令和の時(時代)の光芒あれと願う行方は何処に?

先月半ば、奈良公園東大寺の敷地内にある療育病院を訪問しました。この日の暑さを受け入れるには、ちょっと苦しむ暑さでしたが、なんと観光客の多いことか…?外国のお客様たちが多く、やはりある一定の観光客の賑わいは、家族連れや友人同士での鹿たちとの戯れ。人なつこく育っている鹿は、老若男女・幼子などを、恐れる様子は無く、鹿煎餅を持っている人たちを取り巻いて煎餅をもらっている。
その度に歓声が上がるこの光景、平和の証のシチュエーションとしては…、ま、こんなものなのでしょう。

公園の主要ロードに沿いながら、東大寺門をくぐって、さらに横道を辿っていけば、直ぐに療育病院に着くが、観光案内表示板は、必ずしも病院施設を表記していないから、解りにくかったかなあ。この並びに、児童発達障害支援療養スクール舎があり、良き環境の中に佇む風情がこのましい。

さて、私が訪ねた療育病院は、歴史的に凄いルーツを持っていて、落ち着いた佇まいだ。玄関を入ると、受付の事務の方が控えておられ、要件をお伝えしてしばらく待つことになったが、受診を終えての診療清算手続きで待っていらっしゃる一組の患児とご両親が、笑顔で穏やかな会話をしている光景に出合い、私も会話することはなかったが、誘われるように笑顔で見つめていたように思う。

1260年有余年前、聖武天皇とその后の光明皇后は、「悲田院」や「施薬院」を建立されましたが、看護師の皆さんならば、看護学生時代に看護歴史で学ばれた記憶が残っているのではないでしょうか?

この故事により、社会のニーズにも応えるために事業団を設立して、昭和30年、現病院の前身を開設し、平成20年には、重症心身障碍児施設をメインとした「福祉療育園」となって運営されている。この病院の経営・運営は、治療・教育・生活 を3つの柱とした療育病院。しかも重症心身障碍児のための病院施設ということです。改めて、貴重な社会的財産と認識を深くしたものです。

この病院にゆかりある創始者は、天皇・皇后なのですから、由緒深く脈々と皇室の方々の支援を受けていらっしゃる。というのが、心強い限りですね。

そして、教育・療育を担っている施設が付設されてあります。インパクトのある社会貢献をされているのも注目しておきたいですね。

施設のホームページには、こうあります。

『目指すのは、「いまのままでもいいんだよ」からのスタート。
それは、あきらめや放任とはちがいます。
「何かができるから、望む姿になったから、愛してあげる」という条件付きの愛でなく、「そのままのあなたを愛しているよ」という無条件の愛をもらえたとき、子どもはゆるぎない安心感に包まれます。
こどもには、「より良い自分になりたい!」という本能的な欲求があります。』

奈良公園東大寺の敷地内という環境は、自然の恩恵をいただいていて、こんなところで働ける・働いたという経験は、その人の人生観に深味をました成長をさせてくれるように思われます。重症心身障碍の子ども達は、私の想像力を超えた色々なドラマ・生活背景を背負っており、穏やかに療養されているように見受けましたが、そこには、医師・看護師・リハビリ師・事務員・その他の職員の方々の、チーム医療・チームケアを築き、分け隔てなき協働関係を発揮して働いておられ、清潔で静かで、特別ではない普通の生活環境を維持されているようにも思えましたね。

空気が優しく、誰もがにこやかな顔を向けてくださって、そこに立つ私も、違和感を感じることなく過ごさせていただきました。 来たれ!看護師さん!ですね。

 

さて、7月に参議院議員選挙があり、賑やかな選挙戦が繰り広げられました。
注目は、俄かに名乗りを上げた政党に集まったものです。

そして、難病と重度障害を持つ男女(各1名ずつの二人)が当選しましたね。

国会は、受け入れ態勢づくりが急務となり、てんやわんやのようです。とにかくものすごいことが起き、私達も身近にそうした難病の重度身障者の方々と共に意見を交わし合うという、特別なことではない普通の環境にしていかなければならないのです。

これから、共に生きあう命の環境みたいな創造のなかに働きあっていくわけですよね。看護師さんの働く場が、広くなり、健康上・生活上の不都合な方たちと如何に身近で共存していくか想像力を持ち、現実の変化を受け止めていきましょうという話なのです。

 

今年の夏は、爆暑!というか、とんでも酷暑ですね。熱中症を侮らず、避暑グッズなど素直に取り入れて、とにかく元気を奪われることのない気配りの中で過していきましょう!!

