遠隔介護ブログ(第26回)

こんにちは。
コーディネーターの渡邉です。

コロナウィルスの影響でイベントなどは自粛。
ということで弊社も3月に予定しておりました、心電図セミナーと4月に予定しておりましたフィジカルアセスメントセミナーを中止させていただきました。
ギリギリまで開催したいと対策をねっていたものの、講師の先生も参加者様もドクター及び看護師さんということで、このコロナウィルスに最前線で注意を払われておられる方々、中止はやむを得ないという状況が理解できました。

もちろん、世界中の人たちが楽しみにしてたイベント、学校行事、観光等々を自粛して、家族で過ごされる時間も、想定以上に増えているかと思います。我が家もそのように、セミナーでの出勤がなくなったり、様々なイベント中止をうけ、もともと映画好きの夫婦ですが、いつもより多めに映画館に通えました。

映画館に行くのも自粛したほうが良いのかとも思いましたが案外、これが映画館、にぎわってます。
アカデミー賞最優秀作品賞の「パラサイト半地下家族」と、アカデミー賞最優秀主演女優賞の「ジュディ虹の彼方に」を、この2週間でたて続けに観ました。そもそも先に「フクシマ50」を観ようと思ってましたが、少しだけ、いま、コロナの不安で心がしんどいので、笑えたりほっこりするものを観たいなと。
なめてました、パラサイト半地下家族。心がえぐられます。
ジュディは、ハリウッドで活躍した実在の大女優の一生ですが、これもまた胸うつものがあり、幸せってお金で買えるのか買えないのかを考えさせられる2本でした。

本を読む時間も増えました。
何かしら、このコロナウィルスの影響もプラスに考えないといけないなぁと思う毎日です。

そんな中、この遠隔介護ブログの主役、我が父は、高齢者大学大学院を卒業、卒業式で無事に卒業証書をいただくことができました。
私は車椅子の父を押す担当で列席させていただきました。
他の市町村の高齢者大学は卒業式中止もあるそうですが、父の通う高齢者大学では無事に卒業式が開催できました。たしかに、コロナにかかると一番危険な年齢層が集められるので普通は中止ですよねと、事務長さんが自虐ネタも言われてました。

開催できた卒業式ですが、来賓や在校生の出席は無しで謝恩会もお弁当を食べるだけに変更されました。
決行することに至った理由や流れを説明されてる事務長さんは涙ぐまれてました。それだけ、やるも批判覚悟、やらないはつらすぎるというどちらにしても苦渋の決断だったのだと思います。

小中高の卒業式も来賓、保護者列席できないだらけだと思うので、日本で身内の卒業式に参加させていただけたのは私だけではないでしょうか。

仰げば尊しも蛍の光も、一緒に歌いました。

私自身の高校の卒業式では、父がPTA代表で挨拶しました。
2ヶ月前に心臓の大手術をしたばかりなのに名誉あることやと、挨拶は断らず痛い手術痕をおさえながら挨拶してくれました。

そんな父の目標だった高齢者大学大学院卒業を後ろから見守る私。

定時制高校に通いながら大工になった父は、学歴コンプレックスがあったそうで、本当に念願の高齢者大学〜大学院、6年間の通学だったようです。
卒業式の日までそんなコンプレックスを私には話さなかったのですが。

もちろん、休みがちでした。体調もありますし、元気な方のように修学旅行も行けず、お弁当も作れないし買いに行く車も失い、お昼ご飯がどうにも出来ず、泣く泣く休んだこともありました。でも、辞めずに卒業証書をいただきました。

車椅子押してくださいと言ってくださった事務長さんに感謝、そして、そのような理由での有給休暇を、快く認めてくださった上司に感謝してます。

ラスト大学院の校歌斉唱、その校歌は私の中学時代の恩師の作曲。
恩師は、とてもピアノが上手でその人のもとでいろんな歌を歌わせてもらい(中学生で、五輪真弓さんの「恋人よ」とか練習させてもらいました)、それが今の私のワークステーション音楽隊入隊にもつながっているので、恩師には感謝しかありません。

30年近く前、14歳の私は、故郷の歌を父に言われて作詞し、その詞に、その恩師が作曲してくださり、今でも、故郷では歌われているという田舎ならではの想い出もあります。

そんな私にとっても思い入れ深い卒業式も終わり、教室に戻り一言ずつ挨拶される中での父の挨拶は、「車椅子の自分がみなさんと一緒に卒業出来たのも、皆さんの優しさのおかげです、遠足のときも車椅子を押して下さりありがとうございました。みなさんも、わたしの存在で、障がいのある人への接し方を学んでいただいたのではないでしょうか(このへんが父の前向きなところです)、そして、わたしは4月から高齢者住宅◎◎へ入居が決まりました。市内にありますので、遊びに来てください。施設を考えてるかたは、とてもいい施設なのでぜひ入居してきてください。そして、施設に入っても皆さんの集まりには参加したいので、絶対に誘ってください。本当に6年間、ありがとうございました。素晴らしいクラスでした。」

何かを読むわけでもなく、自分の言葉でしっかりと、今でも私が思い出せるくらい端的に感謝と思いを全て詰め込んだ、良い挨拶だったと思います。

 

父は大学院卒業を1つのけじめと考えてました。
卒業したら施設入ってもいいと、ずっと言ってました。それが実現します。

来月の引っ越しに向け、私は土日、準備にもけっこう時間を使ってますが、父のその前向きさに助けられ、なんとか順調に手続きも、必要なものの購入もすんでいってます。
不安だらけですが、きっと父が1番不安なので、いつでも会いに行くからねというのを全面に伝えながら、春を迎えられるようにしたいと思います。

今回もとても長くなりました。
遠隔介護ブログ26回目。

次書かせていただくときには、コロナウィルスでのイベントや通学自粛が解かれてますように、願いをこめながら締めくくります。

遠隔介護ブログ(第25回)

こんにちは。
コーディネーターの渡邉です。

遠隔介護ブログも25回目。
いつも長文になってしまうので今回は短めに。

前回書かせていただいた独り暮らしの父が、サービス付高齢者住宅に入居する事が決定したことの続きです。

自分の目で見学した父はとっても気に入り、実際の入居は4月からですのであと1ヶ月ちょっとあるのですが、もうそこに住んでる夢も見るくらいだそうで。

そして自分の友達にも電話で宣伝を始め、場所や中身の説明、そこから入居価格や、施設名の説明になると私に電話をかわり、最終その施設の連絡先まで教えて、新築なので部屋が空いてるうちに自分の知人もなんとか一緒に入居出来たらと積極的に活動する状況。

施設の社長さんの眼の前でもそんな電話を父が始めたので、「営業してくれてはりますね。」と、社長さんも微笑ましく父を見守ってくださいました。

なんにしても、この前向きさは見習わないといけないなぁとあらためて思いました。

ほんとは不安も寂しさもあると思います。
生きてきて、初めて実家を出て暮らすことになる父ですから。

 

