オリンピックな喧騒の後に

ロンドンオリンピックの開会式・閉会式を見る限り、
その国がオリンピック開催国として引き受けた誇り・主張・意義が盛り込まれ、
まさに英国は楽しげな喧騒でいっぱいなのだということを知りました。

驚いたことに、英国の誇りとして開会式会場で紹介されたのが、
医療現場=とりわけ小児病院の再現場面。
ホスピタリティー発祥のお国柄からして当然のことかも知れないけれど、
心からのおもてなし、人を人として大切にする
優れたコミュニケーションの場を医療の世界に表現していて、
差すが文化的遺産を挿し込んでファンタジックに展開していました。

歴史を繋ぎ、創造の伝統的な遺産は、世界的な視野を持つ長い歴史の産物であり、
誇らしげに多様性や活力を存分に押し出したオープニングの華やかさに圧倒され、
3時間もの開会式は少々疲れもしましたし、この時期(世界的には不景気)に
贅沢(無駄)な消費ではあるまいか?なんて思いもしたりして…。

そんな思いが過ぎったのは、日本大震災、原発事故を機に電力不足の影響を
最小限に止めようとする国民的な努力があったからです。
緑陰で節電に努めようと、キウイやゴーヤ、その他ツル性植物で直射日光を遮り、
冷房を入れずに涼風を誘う対策が各家庭に取り入れられるようになった今年の猛暑対策。
人にやさしい風景は、ビートの効いた音楽、花火の頻繁に打ちあがる会場は
かなりな贅沢感と暴風雨感があって、テンペストなのでした。

でも、さすがオリンピック。
日本の選手はよく頑張りました。
爽やかにスポーツマンシップに則って4年間の集大成を一瞬一瞬に懸ける
あの姿・躍動感は私たちに感動を与えてくださいました。
まずは、選手の皆さんに、「ありがとう・お疲れ様でした」ですよね。


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猛暑お見舞い申し上げます。

皆様~っ!いかがお過ごしですか?

ノンちゃんは夏にはめっぽう弱く、
あえぐ様な息遣いでこの夏場を耐え忍んでおります。

そんな折、何か琴線に触れる記憶の蘇りがあり、
ノンちゃんの目は、認知症の人を抱える家族に向かいました。

私自身は家族の中に認知症の人との出会いはないのですが、
認知症の人を抱えた隣人、友人を身近に見つめてきたことがあります。
家族の負担は重く、想像できないほど深刻な精神的・肉体的負担が
ひしひしと伝わるのですが、中学時代、
受け止める術を構築することなく見過ごしてきたように思います。

現在、少子高齢化・核家族化した中で
家族が抱える負担はより深刻化しており、
認知症の人と介護する家族との間での殺人事件に発展した
いたましい事件が多く報道されます。

小単位の家族が、持ちきれぬ(耐え切れぬ)負担を背負い、
社会倫理(社会規範)に基づくべくコントロール感を
支える力も萎え尽きるかのごとく残酷な日々を送る。

私の友人(男性)は父親をなくした後、勤め先を辞して10数年もの間、
言葉・日常生活動作の失われゆく母親と向かい合って生きる人生を選択し、
食事・着替え・入浴・排泄・体位交換などの世話に明け暮れる時間を過ごしてきました。
意思の疎通ままならぬ母親に対して限りなく声をかけ続け、
日々に示す母親の小さな動きを繊細に捉え、それに反応しながら、
ひとりの人間(母親の尊厳性)を大切に見据えつつ、
母親と家族であり続けるために「今この時」に眼差しを注ぎ、
繋がりを絶やすことのない生活をしてきました。

母と過ごした幼少時・青春時代の生活スタイルをそのままに、
クラシック音楽を流し、母の好きな歌を自分の声で歌って聞かせ、
合間には好きな書物に注力しながら、母の生活の基本動作を介護者として、
不器用なまでも許される形を駆使して築き上げた生活スタイルは、
よく聴けば、社会的資源を命いっぱいに活用しながら
小家族にかかる負担を切り抜けてきたわけです。

ですから、そこには色々と関係を繋ぎあう人々との間に、
納得できない主義主張のぶつかり合いも正直にあったようで、
人間関係の生みの苦しみもしっかり盛り込まれているのです。
お母様は90歳半ばまでを生きて亡くなられましたが、今、
友人は健康上不自由になってきた自分自身の人生をゆっくり楽しんでいます。

ノンちゃんは、"Make Happy"をどう生かせるかを考えさせられている此の頃です。

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希望の芽

いきなりな話ですが、政治の世界は、どんな不況にも左右されず
高額なお給料をいただいて活動出来るんですね。
(大層に僻み心がニョキニョキ芽を出してしまいます)

要人の揚げ足を取り野次を飛ばして議論をストップさせて、
リーダーを幾重にも引きずり落とす技は、
生得的なものなのか?生理的な体質か?

