとか、感想を述べている場合じゃなく、既にそのシステムに乗っていかざるを得ない。凄い世の中になってきたものだなぁなどと、のんびり感想は言っておれず、ひたすら、解ろうが解らないだろうが、AIの誘導・語りかけに乗っていかないといけないのです。

“AIが、労働生産人口を救う” そんな世界が出来上がってきたとき、医療・介護に携さわる私たち人間は、どんな生命観、価値観をもってはたらくことになるのだろうか?AIについて、何の知識もなく、理解不能な私が、今は、黙して、成り行きを見守るしか無いようです。が、もう少ししていつか、誰かさんや先輩たちと、こうしたことを語り合い、理解して受け入れていく時が来るのを楽しみにしているのです。

“子育て”の窮屈さ(ママのジレンマ)の在り処

最近の話。週刊誌?(新聞?)だったか「……ママたちのジレンマ」という見出しの記事が目に留まりました。本題の主旨は「日本には、社会で育児する という意識がない」…と断じた衝撃的な表示。解決されぬ社会問題と心得て読んだこの記事は、 旧くて新しい昔からの“あるある話”。そして私自身、記事と同じ場面に幾度となく出くわしていますが、不遜ながらママさんの在りようによっては、目にしなきゃよかったと思う場面もあり、ちょっと、おざなりな見つめ方をしてきた後ろめたさを感じたものです。

世の中、経済活動を活発にする景気浮揚策として観光事業が盛んになり、国内外旅行の手続きの簡素化・便数増・セット割企画等々、便利さ盛り盛りの観光施策が多くなりました。「自分の楽しみ世界」観が広くなり、経済感覚というか育児感覚も怖いもの知らずというくらいの「これくらいの事、普通」になっているように思えます。首の座らぬ生まれたばかりの(?)乳児を連れ、国外・国内旅行するはもう不思議でも不謹慎でもない。とにかく乳幼児の身辺用具(離乳食~オムツ~衣類など)は圧縮・ディスポ化して身軽に持ち運びでき簡便になって、旅行の簡便さ利便性は目をみはるばかり。小さい子ども連れ家族旅行は当たり前になっています。

ところが一方で、子育て中のママさん達の日常生活の現実はどうでしょう?まだまだ多くの理不尽で未解決な難題があるという事を理解してますか?という事です。

さて、“子育て中のママのジレンマ”の話に戻せば、大通りや路地の道を行き交う人々の多くは、子どもや大人に限らず、大声で語らいながら歩いたり流れを止めるようにのらりくらりしながら話し込んだり…そして、ゾロゾロとうるさく、時にけたたましい笑い声や甲高い声に、実にうんざりする光景に出くわします。人の往来がスムーズに流れていれば、毎日の事であろうと多少の停滞感を受けいれ(多くは普通に受け容れて)流れに乗じて歩きもするのですが、電車・バスの中(所謂、箱物の中)では、大きな声や笑い声、若者の甲高い声が行き交うと、とどまり知らぬ騒がしさや混雑さ感が増幅し、そこに、大きな荷物や乳母車が加われば、この混雑に何故?との無言の迷惑目線、わざとらしき声で「何でなんだよ」の呟きが痛く突き刺さるものです。常にそのような状況の中を潜り抜けて嫌な思いを経験しているママさん達には、気持ちが打ち萎れてしまうという嫌みな経験になるでしょう。が、これが長くいつまでも解決していないか、解決の目途が経たないままというわけです。そして本題の「ママたちのジレンマ」となっている解決できない難題が、そのままにして長引けば、「日本には、社会で育児するという意識がない」という問題提起になってくるのです。