私はというと、ここから休みの日は、ほぼ、父のその第二の住処への準備に走り回ることになると思います。
施設と言ってもマンションの一室と同じ。ちょうど春から、独り暮らしをされる学生さんや新入社員さんたちと同じように新しい生活用に色々準備することになります。

主人に、「カーテンくらいはお父さんに好きな色、柄、選んでもらったら?」と言われましたが、最近の父は暇さえあれば寝たいので、「買い物行こう。」と連れ出しても、お店に着くと「車で寝とくから買ってきてくれ。」なので、カーテンの柄がどうとかも、もうこちらに任せてもらうことに。

ケアマネさんも、今までデイサービスや在宅介護でお世話になってるケアマネさんとは替わります。施設のケアマネさんになります。

父は不安がってましたが、施設のケアマネさんも、今まで長年お世話になったケアマネさんのお友達と知って、ひと安心。要介護と認定されて生きるには、どんなケアマネさんに出会えるかで、確かに生活のしやすさは全くかわってくると実感します。

施設も、別のサービス付高齢者住宅を見ていたときに、入居時に印鑑証明や戸籍謄本や、用意するものが多くて、平日に仕事休まないといけないなぁと3月はただでさえ年度末で仕事忙しいのにどうしようと思ってましたが、今回決まった施設さんは、「介護保険証があれば不要ですよ」と言ってくださいました。

なので、後はお金のやりくりと、入居への日用品をそろえるだけ。
お金は確かにかなりかかります。高級有料老人ホームじゃなくても、それなりにかかります。父にも今までよりは少し節約してもらわねばと思います。

また違う闘いがここから始まるのです。
自分の老後も考えると、貯金ってすごく大事だなぁと思います。

 

でも、、やっぱり、頑張ってる自分へのご褒美と、食べたいものを食べ、欲しいものも買ってしまいますね。。
色んなものを我慢できませんが、私は観たい映画の我慢が出来ません。忙しくても体調不良でも金欠でも、観に行ってしまう映画。
2月は3本。

◎嘘八百
(関西人にはたまらない笑いがたっぷりの映画)

◎グッドバイ
(太宰治さんの未完の小説が映画化)

◎フクシマ50
(東北の震災時の福島の原発の実話)

で、来月はまずはパラサイト半地下家族をおさえようと思います。今更ですが。

 

なんにせよ、歳を重ねるほど、現実を受け入れ、意地をはらず、周りの人の意見を聞き、前向きに人生を考える、、
それがどれだけ大切か、父の今の状況から教えられる事が多い毎日です。

結局今回も長くなってしまいました。
次回書かせていただく頃にはCOVID-19が終息し、穏やかな春が来てますように。

 

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遠隔介護ブログ(第24回)

こんにちは!
コーディネーターの渡邉です。

新型肺炎のニュースが日々流れる中、花粉が飛ぶ季節にもなってきたのにマスク不足、、不安な日々が続きますね。
早くこの新型肺炎の感染の広がりも終息を迎えてほしいと願うばかりです。

暗いニュースが多い中、私はこの本を読んで少し心が温かくなりました。

昨年亡くなられた女優の樹木希林さんの言葉を集めた「一切なりゆき」。
以前から読みたいと思いながら購入出来てなかったのですが、先月、弊社の休憩ルームの本棚が一新されて、そこに置いてある本はすべて借りられるという幸せな状況になりましたので真っ先に借りました。

樹木希林さんを好きな方は多いと思います。私も大好きで、たくさんの映画、ドラマ、樹木希林さんが出てらっしゃるというだけで観たりもしました。
その中でも、「寺内貫太郎一家」は、脚本の向田邦子さんのことが無茶苦茶好きなので、放映されてるときは私はまだこの世に誕生してないため、再放送などを探して何度も観ました。そこにはまだまだ若い樹木希林さんが、おばあさん役で出られており、今回読んだ本にはどうやって役作りしたかの工夫も書かれてました。
そんな女優としての話や、妻として、母として、祖母として、1人の女性として、いつもくよくよせず前向きに、自然に生きてこられた姿が、樹木希林さんの一言一言からうかがえ、読んで良かったと心から思える一冊でした。

 

さて、遠隔介護ブログももう24回目。
前回は、一人暮らしが限界に近づいてきたかも、、と書かせていただいた父のこと。

そのあとすぐに、弟が父のケアマネさんに施設入居を相談してくれたら、ちょうど新築されるサービス付き高齢者住宅が、父が住む市内、しかも父の弟家族宅の近く、電車の駅も近いし、前にはスーパーマーケットもあり、抜群の環境の中にオープンされる事を聞き、ケアマネさんはすぐに施設見学に行ってくださり、書類をもらってきてくださいました。

その書類を見て、私と主人もすぐに見学に行きました。
新築なのでもちろん綺麗なのと、隣には小規模多機能施設も併設されており、看取りまでされてる事も知り、そういった施設を昔から経営されてる代表者さんの知識と経験が詰まった、考えつくされたサービス付き高齢者住宅だと心から思い、ここがいいと1件しか見学してないのに、決断に近い思いになりました。

ただ、入居するのは父。
まだ父が本当に施設に入りたいかどうかも不明です。

翌々週、父が私と主人が暮らす家に泊まりにくる機会があったので、その中で、父と向き合い、そのまま見学に行こうと話しました。
父は、自分でももう一人暮らしがしんどく怖いと思っていたようで、前向きに考えたいと話してくれました。

父が泊まりに来たときもやはり、父にとっては1年に1回泊まってる娘の家でも

*ベッドの寝心地
*お風呂の高さ
*廊下に手すりがないこと
*皮膚にぬる薬を忘れてきたこと

など、いろんな不便があり、寝ようとしても寝れないくらい、あ〜してくれこうしてくれと呼ばれて私のイライラはピークに。

遠隔介護ブログなんて書かせて頂いてますが、共に暮らされて介護されてる方はこれが365日続くのかと思うと本当に大変なことだと感じ、やはり、介護というのはプロに任せないといけないと新たな思いにもかられたのです。

父自身での施設見学も終え、父も施設を気に入り、明日からでも入りたいと言い出し、もちろん準備もあるので2ヶ月ほどはかかりますが、おそらく入居にはなります。

自分のなかでは、父の一人暮らしの終焉を考えてからトントンと話が進んだので、これもご縁だなと前向きに捉えました。

お金のこともたしかにかなりかかります。
が、父が一人暮らしをしていることで買い物に行ってくれてるガイドヘルパーさんの費用、光熱費、買いすぎてしまう買い物の金額など考えると、そこまで負担が増えすぎず、やっていけるのではないかというカツカツのラインです。