無駄に時間を浪費しても理屈を述べれば、
人相はどうであれ議員スタイルはとれますしね。
実績を示さなくても、何ら責任は問われることなく、
給料を引かれることもなく、なのですから大した職業です。

国であれ地方であれ議員さんになれば、「先生」と呼ばれて日々を重ねると、
人相が悪くなってくる先生方も居られて、選挙で選ばれたという
それだけを拠りどころにして民主主義を豪語される場合が
多いように思われますが、議員の品格みたいなバイブル書でもあれば
そこに手を置いて厳かに宣誓もでき、身の引き締る思い新たになるでしょうに。

それにしても、日本は名もない普通の人々が、
不況を嘆かず悲しまず落ち込むことなく、
あのような東日本大震災にあっても、
めげずに希望の芽を育み再生を図ろうとする英知と活力を力にして、
楽しく地道に労働するという生命力に、
大した国民なのだと恐れ入る喜びを感じる此の頃でもあるのです。

6月の梅雨だまりには、こんなことをつぶやいて、
わが身にバシャッと滴を浴びれば、少々気分転換になるかしら?
(否否!真面目に考えながら生きよう!医療・福祉現場は、
生き様の命を繋ぐ働きのあるところなのだ!!)

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晩春の趣

5月も後半に入り、やっとのことブログ更新となりました。

5月といえば、その初旬より初夏の風物「目に青葉・初がつお」がぴったりの季節です。
旧暦では今年は5月20日で閏3月、晩春ということになる(5/11、毎日新聞:木語欄)というけれど、
まさにこの5月、寒さ続きで晩春を味わっています。

木語の中で、晩春の趣については、日本と中国の捉え方が違うといいます。

日本流晩春は、静かなFade out(フェードアウト=映像や音響が次第に消えうせていくこと)。
即ち、「春が行く」と考えるらしい。

中国流晩春では、「春が帰る」と表現され、
草木は色鮮やかな花を咲かせて「まだ帰らないでね」と、
にぎやかな春のフィナーレに春の気を引くらしい
(私なりに要約して、前出の筆者はそう教えてくださっている)。

世界中は、問題山積のフィナーレ(オンパレード)。
そして日本では、まだまだ原発の余波が漂い続け、震災後の復興状況も複雑にしているが、
人の心は困難な状況にめげず、晩春の芳しい味わいの季節を感じながら鋭気を湧き出させて、
それが生きる力にもなっているのではないかと。

晩春の味わい!
悠長なことを言おうとしているのではなく、晩春の感性について文化的な違いを知識してみると、
少し楽しく穏やかな心に触れるような気がして…。
これからは夏日よりに向かいます。皆さん!体調を整えて頑張りましょう。

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「W.S」たかが二文字の頭文字、されど偉大なる頭文字の楽しみ

「W.S」の頭文字Initialから、皆さんは何を想起されますか?
当社は、人材紹介・人材派遣のワークステーション(WorkStation)
まさにInitial「W.S」です。

この頭文字、探してみればこんな風に、
ポジティブで躍動感のある単語が並ぶ。

W:Work(仕事)Word(ことば)World(世界)Wide(広い)Wave(波)Win(勝利)
  Welfare(福祉)
S:Station(駅)Shop(仕事)Science(科学)Sea(海) Sing(歌う)Smile(笑う)
  Straight(まっすぐ)Signal(合図)Strong(強い)

こうして眺めてみれば、わがワークステーションの社名は、
やさしく力強く躍動する良き頭文字Initialで形成され、
看護師の皆さんを支える力にもなっている。

さて、W.Sイニシャルのもう一つに、ワークショップがありますが、
これは看護の現場、もっと大きく言えば、
医療・介護の現場においては大切な仕事領域ではあるなと思うわけです。