私自身、残念ながら “わりと日常的にある話”が多くあったので、びっくりしましたが、長く改善されない現代の社会問題(少子化・子育て環境)だという事です。世の中、晩婚化、結婚回避、そして夫婦共働きの増加があれば、少子化するのは、日本だけの現象ではなく世界的に共通している部分も多くあるとは思います。夫々の国が取り組む“社会で育児”の在り方にはいろいろ方策が見えてくるものがあり、そこから知恵を学び、取り組んでいかなければならないのだと思います。そして日本は、核家族の時代から多世帯同居(住宅)へと積極的に取り組んでいくべき問題ではないかと思います。現状は、狭き住居が多く、大きな家や集合住宅は空き家となって朽ちていく状況も多くあるようで、保育園不足や学童保育の環境・設備と人材不足、これらの現状を考えれば、こうした問題が重なり合っているにもかかわらず、解決の動きが見えて来ないという事なのでしょうか?

ジレンマのあるある話の中で、重要な問題だと思う一つに、「混雑した場所でベビーカーを押す、混雑した路線バスや電車に乗車するなど、母親一人で、乳児1人ベビーカー+幼児1人連れ、あるい2人乳児用の乳母車を操作するとなれば、誰しもこれは大きな“ジレンマ”になるのは自明の事で、ママさんの悲壮感・孤立感を思いますし、これってホントに、心が押し潰されそうになります。

勇気を持って、「スミマセンがベビーカー移動を手伝ってください。」「ベビーカーを置くスペースをお願いできませんか?」と声を出しての救助を頂く意思表示をするのは、簡単にできるものではない。社会の理解が、そのように受け容れる雰囲気になってないと、なかなか言い出せるものではありません。現代の社会は、まだまだ寛容な受け入れに至っていないと思われます。ママさんが、児をベビーカーに乗せてマーケットなり保育園などの目的地に行く道程には、人ごみの中を通ったり、電車やバス時間に間に合うようにと急げば、慌ただしく小走り気味に乳母車を押して行くのを見ることがあります。人々に、「すみませ~ん。ありがとうございま~す。申し訳ございませ~ン」頭を下げ声掛けしながら急いで行く…。こういう時のママさんの心情は如何に?悲愴だろうなと…。

多くの子育て中のお母さんたちは、解決され得ぬ「育児の日常生活上の社会的ジレンマ」に、覚悟の日々を過ごされているという事を受け止めなければと思います。

私なりに想い出せば、外出の先々で、何かの所用で、乳幼児2人(または1人)を連れて、電車かバスに乗ってこられた親子・児に出会えば、乳児、幼児の目線を負いながら手を振ったり笑いかけたりをしてみます。当初は無反応、乃至はそっぽを向くのですが、たいていは興味を持つのでしょう。しばらくしてこちらの方に目を向け、目が合えば素早く顔をそむけ…を繰り返し始める(可愛いッたら、ありゃしない)再び応じてアイ・コンタクトすれば、照れくさそうにニタッとして…。やがて三度目の正直、たいていは馴染んできてくれる。知らん顔のお母さんも居るにはいるが、多くはにこやかに頭を下げて下さる。しばしの赤ちゃんとのジェスチャーコンタクト?をすれば、寸時の「私と赤ちゃん・幼児」対話を感じるのです。ママさんのお顔は、大概、嬉しそうで優しそうで穏やかな表情を返して下さると、私はしばしの時間を楽しむことができます。私の子育て社会参加は、まだまだこの程度。ママさんのジレンマの解決に至らないが、「あるある&よくある」ジレンマに、関心を寄せれば、少しずつほぐれてゆく手がかりが得られるのではないかしら?しかも誰もができうる接点を持てて、寸時の繋がりの善き時間ができると思うのです。

社会的問題解決の政治的施策が具体的に打ち出されることを祈り、知恵あれば発信して「ママさん応援隊」に絡んでいくことが大切だと思った次第です。

 

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8月半ば とんでも(ない)場所で コオロギと出会った

夏場になって、家の中に飛んでくる虫は、結構いるものだな…と、4階以上の高層マンションに住み続けて15~16年を経年した最近、意識し始めた。日常的には、ベランダや家内に植物を植えれば、小さな羽虫や時折にゴキブリ、訳解らぬ昆虫の迷い込み、時にハエまでもが飛んでいることがある。嫌だな!と思いつつ、面倒くさくは受け止めず流されてきたようです。