父の思いもかたまり、ホッとした夜、あるドラマを、主人と観ていたときに涙が溢れてきて、ドラマを観ながら泣くのは私のいつものことなので、主人も最初はなんとも思ってなかったのですが、その時は涙が止まらず嗚咽になり、だんだん主人もどうしたんや?という顔になってきました。

父が施設に入居すること。
母が末期がんと分かったときに祖母(母の母)を施設に入れたときの母の気持ち。もう2人で暮らすのが限界、老老介護の限界を感じ祖父が施設に入ったときの父の気持ち。いろんなことを考え、やっぱり辛かったよねと思い起こすと(未だに父は、祖父の最期を家で看取れなかったこと、認知症病棟のようなところだったので、飲食も外出も自由ではない環境に祖父をおいてしまったことを悔やんでいるので)今回、自分のした選択がこれで良かったのか、父は本当は辛いのではないか、せっかく、あんなに大きな実家があるのに、子供も2人もいるのに自分の生まれ育った、一度も出たことない村を出るなんてかわいそうじゃかいかなど、いっぱい考えました。

ただ、主人からお父さんにとっても楽になるよ、ベストじゃないけどベターな選択やと慰めてもらい、たしかに、見学に行き、先に入られてる入居者さんに自分から自己紹介して馴染んでいこうと、さっそくする父。ここなら友達も来てくれやすいわと笑顔で語る父を思い起こすと、父にとって初めて実家を置いて便利な町で暮らせる貴重な機会を、まだ少しは体が動くうちにもてることは、幸せかもしれないと思えるようになりました。

全く家に帰れないわけではなく、届けさえ出せば外泊も外出も可能ですし、実際に今年は祖父や祖母、母の法事もあるので、そのときはまた親戚と実家に集まることにもなるので、そういった安心もあります。

ということで、この遠隔介護ブログでずっと書かせていただいた体の不自由な父の暮らしも、そろそろ違うステージにと向かうことになりました。

まだまだ準備段階ですし、実際施設生活が軌道にのるまではいろんなことが起こるのも覚悟しています。
すべて、経験として考えまた皆様に発信していけたらと思ってます。

今年の春も忙しくなりそうです。

 

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遠隔介護ブログ(第23回)

2020年もどうぞ宜しくお願い致します。
コーディネーターの渡邉です。

皆さんは穏やかな冬をお過ごしでしょうか。
私にとって、母が亡くなってから「冬」はけっこう、しんどいものになってます。

冬は寒い、当然のことですが、西宮のマンション住まいの私にとっては昨今の暖冬、家でも会社でも、そこまでもちろんきびしいものではありません。

ただ、もちろん雪国ではないですが、兵庫県の田舎、山間の通気性が良い、ザ日本家屋での一人暮らしをする父には本当に厳しいもので、まず、祖父が生きていて老男2人暮らしのときは、祖父がよく倒れました、というか、ずる賢いところもあった祖父は、倒れたふりをして入院して、温かい病室で冬を越そうとしてたのではないかと今は想います。

そして、父一人暮らしになると、水道管が凍って破裂して水が使えなくなったり、年老いて体もどんどん不自由になるなかで、ドアの開け閉めがしんどく、一階だけで7つはある部屋の扉全部開けっ放しにしたまま一部屋用の暖房器具を3台くらい全部つけっぱなしにして温めようとするので、31度設定にしているエアコンに負担をかけすぎ、室外機が騒音レベルに鳴り出したり、全くエアコンが効かなくなったり、1ヶ月の電気代が10万を越えたり。。。

全部、父の少しの努力で改善されるとはわかるものの、一人で頑張って暮らしてる父。そして、心臓が悪いので節約して寒い部屋にいて心臓発作を起こすのが怖い、と毎日恐怖を語る父にあれこれ言うのは、酷ではないかと考え、早く春が来ることをひたすら願う、、。
そんな毎年の冬を繰り返してます。
もちろん、寒くて体がこわばったまま歩くので、こけて頭打って、体も打って入院したこともありました。

叔母にも先日言われたのが、「独り身の男性は、冬がこたえるらしいよ、淋しくて」という言葉。

女性と男性で区別する社会ではなくなってはきてますが、たしかに、若いならまだしも、体もどんどん動きにくくなってくるお年寄りになっても、女性はお一人でも気楽やわ〜とか、自由やわ〜と、謳歌されてる印象があるのに男性は背中がまるまり、哀愁漂う雰囲気を出されてるかたが多いなぁと思ってしまうのです。それが寒さも加わると余計です。

そんな冬、今年もやはりエアコンの室外機が壊れ、隣の家が弟の幼馴染さんが住む家なので、音で気づいて弟に連絡をくれて、幼馴染さんがうちの家に入ってくれて、まずエアコンを消してくれ、わたしの友達のご主人で工務店をされてる方にすぐにみていただき、室外機に氷が出来ているとのことで(本来凍らないように中身は出来てるが、あまりにエアコンを酷使するのでその機能が追いつかなかったと)、それを取り除いていただき、普通に使えるようになったのに、1ヶ月経ってまたまた同じ状態に。
そのときは、近所に住む親戚に状況確認をお願いしました。
騒音被害にもなるので、もうその部屋のエアコンは使わず、電気ファンヒーターでなんとか乗り切ることに。

昔は、石油ストーブでなんとかなってました。石油ファンヒーターももちろん。でも、灯油を給油することが年老いた父にはきつく、危ないとも思い、電気に変えました。
オイルヒーターも買いました。危なくないように。オイルヒーターは高いです、しかも、オシャレすぎたのが盲点。
何回教えても使いこなせないので、父はイライラするばかり。

近所も知人も親戚も巻き込み、弟家族と私達夫婦でもあちらこちらに連絡とりながら、また、帰省すればその点検と今後の対策をねり、莫大な電気代とも向き合う日々。

正直、そろそろ限界かもしれない、、という思いが今年の冬は襲ってきています。

最近は昨年亡くなった祖父の法要などで、親戚と集まることも多いため、そろそろ、父は高齢者住宅か老人ホームか考えないと、週3回のデイサービスと週3回のホームヘルパーさん、週1回のお買い物ヘルパーさんに頼る、要介護2の父の独り暮らし。
限界という二文字を現実に考えるときが来た、そんな2020年の幕開けです。

 

私も弟も、もうそれぞれ仕事と家族があり実家には戻れない。では父を自分のところに呼べるのか、、それはそれで違う難しさがある。
たくさんのご家庭が抱えられてるお悩みだと思います。

以前、高齢のお母様を故郷から大阪市内のマンションに呼ばれて生活を始められた50代の看護師さんが、お母様が都会のアスファルト暮らしに馴染めないと言われてるとつぶやかれてたのを思い出します。