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看取りの看護と称する期間とは…それは臨終の間際期?

私は、看取りケアは、敢えてそのように取り上げるべき特別なものということではなく、日々のケアの延長線上にあり、日常ケアの充実が基本となると考えている一人です。
入所時からの関わり、あるいは在宅療養の関わりが、“いつもとちがう”“察知しえる変化”を捉えることができ、だからこそ重要となる。在宅療養中あるいは入所時から看取りを意識した関わりを行うことが,一人ひとりの生きざま、高齢者の希望に沿う看取りケアにつながると考えていて、言うならば ~周終末期看護~ といってみても良いだろうか?

在宅であれ、施設であれ、高齢者の方が人の手助けが無いと生きにくくなっていく、自らの生体の反応に対して、苦痛、不安、戸惑い、喜び、など 心模様の変化は計り知れず、大きくあるように思われる。高齢者の方が、人生上の危機を乗り越えるための伴走者となる医療従事者(とりわけ看護師)たちに、じっくりと気持ちを話すことは容易ではないが、日ごろ、看取りの看護を意識して活動しているのであれば、この状況を確と受け止め、看護活動のニーズ領域を広め、推し進めることにつながっていかないだろうか?

高齢者の日常生活に寄り添えば、そこには心身ともに重要なケアの担い手となる必然性が出てくるからであり、必然性に支えられて、高齢者の希望が静かに見えてくるではないか…。

大阪府看護協会の「看取りガイドライン 自然な死へのアプローチ」を一部引用させていただくと、

『……高齢化の進展に伴い、重度の要介護者や認知症高齢者が増える中、在宅・介護領域における看護の役割が重要になってくる。「ほぼ在宅(施設)ときどき入院」の社会を迎えるにあたり、施設での看取りや在宅・訪問看護での看取りニーズも高まり、地域や施設での「暮らしを支える看護」への期待は一層強くなってきている』
そして、『生きとし生ける者には必ず人生の最終段階が訪れ、ご本人・ご家族・関わるケアスタッフが「命は限りある」と理解し、受け入れることによって不安・恐怖・悲しみを、平穏で感謝に満ちた時間に変えることができる』と。

これは、人が、人生の旅における終焉の希望につなげながら過ごせる事ではないか!

しかし、現実の問題として、考えておかないといけないことがあります。
看取りを行ってくれる医師を探すのが、在宅で看取るための第一ステップとなるのですが、そこの切り抜けが何とももどかしいお話です。

私は、最近まで知らなかったことですが、ご一報をお届けしますね。

一般的に医療保険上の届け出の中に、「在宅療養支援診療所」というのがあり、その診療所は、自宅から半径16km以内にあることが条件になっている。なぜ16kmなのか?
医療保険制度上、何かあった際に飛んでいける距離が16kmと想定され、在宅療養支援診療所は、その範囲でないと医療保険上の加算が受けられない。在宅療養支援診療所は往診による在宅医療を積極的に行っている診療所であるが、すべての在宅療養支援診療所が在宅での「看取り」に積極的なわけではなく、医師が3人以上いることが条件になっている。しかし現実として、医師は夜間対応も多く発生し、スケジュールは休みもなく身体的に相当きつい状態になり、引き受けにくい状態でもあるらしい。そのような診療所でも、医師自ら「終末の看取り」は、病院でということを進めざるを得ない状況にあるのだと。

考えさせられますね。

看護師として、「周終末期看護」と捉えて、私説を展開させていただきましたが、高齢者として生きる私は、このようにケアしていただける看護師さんに出会えれば幸いなるかな!です。

 