ところで、私は現在、5月半ばに新しいシニア群マンションに引っ越して、2~3か月を過ぎようとしていますが、次第に入居者が増えつつあり、知り合う人々も多くなってきました。一日に一度は利用するレストランや週一休みの温泉浴場や館内イベント、玄関先の散歩道など、生活の身近に交流の場が豊かにあるので、かなり嬉しい。頭の回転は、皆さんとの会話の交流に助けられているのかと思います。そんなふうに生活環境への馴染が出きてくれば、館内のあちこちを歩き回り、時間の流れに淀みなく従いながら、生活リズムが出来上がってくるわけです。

ある真夏の日曜日の夕方、ザ~ッと夕立が降りました。マンションの周囲は、木立の小道になっていて、無造作に茂る背の低い花木や雑草が、突然の夕立の滴を浴びてあたり一面は涼しくなって、温泉の浴場に一風呂浴びに行った時のことです。

浴室には、顔見知りにもなっている3人の老女の中の老若女達が、個々の洗い場で洗剤の泡にまみれて洗い流していたのです。私が入っていって洗い場に腰を下ろしてシャワーをかけ始めたその時、足元から何やらシャシャッと出てきたのです!!

「ウワッ!ゴキブリ!キャッ!」 と声を上げるや飛びのいた私ですが、「いや待てよ!ゴキブリではない!ピョンピョン飛んだから!」 と声出すや、既に先人の3老女は、私の声に反応して、排斥のシャワー武器で3方から放水してきたのです。

「イヤイヤちょっと待って!ゴキブリじゃない!ピョンピョン飛んだからコオロギだから!水は掛けないで!!」 VS 「イヤイヤ『そんなこと言ってられないゴキブリは嫌なの!』」  と容赦なくシャワー攻め! 「とにかくコオロギだから…!ここは私に任せて!何とかするし、コオロギをにがしてやりたいの」 そんな女の鬩ぎあう大声を交し合いながら、溝に落ちかけたコオロギを見つけ、私は風呂桶でコオロギの身の安全を確保したところでようやく、女性達も我に返り、「ホントにコオロギなの?ゴキブリだけは嫌いだから!だったら逃がしてやらないとね。」 落ち着いた会話になったところで、「あなたに任せるわ。お風呂場出口の扉を開けたら、直ぐ草むらになっているからそこに放してやるといいわ。準備できたらお手伝いするわ」 と優しい眼差しの言葉。4人の老女は、フッと我に返ったとたん! アハハ~ッ!!何てことよ~ッ!可笑しいったらありゃしない。ゴキブリでなきゃいいってね~!何てことよ~!怖いこと言うね~!でもゴキはきらいなのよ~!

“夕立”と”温泉”と”コオロギ”と”4人の美女”の話は、他愛もなく大笑いして終わりとなりました。

ゴキブリの羽の茶色は、あの艶やかさをもってむしろ美しい茶色の羽。家の中に居て逃げ足が素早く宙を飛ぶ虫故か、人様には決して好かれることない忌み嫌われ虫。

一方、コオロギは、家の中に居て色艶は決して良い羽色とは言えないが、3種類の鳴き声をもって、多くの人様たちを癒しに導きまた、ピョンピョンと飛び跳ねて親しまれ好かれている。この差異を悲しむべきか…?どうしたものか?と思うけれど、昔から受け継がれて今日に至っているようだ。

感性の差異か?!簡単には片付けるのも可哀相な気がしている。

しかしながら、コオロギへの愛着は、夏の終わりから秋の夜長に耳を傾けたくもなり…というわけです。鳴き声はオスのみであり、メスを呼び寄せる求愛の時と、縄張りの主張の時に鳴く。この鳴き声が、美しい高い波動を出すのだと言われれば、なるほど~と納得もしてしまうのです。

 

コオロギについてはスピリチュアルな意味の暗示があるそうな!