何が正解なのか、どうすれば良いのか、そんなときに思い出すのは、母が亡くなった時、あ〜すればよかった、もっとこうしたかったと嘆く私に、年上の知人女性がかけてくれた「何をしても親を見送って後悔せんことはないよ」という言葉です。

父とどう向き合うか。

父は、「高齢者大学の大学院卒業したら、老人ホーム入りたい」と言ってるので、その言葉を鵜呑みにするか。(ちなみに卒業は今年の3月。この高齢者大学の大学院でも様々なことがありました。それはまた後々書かせていただきます)

まずは、父とよく話し合い、ケアマネさんとも相談し、父の暮らしの不安が少しでもなくなるような事を、今の経済力で出来る最善を考え、実行する時期がきたことを認識して動きたいと思います。

 

日々、父に何かあって呼び出されたらどうしようと、ここ数日、あまりにも気弱な父からの電話「寒い、体動かへん、大学院休んだ、デイもしんどくて帰ってきた」などの嘆きを聴いてると、不安だらけでしたが、楽しみにしていた、東京旅行はなんとか無事終えることが出来ました。

主人が永年勤続表彰で東京に行けることになり、便乗してむこうの友人に会ったり、表彰終わった主人とずっと行きたかった柴又、男はつらいよの寅さんの聖地などに行ってきました。

外食もキャッシュレス、手紙ではなくメール、買い物もインターネットでなど、寅さんが生きた時代と大きく変わるこの世の中で、人情がなになのか、人とのつながりの大切さがなになのか、ゆっくり考えさせてもらえる旅でした。

年末から公開されてる「男はつらいよ おかえり寅さん」も、とっても良い映画ですよ、この寒い冬にあったかい気持ちになる素敵な内容、オススメです♫

 

少し暗いブログになってしまいましたが、また父のこの限界独り暮らしの続編は、随時、書かせていただければと思います。

 

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遠隔介護ブログ(第22回)

こんにちは。コーディネーターの渡邉です。
遠隔介護ブログ22回目です。

季節がどんどん進み、すっかり朝晩冷えるようになりましたね。
私の実家がある兵庫県の内陸部は、山も色づき始めました。

 

前回95歳の祖父が亡くなったことを書かせていただきました。

母が亡くなったときは、もう終末期に入っていることが家族で認識出来ていたので、悲しくて悔しいながらも母の死を受け入れる準備も始めていたのですが、祖父はこの10年、親戚で「危篤詐欺」と呼ぶくらい、危篤と病院から言われて、みんな病院にかけつけてみては持ち直す。というのを繰り返してましたので、まだまだ生きていてくれるという気になってました。

が、それはほんとにある日突然で、私たち夫婦と父とでお彼岸のお墓参りをして帰ってきた夜中に、祖父のキーパーソンとして病院に連絡先を伝えている私の弟から電話が鳴り、亡くなったとのこと。

そこからの数日は、死亡届の提出、病院からの荷物の引き上げ、通夜、告別式への用意、家の掃除など、、目まぐるしく「しないといけないこと」がおとずれ、母の死のときにも感じたことですが、身内の死を悲しんでる暇がないくらい、寂しさを感じる暇もないくらい、やらないといけないことが多いのが身内の死、、ほんとにそうでした。

弔問してくださった、古くから家族ぐるみの付き合いをしている60代の知人に言われたのが、「私まだ、家族見送ったことないねん。めぐみちゃん私よりだいぶ若いけど、もう2人も段取りしてやってんねんな、プロやな。」という言葉。

あっけらかんとしてて、悲しさや寂しさや忙しさの中でも、私は声を出して笑ってしまいました。

ほんまや、私はもう40代前半で二人も自分で段取り考えて見送ってるんや、経験値どんどんあがるやんと。

正直、祖父の死で、他の孫たちより仕事を休まないといけない日数も多かったり、考えないといけないことも多くてクタクタだったんですが、その言葉にちょっと勇気付けられたのと、もう1つ、私を鼓舞させてくれた言葉が。

祖父が死んだら、もちろん喪主は跡取りであるうちの父。
そして、父の妹弟もいますので、孫の私がいろいろと手配したり動くのもほんとは役割ではないんですが、亡くなった母から、そういう家のいろんな行事の引き継ぎもうけ、田舎ならではの特有のご近所のつながりなども教え込まれてるため、私がちゃんとしなきゃ、でもほんとは私じゃなくてもいいのに、、と、どこかこの役割を、やらされてる感があってモヤモヤしてたのも確かなんです。

通夜の寝ずの番のときも、父と父の妹弟は寝ており、私と主人、弟夫婦と、従妹という孫たちで夜中じゅう起きて色々話してたんです。

そのとき、私がふと、ほんまは孫じゃなく子がやることやんなぁと呟くと、弟の嫁、私の義妹に、「でも、私らのほうが若いですもん。若くて元気で、だから出来る人が出来ることすべきなんです。自分の子供にもそう教えたいから。」と言われたんです。

あ〜義妹ちゃんも家族になって、この役割を、やらされてる感ではなく、ちゃんと自分のできることと捉えて考えてくれてるんやなぁと嬉しくなり、私ももう立場がどうとか、そんなこと考えてたらあかんなぁと思いました。

自分が段取りを考えさせてもらえるので、ある程度私の予定に合わせてお寺さんへもお願いが出来ますし、内容も告別式の規模なども親族の想いを聞きながらとはいえ、私の都合が一番優先させてもらえます。

決められたことをやることより、ある程度自分の段取りでやりたい私の性格にはちょうどよいし、母はそれも見越して、私にいろんなことを預けて亡くなったんだなぁと、今回も思い知らされました。

寝ずの番を含め、亡くなった日の夜中ももちろん寝れてませんので、ほぼ2日間ゆっくり寝れず、いつも誰か親族と一緒で、一人でゆっくりする時間はなかったですか、その分、家族や親戚と今まで話したことのないような深い話をしたり、祖父への想い出話をしたり、いくらでも話すことはあり、告別式が終わっても法要ごとに集まり、会話が増え、絆が深まっていくことを日増しに感じてます。

 

亡くなった人を送る気持ちとその人への感謝は、残された者がよりつながりを深め、いつまでも仲良く協力しあい、寄ればみんなで想い出話をする。
それが一番の故人への「ありがとう」になるんだなぁと、お互いいろんな言葉をかけ合う中でまた1つ勉強させていただきました。

大人たちの様々な思いと疲れの中、ひ孫たちが走り回り、でも、火葬場ではまだまだ幼いひ孫たちも泣き、悲しみに包まれながらも、温かい思いに包まれたこの1ヶ月。

どう生きるか、どう死ぬか、これは永遠のテーマだなぁと思います。

 