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色とりどりの話

フリージアの花言葉をご存知ですか?
我がベランダのプランターで、フリージアを育てているのですが(と申せば格好いい弁明でして、実は植えっぱなしの一番楽な見守りをしている次第です)
店頭には、お正月花として、既に早くから咲揃えられていますが、我が家の植えっぱなしの黄色いフリージアは、まだまだ蕾が固いですわ。

さてこのフリージアの花言葉、ネット検索で知り得たのですが、花の色で意味が変わるとか。黄・白・赤・紫の4色があり、我が家の花色は黄色。ま、よく目にする色ではないでしょうか?親しみがあって明るくてフリージアらしいでしょ?
全般の花言葉は、あどけなさ、純潔、親愛の情、と紹介されていますが、それって全く私のことではないかしら?と、ほくそ笑みながら、まもなく咲き始めるであろうベランダの蕾フリージアに親愛の微笑みを送った次第です。この花育ては、一番無難で、私でも育てられるとの従弟の妻さんが、種分けしてくださったもので、確かにもう3年になりますから、私にも育てることができますよって言えるかと。

色別に花言葉を紹介しますと、
黄:無邪気さ
白:あどけなさ
赤:純潔
紫:憧れ
とのこと。
花の名前の由来は、原産地は南アフリカに咲く花で、デンマークの植物学者エクロンが、親友のドイツ人医師フレーゼ(Freese)に献名して名付けられたとの由来が載っておりました。

 

さて、話の景色は変わりますが、ユニセフでは、5年前(2014年)から、乳幼児期の子供の発達の大切さを訴える(Early Childhood Development=ECD)世界キャンペーンが展開されていますね。胎児期から小学校に就学するまでの体験が、その後の健康や精神的な幸福、学習能力、さらには収入にまで影響することが明らかになってきており、脳科学や心理学、経済学などの各分野の研究がなされているということです。

ユニセフが抱える課題から眺めてみているわけですが、極度の貧困や発育阻害のために、生まれ持った能力を十分に活かすことができないリスクに直面している子供たちの状況は、胎児から小学校就学前までの、このとりどりの花を咲かせうる能力が実を結ぶことなく、非効果的影響を受けていることに、哀しい現実の悲愴を感じますね。
世界的に出生人口が減少傾向になりつつありますが、この世に生まれてきた赤ちゃんの命。色々な多くの赤ちゃんの笑顔から、私達の笑顔が引き出されるというこの循環作用は、愛おしさと明るさと強さをもらっているという強力なエネルギーは、今さら言う事ではないですが、未来に花開く多様性の幼き命を、改めて眺めてみれば、色とりどり(子供は多様的に花開く未来性を持っている…と私は思うわけです)の愛であえる刺激は、色とりどりの豊かさに刺激されての楽しみがあり、健康的であることも自明の認識です。

以下に、参考として、2014年ユニセフが主催した「神経科学シンポジウム」報告書より、脳の発達、七つの事実に関して、引用しています。

『はじめが肝心 - 脳の発達、七つの事実

  1. 人の脳には、860億個のニューロンと、それをつなぐ1000兆個のシナプスがあります。
  2. 乳幼児期、シナプスを経由し、ニューロン同士が毎秒700~1000個という驚異的スピードで接続していきます。
  3. 脳の重量の87%は、こうして三歳までに出来上がります。
  4. 三歳の脳は、大人の2倍、活発に動いています。
  5. 乳幼児の子どものエネルギーの大半(50%~75%)は、脳の発達のために使われています。
  6. 人は、「脳の可塑性」(外的な刺激や環境の変化に応じてニューロンの働きを最適化する力)が高かったゆえに、生命の歴史の中で進化を遂げ、現在に至っています。
  7. そしてこの可塑性は、七歳までに半減してしまいます。

だから - はじめが肝心

日本の深刻で社会的な児童虐待問題は、このような紙面で論じ難き問題です。ユニセフが直面している課題(リスクに直面している児童の状況)は、貧困がもたらす状況ですが、日本の場合、養育・教育の貧困とでも捉えて良いでしょうか。

子どもたちが其々の親御さんの持つ感性で豊かに育てられ、また社会に在っては、いろんな子供たちと共存して生きあえる(生まれ持っている子ども達それぞれの能力を十分に発揮できる)環境が、とにかく社会的綻びが見つかったその時から、整えられていけるよう私たちの目線が鋭くあり続けるのが大事ですね。

 

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女性の人生観考~2016年の出生率低下(100万人を下回る)を受けて~

2016年の出生数は昨年暮れ発表あり、ついに100万人を割り込み97万6976人、
出生率1.44(前年比、1.45、約2万3千人減)と。
自然増と自然減の境目となる出生率は、2.07というから、
相当に落ち込んでいるということになるかな?