コオロギの鳴き声は、とても美しく特徴的で、高い波動をだしているのです。この高い波動は、高い意識レベルのネットワークを作っていて、その為、コオロギの鳴き声を聞いていると、頭がすっきりしたり、冴えたり、ストレスとなる考えを静める傾向があるのだそうです。面白いことに、コオロギが鳴くときは、自分の中のエネルギーを、どのレベルまで波動を上げて実現化する事ができるか、ベストを尽くしてチャレンジしているそう。

中国では、コオロギは 「成功と成功をクリエイトするマインド」 という暗示があるといわれており、アメリカの先住民の間では、「コオロギは成功をもたらす信念」 といえる象徴だと。

以上、コオロギのスピリチュアルに関しての文章は、真理の扉を開く時 第142章 概念について 5mmくらいのコオロギを見つけた:コオロギからのスピリチュアルメッセージ「心と繋がる1つの思考」文から、要約させていただきました。

 

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15年目のお引越しで もうこれが最後の私の棲家!!

社会に出て一人前の収入を得るようになってからこのかた、私のお引越しは、5~6回もの経歴を持つ。自慢にもならないことで、改めて振り返って眺めていたら、「私って、落ち着きのない人に見えてしまいそうだな」とマイナス思考がよぎる。深刻に回想するわけではないし、私のお引越しには、私なりの必然性からそうなったという一応の理由があることではある。

今は亡き母との同居を求め、新築マンションの高層7階に。土いじりが好きで、友達付き合いの良い母の希望する住居ではないのは明らかで、不同意ながら私に応じてくれていました。

やがて子供が生まれては、今度はパートナーが、男の子の養育上、高層でベランダの真下は土や樹のないコンクリート道ってのは、良くないじゃないかと。ごもっともな思考の雰囲気を察知して、奈良の山を開拓して作られた戸建のニュータウンへ。勿論、私単独で決めたという事ではなく、母たちと共に現地を見学して、緑の樹木の恵み、奈良地の景観の良さ、日当たり、地盤層(?)等々の環境条件を確認して購入を決め、移り住んで23年を過ごし、息子にとっては、奈良が自分の故郷と自認しするほどに良き住まいでした。

母が他界し、息子は県外での大学生活→海外留学、パートナーも高齢を過ごすという状況になり、家の広さは重くなり、健康上の問題に対処するには不自由さが負担になると確認するようになって来れば、交通の便がよく医療環境の良い都会へと。大阪のそうした条件に敵う町、従姉たち家族も近場に住む町に移住して15年。

そろそろ家族の形も変化して、子どもの独立、パートナーの死去に伴い、私は、独居暮らし。結構自由に楽しく自立性高い生活をしていると思われたのですが、2019年末に発生したコロナ感染症の猛威禍が続くこと2年余、今尚収まりきらぬこの状況は、大きく社会環境に影響したことは確かで、生活の在り方にも変化が生じ、大きな学びもできたのではないかと思うこの頃です。

そして私自身、昨年後半より体調不良の重さが、こんなにも生活の考え方・形に変化を及ぼすことになるとは…?!

道路に面して向こう側5分ほどの所に居住している、従姉たち家族とは、平素より仲良く行き来しているのですが、年末~お正月半ばにかけて、立ち上がり様もない大きな体調不調に見舞われた時、夜中の不都合時の対応、昼間の不都合時の対応がままならず、動くことそのものに弊害を来した状況で、電話する、電話の不都合に繰り返し対応し直す、何処に電話しないといけないかの判断もままならぬ動きようのないまた再度やり直してみる意志・意欲が減速していく状態に陥ったことがありました。世にいう孤独死と表現される状況って、こういう事から始まるんだと、呑み込まれていくような思いで凌いだ状況がありました。特に、夜通し「怖いなあ、これではいけない」との思いが交錯しながら朝を迎え、とにかく水をゆっくり飲みほしながら「朝になれば、お医者さんに何がなんでも行かなければ…その力だけは持って受診しよう」と。