そして、「やらされてる感」じゃなく、物事を考えられた瞬間に見えてきたことは、段取りは私がしているかもしれませんが、それがスムーズに進むよう、その場にいる全員の人がどれだけ考えて動き、協力してくれてるかです。

これはほんとに仕事にも言えることで。
いや、人生すべてにいえることで、余裕なく心が疲れてるときほど、一度立ち止まり、自分のまわりの環境を見て、まわりに感謝すると自分の心もふわっと軽くなる。

そして疲れもちょっと飛んでいく。

良い循環になる方法、わかっていてもすぐに忘れるので、これからはしんどくなったらまず、あの寝ずの晩のこと、思い出したいと思いました。

写真は、平日は仕事、土日は益々実家の用事に追われてるこの10月に、無理やり時間作ってまで観た映画「イエスタデイ」。

「世界からある日、ビートルズが消えた」という設定(自分以外誰もビートルズを知らない)の、ありえない映画で、私はビートルズ世代じゃないんですが、とにかく、観終わったら、足取りが軽く、心がスキッとして、ビートルズの名曲を口ずさむという気持ちの良い映画でした。

忙しいときこそ、自分のしたいことのために時間を無理につくるのもリフレッシュのため、ほんとに大事なことですね。

 

さてさて、これからどんどん冬に向かい寒くなりますよね、、
一人暮らしの父は、冬にいつもなんだかんだトラブルを起こして、私や弟にヘルプ出しをしてきます。今年はなにが起こるのか。ただ不安ではありますが、それもこの生活で避けられぬこと。

1つ1つ乗り越えて勉強していきたいと思います。

皆様も、冷えぬよう、あったかい生活を送ってくださいませ。

 

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遠隔介護ブログ(第21回)

こんにちは。コーディネーターの渡邉です。
遠隔介護ブログ21回目です。

9月は敬老の日がありました。

幼い頃から、両家の祖父母に絵を描いたり、手紙を書いたり、プレゼントを買ったり、ご飯を食べに行ったり、敬老の日はいろんな思い出を作ってきたはずなのに、いま、4人いた祖父母が2人になって、2人ともが施設や病院にいて、外出届けすら出せないくらいになって、祖父のほうは差し入れも難しくて。となると、あれもしたかった、あそこにも行きたかった、そんな思いがいっぱいで、ここ数年、敬老の日をちょっと切ない思いで迎えています。

そして切ないといえば。。

父は地元の高齢者大学に行き、まだ足腰が元気な頃は、学年代表で弁論大会にも出たり、みんなとの遠足や旅行にも参加して頑張ってましたが、やはり押し車や車椅子が主となり、遠足や旅行にも参加したいと言ったものの、「家族(介護者)同伴でないと難しい」と返答されたんですね。
もちろん、父の遠足のために私や弟が仕事休むことも出来ないので、父には我慢してもらっていたのですが、そこから、父が高齢者大学を休むようになり、もう行きにくくなったんかなと思ってました。大学は送迎もあるので、車がなくなったことが原因ではないですし。

そしたら、「大学で過ごすときのお弁当がないから」という理由で、最近大学に行けてなかったことが判明したんです。

料理はするので、お弁当も以前は作ってましたが、今は、目も悪くなり、お弁当というものを作るのがしんどくなり、車もないので、買い物のガイドヘルパーさんや私と一緒でないと買い物もできず、学校に行く前に、賞味期限を気にしながらパンやお弁当を買うことが出来ない。

ちょっと不憫でした。
そこで、大学に行く3日前に実家に帰れた私は、少し日持ちする、ママカリ寿司を買い、大学に持っていくように言いました。
そしたら、ちゃんと大学に行き1日楽しく過ごしたそうで。

物事には全て理由があり、解決策もだいたいのものにはあるのを感じた出来事です。

写真の姫ひまわりは、実は父が見知らぬ女性からもらったもの。

ある日、ガイドヘルパーさんと、いつものスーパーで買い物をしてると、見知らぬご婦人から声をかけられ、「以前は奥様とお買い物されてましたよね、そして、お父様と来られてたときもありましたよね。」と。
仲睦まじく買い物する様子をそのご婦人は度々見られており、ただ、最近は父が車椅子に乗り、ガイドヘルパーさんと買い物するようになったのを見て、嫁や父がそばにいなくなったことを察してくださったようで、そのあと「お仏壇に供えてください」とこの花をくださったとのこと。

なんて心の優しい方なんでしょうか。
きっと、人のいたみがわかる、深みある人生を生きてこられたかたなんだろうなぁと思いながら、母の好きだった花瓶に入れ、仏壇の部屋に飾らせていただきました。

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そして、今回のブログ、ここまで書いてからもう少し書きたいけど後で。と思っていたら、、
病院に入院していた95歳の祖父が急死いたしました。

ブログの最初に「祖父と祖母、4人中2人生きてる」と書いたばかりですが、もう、母方の祖母一人になりました。

祖父はここ10年、入退院を繰り返し、その度に「危篤です」と病院や施設に呼ばれることもありましたが、会いに行くとピンピンしているということを繰り返していました。
わたしの地元では「ハブ」と呼ぶ、いわゆる毒蛇「まむし」に、数年前、畑仕事中にかまれたときも、これ以上被害者が出ぬようにと、持ってた草刈りカマでまむしを殺し、畑の近くのおうちまで行き、救急車呼んでもらって、自分で毒を吸い出したりしながら、病院についたときにも、ドクターに処置を指示したほどの強靭な心身を持つ祖父でしたので、100歳まで生きてくれるかな、父より祖父のほうが長生きしてくれそうだなとか、思ってたんですが。。

最後はあっけなく、でも、とても穏やかな表情で天に召されました。

しかも、宗派問わず言われる「1年で1番幸せな亡くなる日」とされている9月23日、お彼岸の中入りに。

1週間前に、わたしの従妹と叔母がそれぞれ行くと「今日、何日や」と聞いてきたそうなので、お彼岸の中入りを計算していたのかもしれません。

祖父への想いや、祖父の死、送る立場として学んだことを書くと、このブログがどんどん長くなってしまうので次回にさせていただきます。

そんな忘れられない9月を過ごした渡邉でした。

 

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遠隔介護ブログ(第20回)

こんにちは、コーディネーターの渡邉です。

お盆休み最終日、自宅で読書などしながら台風10号が行き過ぎるのを待ち、外出せずに待機しておりました。
昨年も自然災害が多く、今年もまだまだ台風もこれからが本格的になる時期だと思います。
大きな被害がないことを祈るばかりです。

そんな台風の最中に読んだ書籍「絶唱」はまさに、24年前に起きた阪神大震災がキーワードとなる物語です。

作者の湊かなえさんは、広島の因島出身で、現在は淡路島に住んでおられますが、大学は武庫川女子大学で、震災は西宮市で体験されております。

私も前職で広島県に住み、因島も仕事で度々訪れ、淡路島には親戚がいますので、年に1〜2回は遊びに行き、今は西宮市の武庫川女子大学の近くに住んでいるということで、湊かなえさんには勝手に親近感を覚え、出される本は全て読ませて頂いてます。