そして新年を迎えた1月5日、大人になったらなりたい職業ランキング
(第一生命保険調査:全国の幼児や小学生1100人を対象)
が発表されたが、ちょっと興味深い。

男の子は「学者・博士」が15年ぶりに1位となり、
この背景には、近年日本人のノーベル賞受賞が続いたことが
人気を集めたのが影響しているとか。
学者・博士になりたい男の子では「がんを完璧に治したい」
「遊んでくれるロボットをつくりたい」と
理系の科学者に注目が集まっているようだ。

女の子のトップは19年連続で「食べ物屋さん」で、ダントツ1位を走っている由。
女の子には菓子店が人気で「パティシエになっていろんな人を笑顔にしたい」
「病気の人でも喜んで食べてもらえるスイーツを作りたい」
との声が目立ち、男の子の2位は「野球選手」、3位は「サッカー選手」となり、
8年ぶりに野球選手がサッカー選手を上回ったのだとも。

当社業界的にうれしいのは、女の子は2位が「看護師さん」、
3位は「保育園・幼稚園の先生」で、このランク傾向も長年続いているようだ。

☆★〇幼少期の夢は、甘く希望に満ちていて微笑ましくさえあるけれど、
夢と現実が何時ごろどのように現実的な変化に影響してくるのだろうか?

さて、女子の生き方に思考を集中してみれば、女性の人生は、
子どもを産むか、子どもがいない生き方を選ぶか、
あるいは、結婚を選ぶか、仕事を選ぶか、仕事・結婚・子育て全てをベストに熟すか、
常に多岐な人生の岐路をどう乗り越えていくのかの選択・葛藤に向き合わざるを得ない。
(と、わが身を振り返り、また先人・友人知人などの生き方をそのように想う)
働く女性にとって、産休・子育て休暇はありがたいが、キャリアアップを図るには、
いったん休憩ということにもなろう。
となれば、仕事の質が落ちるのではとの不安が頭をよぎり深刻に悩みもする。
落ち着かなくなることもあるだろうね。
職業女性であるときには、やはり、若い後輩たちに道を空けていく
潔さみたいなことも考え、あるいは、管理者となって社に貢献していくことは、
自分の人生への更なるステップアップとしてテンションが保たれていくだろう。
否否、プライベートの充実が保たれなければ意味がないと考えることもあろうか。

そのように職業的に充実感をもってしても、女性の出産に関する
身体機能には限界があり、出産適齢年齢を意識すれば、悩みどころは神妙になる。
生む可能性の限界を意識しながら、この女性特有の機能を無駄にしたくない。
そんな狭間にある女性の思いは、ある時期の多くが経験しているのではと思う。
割り切れる時を持てるまでの期間を大切に生きていきましょう。
ワークステーションから愛をこめて、発信させていただきました。

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看護師という職業の選択

看護師の就職の選択肢は、今や多岐に亘っており決して狭き門ではない。
むしろ一般社会から見て恵まれていると認識するべきと思うのですが、
多岐に亘る、というのが少々??マークがついてしまうほど、
就労環境(労働条件)が整備されていないように思えます。

とはいえ、看護師が足りない、といわれる背景には、
早い速度で看護の専門分化が進み、
より高度なニーズへの対応力が育成されてきた一方、
看護分野の起業規制緩和、看護師配置基準整備、
在宅医療の拡大充実など、医療対策上の施策があるのでしょう。

一看護師が(この場合特に女性の看護師ですが)、
結婚・子育てのライフサイクルを経ながら、
看護師資格をどのように活用していくのかを問われるとき、
必ずしも提示される就職が、サイクルニーズに合っていないとか、
職場実態からして安価すぎるという問題があるようですし、
エネルギーを要して働くのを好まず、
楽に働ける仕事内容を志向する傾向が根強くあるように見え、
少々残念な思いがするかな?