平素の私は、体調不良時の不安は、従姉に早めの連絡を取って、受診に付き添っていただいたり、食事の面倒を受けたり、と結構な連携の恩恵に与かっていたのに、それが頼めない。真夜中の救急性を、簡単には、従姉や東京の息子に連絡できなかったのだ。怖さに逡巡を巡らせど、親族に連絡する覚悟というか思い悩む、迷い悩みの吐露ができなかった。

これが私なんだ!と思い知ることになり情けなく思った。がしかし、元気の回復時にあったのか、情けない思いに捕らわれることなく、私の頭は、今の生活環境の脱却とでもいうか、対策を考えて、成しうる方法を見つけ出そうという気になってくれたのが有難い。

数日後、新聞のチラシに、セキュリティー完備、医療・介護との連携した環境、、自立したライフスタイルができるシニアマンション の販売広告が載っていたのです。完全にそれに飛びつき、早速見学申し入れての現地見学を敢行。自己の出資金の可能性だけは、きちんと捉えておいて、私の信頼するしっかり女性に同行をお願いして、マンションの詳細の説明と見学させていただきながら、現実的な質問なども興奮することなく、落ち着いてお聴きすることができ、ほとんど即断的に、購入の意志を伝えたものです。資金繰りには、心配がなかったとは言えないが、きっと何とかなるという強気が働き過ぎていたかもしれない。

マンションの佇まいは、周辺の医療・介護ゾーンの街づくりとしては、緑地帯を比較的豊かに確保されていて、緑の街路樹で囲まれている。広々とした3つか4つのシニア・家族マンション群があり、それらが共有する医療施設や介護施設・セキュリティー管理会社の隣接など近場に構えている。肝心なことは、末永く人の命が自立的に、活かされ守られ生活が整えられる という事であってほしいと願いながら、話をお聞きする限り、それは保証されていくであろう市政の力が信頼できそうだと思われ、同行下さった友人も、信頼できるのではないかとの弁。

息子に相談掛けると、お母さんがそれが一番と思う方法であったのなら、良いのでは?と資料と現地写真や、候補にしている部屋の写真を送って吟味していただいた息子の弁でした。そっけない返事のようですが、資料などきちんと見て私の資金力との関連性も見届けてくれていて、決して「僕が少しは援助しようか?」とは言わなかったけれど、有難い賛意を示してくれたのが、嬉しかった。

そうした経過の中で、引っ越し準備が始まり、1か月の期間もない中での荷物整理は大変でしたが、無事引越し完了した現在、既に1か月半を過ぎてしまいました。生活は快適で、朝夕の散歩は生活べースで身近にできるのがうれしい。まだまだ、引っ越し人がこれから賑わうのではないかと思いますが、マンション管内で色々な方々とお会いしながら、会話を交わせるのが良いです。高齢者にはこれが一番!そして何らかの変化のある生活が、必ず待ってくれている期待感が、あちこちに散らばって、街のコミュニケーションさながらなのも良い。管理人さん達の身近な、しかし、やり過ぎない親切・声掛けが、コミュニティーとしての良き働きになってくれていると思う快適なこの頃です。

私事を述べてきましたが、今後の高齢社会を生きるを考える一つの在り方として、皆様の思考の一環になればと思い、記述させていただきました。

 

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なるほど!な話:春に「黄色い花」が多いのはなぜ!