もちろん、湊かなえさんの話の構成がホントに大好きで、私の好きな小説家さんベスト3に入るのですが(1位は永久に向田邦子さん、2位が湊かなえさんで、3位が重松清さんです)、この絶唱は、「小説なのかな?湊かなえさんの実体験なのかな?」と、考えさせられる他の湊かなえさんの小説とは少し違うテイストでした。

その中に、阪神大震災のときのことを、「私はそのとき○○にいて〜」と語れるのは、境界線のもっと外側にいた人ばかりという言葉が出てきます。

確かに、今でこそ減りましたが、兵庫県に住んでいると、阪神大震災の話はどこでも話題に出る頃はありました。
私の住んでた地域は、壁もひび割れし、ガラスも割れ、怪我をする人はいたものの、身内や知人に亡くなる人や自宅の全壊などはありませんでした。ただ、本当の被災地、淡路島や神戸市の大きな被害を経験された方が積極的にその話をされることはありません。

境界線の中側、ど真ん中におられると、言葉では語れないしんどさや辛さがおありだったんだと思います。

私自身も、遠隔介護ブログをもう20回書かせていただいてますが、所詮「遠隔介護」であって、自宅で介護をしながら、生活をしているわけではないので、24時間、365日、介護と向き合ってらっしゃる方が、私のこのブログを読まれても、「介護のこと、何もわかってない」と思われると思います。

もし、自分が結婚を決めたときに今の父の状況で、自分が出ていくと父が一人暮らしになる、、という状況なら、結婚して家を離れることが出来たかと考えると、きっと出れていないと思います。かと言って、主人に、うちの実家に一緒に暮らしてもらって、そこから仕事に通ってほしいとはお願いも難しかったでしょうし、きっと結婚を諦めたような気がします。

あの時は末期がんで余命宣告された母に花嫁姿が見せたい、その一心でしたので、今とはまた状況が違います。

そんな事を考えるとこのブログ、これからも書いて大丈夫なんだろうか、、と考えてもしまいますが、このお盆休み、通常なら帰省しない月曜日に実家に帰省し、いつも月曜日に来てくださってる訪問介護のヘルパーさんとお会いできました。

とっても親しみやすく、そして笑顔の素敵な、一目でお人柄が良いとわかる好感のもてる方で、色々お話もお聞きし、お仕事を終えられて父の寝ているベッドまで行き、「また来週きますね〜今日はご家族がこられてていいですね〜」と声をかけてくださると、父は、すかさず手をのばし、ヘルパーさんに手を握ってもらい、「今は楽しいけど帰ったら寂しいから泣くねん」とかわいく訴えてる姿を見て、私が「セクハラやで」と言うと、父も笑ってました。

私がもし嫁に行かずここにいて、父の世話をしながら、仕事も実家から通勤する生活をしていたら、父はこのヘルパーさんにも出会えてないし、今のデイサービスにも行けてないし、お買い物のヘルパーさんとも会えてないし、私自身は今のこのワークステーションにも入社出来てないし、もちろん主人とも生活が出来てない、といういろんな「出会えなかったかもしれないものや人」の存在を思い、今の自分として書けることはこのブログに書いていきたいと、再度思い直すことが出来ました。

もちろんこれから父がもっと体が動かなくなればどうすべきなのか、そこはいつも考えます。
だからこそ、体がまだ動くうちに父にもいろんな人と、いろんな想い出を作ってもらいたいと思います。

娘がつきっきりじゃないからこそ出会える人たち、事柄をめいっぱい楽しんでもらいたいものです。

 

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遠隔介護ブログ(第19回)

こんにちは、コーディネーターの渡邉です。
遠隔介護ブログ19回。

今年はなかなか梅雨が始まりませんでしたが、始まるとほんとにジメジメが続きましたね。

我が家では、主人&お友だちと埼玉県までプロ野球の観戦に行ったり(ついでに東京観光もしたり)、甲子園球場で開かれたプロ野球のオールスターゲーム観戦したり、何かと「野球好き」にはたまらない1ヶ月を送っております。
が、母が末期がんとわかった12年前からなんとなく、先々の予定をうめることに不安がつきまといます。

家族になにかあると、この予定は行けなくなるんじゃないかな、、と。
それは自分も同じことで、この日まで、健康でいれるかなとか、けっこうマイナスなことをいっぱい考えてしまう癖がつきました。
うちの主人は、そのあたり「毎日一生懸命生きて、前向きに考えてたら案外なんとでもなる」と思う人なので、行けなくなればキャンセル、もしくは誰かに権利を譲れるならそうすれば良い、あかんかったら諦めよう、そのへんの割り切りが気持ちいいくらい出来ていて、羨ましいくらいです。
お子さんがおられる方もきっとそうですよね。
何か大事な予定があるときに限って子供が熱を出す。。とよくお聞きします。
でもそういう「行けないかもしれない事態」を予想し怖がっていたら、ずっと自分の「欲求」が満たされないままになっちゃいますよね。危険度予測は大切ですが、何か起こったときになんとかする力を養うことはもっと大切なのかもしれません。

この12年、先々のいろんな予定がうまることに怯えていた私に、1番大きな出来事だったのは、いま勤めている会社、このワークステーションに入社し、まる1年で迎えた研修旅行でした。
3泊5日の旅行。
その頃はまだ祖父も施設に入らず、家にいましたので、父と祖父の2人暮らし。
喧嘩をするたびに電話が鳴ります。父が怒ると、祖父が、勝手口のところで頭を打って倒れたふりをして救急車で運ばれたこともありました。(実際、ふりだったのか、本当に倒れてたのかは未だに謎です)

今まで夫婦の旅行で、1泊くらい家をあけることがあっても、5日間もインターネットを接続してない父と連絡をとれないという日を経験したことがなく、最初は「私が家をあけていいんだろうか」とほんとに悩みました。
よく考えたら、日頃離れて暮らしてるんだから大したことはないんですが。
以前、母がまだ病気になる前、私が結婚する前、両親と私と弟と4人で行こうとしていた旅行の、直前に祖父が脳梗塞で倒れ入院し、重度ではなかったものの、たった1泊中でも、もし何かあったらあかんからと、旅行をキャンセルした(キャンセル代も半額くらいは払う時期にまできてました)ことを思い出し、ほんまに何かあったらなぁ、身動きとれへんしなぁと思ってました。
でも、高齢者の親族と向き合う時間はいつ終わりがくるかもみえず、何年その状況が続くかもわからない。それこそ状況が良くなることより、しんどくなることのほうが大いにありえる。
なら、旅行で家をあけれない理由に、祖父や父の暮らしをあげるのではなく、2人がいたときでも家をあけれるようにするにはどうすればいいか。
これは必要にかられたときに、その都度、考えていくことが自分の余分なストレスを減らすためにも大事なんだろうなぁと考えることが出来ました。
実際はなんの問題もなかったですが。
要介護のお身内がおられる方々も、ショートステイなども利用しながら、ちょっと介護を忘れて自分のために自分の時間を使うリフレッシュって、すごく大事なことなんだろうなぁと思います。
家族と向き合える日と、ちょっと一人になりたい日。
ちょっと心を弾けさせたい日。
地域の福祉サービスで何か利用できるものがあるなら利用していくのも、経験値にもなりますし、家族みんなの心身の負担を軽くするために必要なことかもしれませんね。