看護師の職業は「さまざまな人との出会いと交流」があり、
身近なできごととして展開しますよね。
さまざまな人と自分との違いを知り認め合う進化を、
新鮮な感覚として体験できるのですからドラマチックでもあります。
違いから生じる価値観のぶつかりあいは、凄まじく苦い体験とも云えますし
希望へのプロセスと認識できることもできます。

あなたはどのようなエピソードをお持ちですか?

就職の選択、人との出会いと交流。
そこから始まるその人(看護師)の行動は、
どんな化学反応を生み出すのでしょうか?

そんな風に考えてみると、看護師にとっての多岐なる選択肢は、
実のなる木として興味深い恩恵ですヨネ。
看護師復活への活路を見つけていきましょう!

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看護師を続けながら子育てしているお母さんへ

看護師になる動機としては、看護師になって人のお役に立ちたいとか
苦しんでいる人のお世話をしてあげたいなどいろいろありますが、
結婚しても生涯看護師として働きたいという意思を
明確にしている人は少ないように思われ、それはどうしてかな?と。

看護学校に入学して、3~4年間もあの大変な学びの努力、
膨大な消費時間・経費を考えると、
取得した資格は、そうそう簡単には手放せない。

男性は、積極的には「結婚後も看護師を続けなさい」とは言わないのではないでしょうか?
女性もまた、結婚相手として気に入った男性の意向に沿って
決意をしているような気がしていて残念に思われます。

結婚と看護師の両立! 何が両立を困難にしているのでしょうか?
これは最近の問題ではなく、相当に長く続いている問答で、
解決し難い社会的な問題に影響されているようでもあります。

さて、子育て中の(看護師)かあさん!!
誰しもがわが子のために、昼夜24時間365日を「より良いお母さんであるために」
切磋琢磨の努力。尊敬するばかりです。

ある本に、世界の心理学者(フロイド、エリクソン、ピアジェ、バーン)の理論をベースに、
あなたが“素敵”な親であるために として書かれてあった一部をご紹介してみます。

誕生から6ヶ月:おかあさんとおとうさんにしてほしいこと
1.子どもそのものを受け入れる
2.触れる・マッサージをする・たっぷり抱っこする
3.おなかをすかせたらその時におっぱいをやる
4.お互いに助け合って休養をとる・お互いを自分たちを大切にする

これは、「今、このとき、ここから始まる」話なのですが、働くお母さんにとっては、
四六時中のたっぷりな時間を保証するのは難しい話です。
しかし、「私の子育て」としてわが子への誇り形成ができるということを希望的に考えてみれば、
「今・このとき・たとえ寸時でさえも、ここから始まる」無条件の、
いい感じのストロークを与え続ける。
つまりは、帰宅したとき、保育所に迎えに行った時、
しっかりハグしてあげるだけでも違うってことです。

ノンちゃんは、これを基本に銘じておくならば、
多忙に働く看護師をしながらも、子育てを両立できると思っているのです。
但し、多忙すぎる看護職と子育てについて、
健康を害してまでも両立させようと言っているのではないですよ。

両親が子どもを間に、折り合いをつけあって生きていくまでには
時間もかかることではあるのですが…
子どもは一定のリズムを求める特性(欲求)があるので、
生活のリズムを早く確立していけば、
子どもなりに頭をうまく使うようになってくるってことも信じて!!

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看護師の『現役』と『影法師』

サッカーの三浦和良(サッカーの元日本代表FWでJリーグ最年長のJ2横浜FC)さんは、44歳現役選手。子供を持つ親父でもあるが、執念みなぎる風でもなくテライなく坦々と自分の出番指名に備えている。

「何故引退して、コーチや監督になる道を選ばないのか?」
の問いかけはどうやら愚問のようだ。

「限りなくサッカーをするのが好きだから」ということらしい。
「サッカー選手に求められる身体機能は若い選手にはかなわなくなってきている。しかし、自分が選手として出る場がある以上、価値ある戦いは衰えず発揮できるし、プレーしていて楽しい」と。
これだけのことを温和に言えるところが素晴らしい。

ならば看護師の「現役」ってのはどうなのだろうか?