このテーマを演出してくれたのは、3月6日(日)のウェザーニュース(LINE)。
日曜日の朝のモーニングタイムには、もってこいのホットな記事で、小さなスマホながらふだんに映し出される黄色の花が、丁度久しぶりに日差しの通る朝日で生きかえり、揺れているようにも見えて、しばし、コーヒーの一腹が美味しく浸みこんでくる。その爽やかで春爛漫感な話題を、ぜひお届けしようと意気込んで、このブログを書き始めましたが、LINE配信記事の二番煎じみたいな展開は、結構野暮やないか?と気にしてはいます…。

実は私、今まで、春の花は色とりどりの爛漫さの味わいを堪能していながら、「意外と黄色い花が多いねえ」 なんて感想を持ったことがない。言われてみて気持ち新たに、花屋さんの幾つかの店を通り歩けば、は~ぁ!?黄色の花が可愛い!な~るほど…そう言われてみれば~イヤ~確かに!!そうなんだぁ~!!
「ボケ~ッと見てるんじゃないよ~」「寝ぼけまなこで見てるんじゃないよ~」「シャキッと見るもんだな」!!なんて声が飛んでくる…ような…。

日本花の会研究員の小山徹さんが、説明して下さっているので、文面を要約してご紹介いたしますと、「花の色は何のためにある?」 という説明を通して、「早春から春にかけて黄色の花が多いのは、まだ色彩に乏しい山野で、黄色が目立つ色だからという事です。早春からいち早く活動を始める昆虫には、アブやハエの仲間が多く、これらは黄色い色に敏感だと言われている」 と。受粉の方法には、虫媒花、風媒花、鳥媒花、水媒花に分けられ、虫媒花は昆虫による受粉方法で、黄色に敏感な多くの昆虫仲間が活動するという事です。

そもそも花の色は何のためにあるのか?花の色は、昆虫を惹きつけるための生き残り戦略の一つであって、人間の鑑賞のためにあるのではないということになりますね。(トホホ…)
昆虫が花粉を運んでくれるかどうかが、花達の子孫を残せる鍵になるというのですから、昆虫たちの活躍により、黄色の花が恩恵を受けるとなれば、ある意味、先々の子孫繁栄が、保証されているようですね。花の繁栄の役割を担う昆虫たちは昆虫たちで、その習性に従って、いち早く黄色に敏感に反応し、生き残るためのさらなる、香りの良さ,蜜の多さを求めて必死の戦いを繰り広げているとなれば、昆虫はその役割を担っていると意識していなくとも、あのきれいに咲く黄色い花達の生命線に重要な関わりをしているのであって、昆虫のアブやハエの仲間達の、合理的で緻密で必死な自由を謳歌して跳び回るのを忌み嫌うことではない。きれいに開花させた花達とのコラボ活動は自然の摂理だと思って感心感銘するばかり。(しかしまあ、アブやハエが、わが身の周りを跳び回るのは、ちょっとご勘弁願いたいけれど…)。そして、時満ちれば花は花にして春めく独自の黄色い勝負服で凛として咲き示す。なんとも合理的で神秘な花の命の道程ではありませんか?

人間の目には、芽吹き時の勝負色(黄色)を見ても関心は湧きにくい。ましてや美味しい蜜の含みなど感じとる繊細さもないのではないかしら?幼くして芽吹き始める黄色い花!昆虫たちを呼び込み、昆虫たちの介添えで子孫を残していくというのですから、なんとも艶やかな営みで、自然の大きさを感じてしまいました。

早春の清々しさには、小さくして壮大な自然の営みが、数知れずあり、知れば知るほどに、まるで絵物語の楽しみがあるのですね。
遅まきながら、花を愛でる春の季節を感じ始めたこの頃です。

落ち着いたティータイムに、お庭や室内の花に改めて目をやり優しいまなざしで感動の言葉をかけてあげれば、花達は喜ぶにちがいない。また散歩時に出会う花達にも生命活動の関心を示し、賛美を送ってあげると、来年には、さらに良き色の花、甘い蜜、花の香りを発散してくれるのではないでしょうか。

 

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コロナ感染の収束の行方にご用心!

皆様、第5波新型コロナ感染は、ほぼ収束に向かっていますが、いかがお過ごしですか?