この遠隔介護ブログでも、地域への相談、ケアマネさんとの連携、福祉サービスの利用などいろいろ提案させていただいてますが、1年半、書かせていただいてても私にも先に進んでない問題、いつも頭の片隅にあるのに動けていないことがあります。
それは、空き家問題です。
いろんなかたにアドバイスいただいてもあと一歩の勇気や具体的な行動ができてません。
空き家問題を抱える方も非常に多いと思いますので、またなにか私が動けた際には報告させていただきたいと思ってます。

写真は埼玉の所沢、西武ドームに行ったときのもの。
グランドに書いてある言葉が心に響きすぎて撮影したものです。
「あれもこれも叶う、西武鉄道。」
私は、甲子園球場近くに住んでますのでよく甲子園球場には行きますが、たしかに、たった1回行った西武ドームで野球好きの私が叶えたい「あれもこれも」は叶いました。
8歳のときから35年憧れていた西武ライオンズの本拠地に立てたこと。
1番の願いが叶った思い出の日の1枚です。

 

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遠隔介護ブログ(第18回)

こんにちは。コーディネーター渡邉です。
遠隔介護ブログ第18回。

今回のテーマは「かわいい嘘、許せる嘘」です。

人は時として、相手のために嘘をつかないといけないときもある。私は常々そう考え、一生、嘘をつかずに生き通せる人なんていないと思います。

私自身の忘れられない嘘は、大学時代。
友だちが一目惚れした男性がいまして。挨拶するくらいの仲にはなったんですが、なかなか告白出来ないし、デートにすら誘えない。
私はその男性とちょこちょこ話せる仲だったので、彼女がいないこともわかっていて、なんとかならないかなぁと考え、その告白出来ない友だちは、やさしいし面白いし賢いし可愛らしいし、絶対オススメの女性だと思ったので、その友だちに「こないだ○○君(その好きな男性)が、あんたのこと、可愛いなぁゆうてたで。いけると思うで」と、その男性がゆうてもないことを言ってしまいました。
でもその一言で彼女はデートに誘う事を決意、そこから、数年後。
2人は結婚し、今はお子さんたちもすくすく育ちとっても幸せそうにやってます。

これは、とりあえず、成功の嘘。

でもやっぱりちょっと罪悪感はあり、本人達には話してませんが忘れられない嘘です。

 

前置きが長くなりましたが、この遠隔介護ブログの主役である私の父は、こんな嘘が多いのです。
人のためというより、自分のための都合あわせの嘘。

でも、よくお年寄りとお話してると、自分の都合のいいように過去の思い出話をすり替えるというか、記憶ごと変えてしまってるなぁと、それは認知症というのではなく、人に語りやすいように美しいように思い出話を替えられて、何度でも聞かされるなぁということありませんか?
父は日常茶飯事。

例えば先日、私が平日に休日出勤の振替休日をいただき、実家の平日しか出来ない用事を片付けに帰ったときのこと。
その日、父はデイサービスの日だったんですが、自分が私と買い物に行きたいからとデイサービスに休むと電話したんです。ケアマネさんからは「お父さん、デイサービスに来られてるほうが、めぐみさん掃除とか用事しやすくないですか?大丈夫ですか?」と私の状況までわかってお電話くださったんですが、本人がもう買い物に行く気でいるのでしょうがないですね、となりました。

でも、デイに預けてる薬、休むならその日の分は取りに行かないといけなくて、父に会う前にデイサービスに行きました。
電話をくださったケアマネさんではなく、デイの所長さんとお話すると「娘がデイ休めゆうねん、自分が帰る日はお父さんにおってほしいゆうて、せやから休むわ」と、朝から父が電話で話したとか。

なんという嘘。。自分の気持ちじゃなく私のせいにしてます。そのうえ、前日、デイから近所のショッピングモールにお買い物に連れてってもらう遠足のようなものがあり、介護職さんにつきあってもらいながら、服買いたいと言ってたのに、介護職さんから「服はめぐみさんに選んでもらい、今日は食料品買おう」て言われたから服買ってへんねん、だから今日行きたいと買い物を私にねだってきたのに、所長さんいわく、実際は、何回も介護職さんが「服みーひんの?」と聞いても「娘と見るから今日は食料品買いたい」と自分が言ったそう。。

全く逆です。

ただよくよく聞くと、父以外の利用者さんがみんな、食料品に行くと言われてたそうで、おそらく寂しかったのか、もしくはほんとに私と服を見たくなったのか、真意は定かではありませんが、これもほんとに両方にうまいことついたつもりの嘘が翌日にばれるという事態。

身体に色々不自由がきているのに一人暮らしというしんどさもある中、誰にどう伝えれば自分が少しでも快適に思い通りに過ごせるか考えてこその、口から出た嘘だと思うので、所長さんとも「手かかるけど、一人で頑張って暮らしてるからなんにも言えないです。」と話させてもらいました。

子供もよくちっちゃな嘘ってつきますよね。
でも、誰かを陥れたり、誰かにおっきな迷惑をかけるものでなければ、怒らず騒がず、聞き流すということは、自分の心も穏やかにしてくれると母が亡くなってから、父と密にコミュニケーションとるようになって学びました。何が本当でも、別に今の状況が大幅にかわることもないですもんね。

でも、身内はいいですが、あんまり外でこんなちっちゃな嘘ばかり言ってると、いざというとき信用してもらえないと思うので、いくら自分をかまってほしいための嘘でも、つきすぎたらあかんよとさらっとは父に言っておかねばと思います。

そんなこんなの父の日もあった6月。

 