考えてみると、確かに瞬発力(即応力)は20代半ばと40代半ばでは格差がついてくるが、加齢と共にキャリアを積めば、一定の技術力は水準を維持し、洞察力・察知力に磨きがかかるなど進化した力を持つ。

つまり「技の手際よさ、素早さにかけてはベテランの力を発揮するが、新しい技に対しては若いひとたちには適わない適応不足の感は免れない。

しかし、そんなことよりも、医療現場で看護し続けていることが「看護が好きだから」と言わしめて、看護師現役を温和に頑張っているのは現実的な話だろうか?看護師は医療現場で管理立場でない一スタッフとして、また在宅看護師として、限りなく、どのくらいの年齢まで働けているのだろうか?

助産師の80歳現役ってのは時々に知る機会があるけれど、看護師さんはまだ聞いたことがなく、お目にかかりにくい。どんなところでどんな現役看護師として貴重に働いておられるのだろうか?

どなたかそんな貴重な方を紹介してくださいな。私たちの看護師仲間が、その資格を持っている故にそこまでも社会に貢献できるという深いい話がここに集まれば、決して「影法師」でない現実的な可能性ある力として「一つの光」が見えてきませんか?

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患者と医療者は「お互いさま」の安らぎの中で

看護師現役時代に考えていたことがあります。

病棟で新しい患者さんたちと出会うたびに、
「この出会いって人々がどうつながりあってこの場所で会うことになったのかな?」
「ここでの生活上のつながりは個々の患者さんの生き方として
どのように変化(進化)するのだろうかな?」
そんな好奇心があったように思います。

病院での患者さんとの出会いは、根源的には「生命の維持」という欲求(希望)があり、
患者さんと看護師は極めて近い関係になり得ますよね。
看護師は当然のごとく、プライバシーを尋ね、患者さんの皮膚に触れ、痛む箇所を直に触り、
口の中を観て、体を清拭して、陰部洗浄して、浣腸もしてなどなど、
看護師に託された身体上の観察・処置をしていますよね。
これは極めて非日常的な出会いで、看護師だから為しえる関係です。

近年、病院や施設は、患者のプライバシーの保護や患者が治療の質を選択決定する
自由度の拡大や自己責任など、患者の権利として保証していますから、
患者さんの生き方、考え方が看護活動に大きく関わってきます。

例えば、診察を受ける患者さんが、特に女性の場合、
やたら脱衣する行為を嫌がったり、高齢の患者さんが脱衣にもたもた時間がかかるという場合、
Dr.もその辺は引き気味で、脱衣しなくともいいという了解をして診察するのですが、
私は、これは大変な省略医療であって、不平等な格差診療と思うわけです。

現役時代には、最近のご時世の配慮として受け止めていた節もあるのですが、
現役を離れ一市民として病院を訪ねる身となった今、身体上の異常を感じて受診すると、
問診と簡単な聴診、後は検査結果(採血・レントゲン・他)に任せられる場合が多すぎて、
受診の満足感にはならず、違和感を感じたりもするのです。
なにせDr.はPCと向き合い、PCの処理をするまで会話を中断したりして
顔を合わせる事はないのですから。

PCがはじき出してくれる診断能力も確かにすごいのですが、
このフィジカルアセスメントの技を駆使してくれる診察は、
この頃まったくといっていいほどなくなりました。

医療の現場で、医療提供者と患者さんの出会いの中で、緊急であれ慢性であれ、
生命の維持に関わる関係を築いていく場合、人と人とのつながりの欠如感は
生じさせたくないものですし、自分だけの安全を遵守するのではなく、
その人の立場に付随する規範をもって
「おたがいさま」の安らかな関係ってできないものでしょうか?

ノンちゃんのお正月の猫目線は、そんなところに関心を寄せてみました。


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