人生いろいろっていうけれど、幸せもいろいろ(十人十色あるもんだな?)
とつくづく思う。しんみりと秋の夜長の夜風に身を縮ませて、
幸せ感を想い浸りながら、誰とも話し相手のいないのがちょっぴり寂しい。
私の横脇で暖を取るように寝入っている老猫に話しかけてみると、
目をしばしばさせながら、何の用もなければ失礼!とばかりに、
すぐに猫円(まる)体勢に仕切り直して、
鼻をクークー鳴らしながら合歓(ねむ)ってしまった。
(なんてこったぁ??)
ところで私は、何をおっしゃりたいのやら、呟きたいのやら……???
昨日14日、アメリカ人歌手(シンガーソングライター)のボブ・ディラン氏が、
ノーベル文学賞受賞との発表があった。
TVの速報で知ったわけだが、えっ?ほんと?何?の、声も出ない驚きであり、
瞬時ノーベル文学賞の意味も解らなくなった。
ボブ・ディランの歌は、私の青春まっただ中(20代前半)のアーティストであったけど、
その頃の時代背景的には、長引くベトナム戦争(確かではないかもしれないが、
1960年前後~1970年まで)に反対する運動気運が高まり、
反体制・反戦平和運動が世界的な流れになっていたように思うが、
何しろ、心地よく心根に浸みわたるような歌が次々にヒットしたものだ。
彼について詳しくは知らないが、アーティスト仲間の間には、大きく影響を与えたらしい。
ともかくも、歌詞は素敵であったし、メロディーと歌う声は、渋く魅かれるものがあったわけです。
私の青春の思い出が、次第に遠のいていき、時代背景も今は、
想像さえ難い痛みがあり、懐かしい。
そして、想像だにしていなかったノーベル文学賞の報に、
俄かに幸せの一時代感が蘇ってきたっていうわけであります。
そして、少しばかりセンチな心境にも浸りまして、まっこと、人の幸せ、人の愛について
こんな風に吟遊?してみました。
その行いの中に、どれだけ愛を注いでいるかが、問題であり大切なのだと。
時間とともに、彼の受賞への反響は祝意も然ることながら、反発も湧き上がっているが、
彼が、かつて、そして現在において、人々にどれだけ愛を注ぎ続けてきたのかが大切だ。
彼の詩は、私は人々に愛を注ぎ続けていると、肯定できると思うのであります。
(ボブ・ディランをよく知らないのに、よくも書けましたね。なんだろう?これって)
つまりは、わが人生の蘇りを感じたってことなのだろうね