看護の分野に限っていうならば、
どの場面においてもチームワーク力の下支えがあってこそ、
個人の看護力が発揮できる仕組み(というかそのような医療の質)なわけです。

このワークショップ(仕事)は、
色々な側面の課題を持っていて一つ一つをチームで共有させながら、
看護の質、看護実践力自体を創造していくものだと思うのです。

何度も何度も問題提起しながら、そこに(現場に)命と向き合う患者さんがいる
という関心を麻痺させないために(医療ってこんなもの、
限界があると諦めてしまう日常性を生み出さないために)、
ワークショップ(チームディスカッション or チームカンファレンス)をする、
ということだと思うのですが、皆さんはどう思われますか?
看護はアートであると言い切るのであれば、
ワークショップは大切な看護力のエネルギーなのだ~!と。

こんなWord遊びをしながら、のんちゃんは、
ちょっとした発見に、つい叫んでしまいました。

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「it」が醸しだす想像力

「it」が導いてくれるImagination(想像力)は、
とてつもなく自由であり、何を想起しても恥じることもない。
まさに「私は私である無限の確かさ」に繋いでくれる、とノンちゃんは気づいた。

小さな子どもは、観念的な概念に縛られない分、
「it」に強烈な好奇心を持って、想像の世界を創り出していて恐れ入るばかり。

あの絵本(及び童話?)の世界は、
限りなく抽象的でありながら(あるからこそ?)個々の子どもたちなりの
具体的な空想の中で可能性を引っ張り出してくる。

恐るべし「it」からのImaginationは、
やっぱり子どものときから刺激されるべきだとつくづく思う。

ノンちゃんの癖は、とにかく何者(物)か解らない「it」に講釈を乗せたがって
世界観を小さくしてしまう(ってことは、いつもとおり変哲のない
奇想天外っぽさもない想像に留まってしまうってこと)。

後日、新聞や書籍文章内に、「it」の可能性にフィットする表現が出てくるが、
「嗚呼、悲しかるかな…、私もそんな世界を表現したかったのに…」と
後の祭りの嘆きやら、癪な思いを洩らすことしばし。
(そんなノンちゃん、あつかましいね)

今日は何故こんな話題をつぶやき始めたのだろうか?

最近、難治分野の医学系研究成果が多く発表されていて、
それは私たち人類にとっての(福音)朗報な贈り物と感じ入るのです。

まさに医学系研究に携わる人々の
「it」への疑問、関心、不可解へのこだわり、不思議への好奇心などの小さな感性が、
こんなにまで可能性を引き出してくることに感心する一方、
近代兵器となるコンピュータの力によって、即座に解明されていくというコラボレーションに
意味深き技を感じたのだと思う。

支離滅裂な文言になってしまいましたが、少々興奮気味なので、この編で終わりにしましょう。

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テレビを見ていると…

近頃、TVをつけっ放しにしていることが多くなってきている。
年の性にはしたくないがなんとなく音や動きがないと寂しいのである。
少々癖になってきているのかも知れないが、
TVのトーク番組やドキュメントに注視する傾向にある。

ビッグで華やかな成功人ではなく、普通に生きて、社会で活躍している人、
一途にその仕事をしてきた人たちの発する表現・・・
ウン解る!とても! その通りだ!あァ悔しい!

その人が自ら導き出した湧きいずる表現!
その顔、その物腰、その言葉のトーンすべてが、
その人に表出されてくる偽りなき表現!

そんな風な感動を頂く。

ただ、黙視で感じ入るのではなく、ノンちゃんの場合、
静的にも動的にも自分が受けた感動を、
思いっきり自己表現してみる楽しみを覚えた。

日常生活の中で、社会活動が極めて少なくなってきた此の頃、
周りとの関係性が弱くなってきており、
自分が何者かが解らなくなりそうな気配を覚えるときがある。
追憶さえも怪しくなってきたと感じる途切れ感に怯えてしまうみたい。

そこで、のんちゃんは、TVに映し出される、普通に生きてきたテラいのない人々と
時間を共有して関係性を持って見るという具合になってきたのかな?

ちょっと言い訳じみているようだが、人との関係性の中で、
人は絶えず進化していると信じているので、
私は「友達を創る」ことに生活(生きること)の意味を感じ、アクション(実行)しているつもりでいる。

最後に、TVから仕入れたことば(その人に適った表現)を私流の学びとしてお教えしましょう。
ちょっとお耳を拝借!

●成功の反対は失敗ではなく、何もやらないこと。失敗は学びを導いてくれる。そのエネルギーの源は、友達をつくること、それを可能にするのは実行あるのみ。

●すべてのことは流れていく。よいことも悪いことも…。

●科学は、皆が気がついていることを言い直しているのだから、難しく威厳ばらずに受け入れればよい。

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