今後の感染拡大への行方は、まだ確かな解明はできていないのですよね。やはり状況が確認できずにいる以上、各感染の専門家や臨床対応されている医師先生方のコメントや指導上の発信をしっかり見届け、気を引き締めて油断しないでおく必要はあると思います。

今後どうなっていくのか??できれば、明確に核心的に解りたいと心は逸る思いです。 TVコメンテーターの専門家は、「急激に収束した理由は、まだ解明されていない。」とおっしゃって、基本的な感染対策を続けるように…と注意を促されています。おもむろに予想しにくい今後への対策をご指南くださっていますよね。

確かに、毎日、私達に理解できる新型コロナ新規感染者数は、グンと減少しており、スンナリした静まり方であり、何ともミステリアスです。どうなっちゃってんの?状態です。内心うれしいし解放される気分に違いないが、用心深き心情もまた湧き上がってきますよね。ここは、神妙に基本的な感染対策を維持しておくことが大切だと思います。

私達の生活の形態が変わって2年のこれまでを、よくも頑張ってきたものだな?と褒めてあげたくなりますよね。であるならば、今しばらくは気を緩めることなく、日々、感染予防の基本対策(適正なソーシャルディスタンス、マスク着用、手洗い)は続けていきましょう!って言うしかないかなぁ?!

第6波が来ないようにとの願いをこめ、同時に来るインフルエンザの流行・感染に備えての対応としていきましょう。と言おうとしましたが、先日の専門家の予想情報によれば、「今年は流行しないのではないか。但し、コロナとインフルエンザの同時感染で、肺炎が重症化する危険があること、また来年のインフルエンザ流行に備えて、インフルエンザ・ワクチンの接種は、しておいた方が良いと、発信されていましたね。これは、私達、個々人が気を付けて行動する事ではありますから、此処は皆さん!!感染予防対策をして、乗りきっていきましょう。

 

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気が付けば夏!

ちょっとおかしい間抜けな麻痺した感覚かなと思ってはみるが、ここしばらくは、オリンピック開催する?開催しない?オリンピック無観客でする?観客動員する? 論争で、メディアでの話は騒々しい。

お互いある程度の思いやりを持って、相手の意見を聞き、誰が正しいとか正しくないとかではなく、皆が正しい答えであるかどうかは解らない などと言ってはいるけれど、どうも二分した感情は交わり合いにくい。そんな騒々しさに巻き込まれながら、季節を振り返ることなく、何時の間にやら夏が来た(来ていた)。

夏の風物と呑気な事を言っておれない、激しい雷雨、豪雨の予報を受けて、警戒はしていたけれど、まさかの熱海の土石流災害は、人災と言うべき大騒動。

大阪の土砂崩れによる家屋倒壊も、あるべく事の現象なのか?思いもよらない何らかの環境被害?なんだか、日本全体、ピシッと佇まいを整えきれない油断・慢心・忘れ去っている危機への記憶。

あらためて、犠牲になられたすべての人々が、静かに私達への警告・警報を鳴らして下さっていることを覚え、ご冥福をお祈りしたいと思います。

 

オリンピックは、開催することに向ってかじを取り後戻りはできない。

オリンピックに参加するアスリートの方々の胸の内は、ひたすらに、オリンピックに向けられて気持ちを整えておられる。

私達は、そのアスリートに向って、「闘ってください。私達はしっかり応援しています」とエールを送りたいですね。

 

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6月の花盛りは癒され候・・・と思いませんか?

6月ともなれば、初夏の涼感を愛でる花が勢揃う。

良き季節と天仰ぐ感謝ありながら、じめつく蒸し暑さに閉口し、梅雨の到来のうっとうしさに気分を削がれてしまっている。覇気の湧き上がりもままならず…文句タラタラ呟きたくなるという気分が伴ってくるし、めんどくさい感傷へと誘われてくるから始末に終えなくなって身体全体が怠くなる。

いきなりダル重い話口から始まってしまいましたが、6月の花は、癒される色彩、豊かな色合いとりどりを楽しめる ということを本当は言いたいのです。

色彩の豊かさを感じ入る6月の花の個性は、大人な佇まいを感じさせて、優雅で秘めやかな色彩の花々と受け止めているのです。

 

ところで、私は6月生まれの双子座。
星座占いによると、

チャレンジする事に魅力を感じます。
「不可能」が「可能」になった時に、大きな快感を覚えるでしょう。
性格的にに「女性面」と「男性面」を併せ持つ生まれです。
周りから不思議がられる事も少なくありません。
この生まれにとって、一番大切なのは「信念」です。
信念さえあれば。「正義の味方」にも「悪の大王」にもなれる生まれです。
密かな野心があり、目的を達成することで喜びが得られます。

情報や言葉に敏感な生まれです。
極端な選択をする事があるでしょう。
未知の分野を開拓する運命があります。
鋭い観察力があり、隠された真実を逃がさず発見します。

星座占いに毒されて、自身の人生を歩んでいるわけではなく、また自身の毎日の生活感をこうした占いに従ったり、修正したりする執着性はないけれど、たまには今日の運勢はどう楽しもうかなと、おどけて参考にしてみるのもちょいと面白いものです。

必ずしも一日中その占いに従うことなくいつしか忘れとんで、自分で運の運びを選択していて心曇ることもなし。まあ、楽しめば良し。味わうレベルにはいかないものだなと。

6月~7月の湿気と暑さを如何に乗り切ろうかと。

なにか他愛もなく、フフン?と笑みを浮かべながら、お気楽に夏場を切り抜けて、コロナ禍の鬱とうしさに支配されぬよう、健康への食のパワーを借りて切り抜けていきましょう。

 

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十五夜お月様の蔭絵は、何してござる?

残暑長引く高温多湿の不愉快さには、過敏に反応してしまうものですね。特に高齢の方々には堪えるのではないでしょうか??

なんて呟いていたら、何とあっという間に季節の変わり目に突入し、ここ二日ほどは秋めく涼しさにほっとしています。どうかこのまま、秋の季節赴くままに、過ぎゆけば新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のこれまでの災禍の恐怖・疲労感が吹き飛ぶではないか?と。

 

確かに暦の上では、既に秋と承知していて、とすればなんとなく、お空のお月様に目をやってみるわいな(笑)!

この老眼で見る月の表面の陰影模様は、やはり「ウサギの餅つき…か?」

改めて、その種の本(世界の月の凸凹の陰影模様の眺め方の文化性というのかな)に目を通してみれば、世界の国々のイマジネーションの多様性があって面白い。

日本の満月における「餅をつくウサギの正体」は?

世界での満月に見る月の表面の陰影は、結構多様に紹介されています。既にご存じかと思いますが、ちょっと紹介しておきましょう。

ヨーロッパでは「かに」や「本を読む女性」、南アメリカでは「ロバ」、北アメリカインディアン・インドでは「ワニ」、アラビアでは「吠えるライオン」、東ヨーロッパ・北アメリカでは「髪の長い女性」、中国では「ヒキガエルの頭と前足」、オランダでは「幽閉された悪行の男」、ベトナムでは「大きな木とその下で休む男の姿」とまあ、こんな具合に紹介されていて、影絵も添えてくれていました。なるほどそう見れば見れなくもない想像の世界。勿論、どのような方向方角から見るかによって、異なるであろうと思うが、月を見上げて、月の陰影を見届けて、それを想像の世界で造り上げていくという、多様な目、多様な表現・言葉、に、人の持つ表現の同質性や柔らかさに感心した次第。

秋の夜長の満月のひと時、色々な不都合感や疲労感を癒し得るであろう有効性を楽しみ、季節の味わいを期待してご覧になるのはどうだろうか?

 


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