先月末に、私は以前からファンクラブに入っているサザンオールスターズのコンサートに行ってきました。
今までも行ってますがメンバーの皆さんのご年齢を考えると、15年くらい前から「これが最後かな、今回が最後かな」と毎回ドキドキするんです。
実際、11年前の横浜まで行ったコンサートは、とうぶん活動自体休みますと言われてたし、そのあと、ボーカルの桑田佳祐さんも大病されていたので、ほんとにもうコンサートはないのかもと思ってました。
が、65才を越えたメンバーの方々で作り出されるステージ、今回は3時間半以上もあり、エネルギッシュでしかも、桑田さんは1曲1曲歌い終えるごとに「ありがとう」とお辞儀しながら何回も言われるのです。
桑田さんもまたファンにコンサートで会えること、きっと大病もされ復活されたから余計にありがたいと思ってくださってるんだなぁと思いまして。
そして、コンサートラストには「また絶対会おうね」と言ってくれました。
お歳を考えてもその言葉がとても嬉しくて。

私の母は、氷川きよしさんのファンで、毎年コンサートに友人たちと行ってまして、亡くなる年も、チケットとってとても楽しみにしてたんですが、待ちに待ったコンサートの前日に、肺ガンで亡くなりました。母の友人たちは、母の写真を持って、当日、氷川きよしさんの歌声を全部聞いてきてくださいました。

そしてその友人たちは今も毎年、氷川きよしさんのコンサートに行き、そのチケットは母が生きてたときと同じく私がインターネットで申し込みします。
私は行きませんが、それを続けさせてもらうことで、母がいつまでもその方々と一緒に氷川さんの歌を聞けているような気持ちになります。

そんな母の切ない想い出や、つんくさんがもう歌えない状況になられたことなどから、自分が10代や20代のときには考えたこともなかった、

「コンサートに行けるのは当たり前ではない」「コンサートを開催してもらえるのも当たり前なことではない」ことを思い知りました。

だからこそ余計に今回、自分が元気でサザンオールスターズのコンサートの日を迎えられたこと、サザンオールスターズがまたコンサートをすると言ってくれたことなどに、とても感謝し、生きているこの1日1日を大切にせねばと思えました。

母の氷川さんコンサート友だちは、何かといまだにうちの家族を気遣い、5月には毎年、私の名前と同じトマトをたくさん送ってくださいます。
母から戴いた大切なご縁だと思ってます。

小さな嘘を自分の都合よく、さらっと言っちゃう父でも生きてくれてるだけでありがたい、そう思えるように。
ガミガミ言わないように、ガミガミ言いそうになったら私をこの世に存在させてくれてありがとうと感謝に置き換えて、穏やかに過ごしたいなぁと改めて思いました。

 

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遠隔介護ブログ(第17回)

こんにちは。コーディネーターの渡邉です。
遠隔介護ブログ17回目を書かせていただきます。

平成から令和へ。
弊社も10連休をいただきました。
連休後の仕事量を考えるとおそろしいと思いつつも10連休、1回だけ休息日を作った以外は全て外出をしました。
もちろんその中には、いつもどおりの私の実家への帰省と、主人の実家への帰省もあります。

私の実家への帰省は2回しました。
1回目は祖父の姉の50回忌の法要もかねてなので、50回忌ということもあり、そんなに大々的なものではなく、ほんとのほんとの身内だけ集まりお寺さんに来ていただき、お経をいただくというもの。
それでも掃除はいつも以上に念入りに行ったのでバタバタしましたが、、
主人にも手伝ってもらい無事に法要を終えました。

2回目の帰省は、わたし一人での帰省で、いつもどおりの掃除と、この時期ならでは、庭に除草剤を撒き、家中の虫除けを取り替え、ゴキブリ退治の薬を撒き、あれこれやっても、ムカデが出てきて「あ~ムカデ除けも買うべきだった」と落ち込み、、心底「都会に生まれたかった」と思いながらの作業をしました。

その日の夜には、地元の同級生と集まる予定だったのですが、地元の同級生たちは、けっこうな割合で、この時期は田んぼの用事(苗の世話や田んぼの整備など)を昼間手伝っているので、その後で来るという友人もいました。

わたしも、うちの母、祖母、祖父が元気だった頃は、もちろん田植えも稲刈りもありましたので、全部手伝っていました。
だからか、蛭も蛙もいまだにあんまり苦手ではないですが、やっぱり手伝いながらも「おっきなビルで働くサラリーマンのおうちに生まれたかった」と思っていたものでした。

田んぼ仕事をしなくなった今となれば、それも懐かしく良い思い出で、あの頃は家族みんなでおにぎり食べながら作業して幸せだったんだなぁと振り返る1コマでもありますが。

そんな、田舎ならではの夏に近づく虫たちの洗礼をうけながらのゴールデンウィークの帰省の中ですが、「田舎だから良かった、ありがたかった」というエピソードがいくつかありました。

父が免許返納になってから、買い物の介助(車の送迎も含め)をお願いしている業者さんが、ゴールデンウィークはお休みだったので、週に1回の買い物が父は出来ず、私が帰省するのを待っての買い物となったので、お店を3件はしごして買うわ買うわ、あれもこれもという状況だったのです。
わたしも、「そんなに要らないんじゃないか」と思いつつも、父の1週間分なので不安なのはわかるし口出し出来ないなぁと思っていると、お店の店員さんや、たまたま居合わせたお世話になっているケアマネさんや、常連のほかのお客さんたちに「保っちゃん(うちの父のニックネーム)、あんまり買い過ぎたらあかんで、それ、やめとき。」と言ってもらったり、「今日は娘さんとなんやなぁ、よかったなぁ」と声かけてもらったり。

靴を脱がないと入れない店では、父が店先で「こんにちは」と言うだけで、店員さんがさっと出てきて、車椅子のタイヤを拭いてくださってすっと入店できたり、ちゃんと地域で「顔馴染み」として自分が過ごしやすいように環境を作っていってる父の強さと、それを受け入れてくださってるまわりの方々の温かさを感じました。

また、この時期、実家ではかなり沢山の筍がとれるのですが、父はもう山に行けないので私の弟や父の弟が山に入り沢山採ってきて、父にも沢山置いて帰ってくれたのですが、父だけでは食べ切れないし、冷蔵庫や冷凍庫にも入りきらず、周辺に配るというのも、父としては自分の足では行けず、、どうしようと悩んでいたら、近所のおばさんが遊びに来てくれて、押し車で一緒にご近所に配りに回ってくださったとのこと。
本当に地域の方々のさりげない優しさに感謝するばかりです。

私はというと、私にはアク抜きする時間もないだろうということで、父がアク抜きまでして筍用意してくれてたのに「なかなか料理する時間がない」と父の優しさにそっけない言葉で返し筍の受け取りを拒否してしまいました。

道端に咲く花を見れば、父はすぐ花と自分の写真を撮ってほしいと言います。
車椅子を花の邪魔にならない角度に動かして撮影をしてとなると、なんとなくめんどくさくて「こんなどこでも咲いとる花の写真要るか?」と暴言を吐いてしまうこともあります。
それでも父は諦めず、撮影してほしいと言います。
邪魔くさいとブツブツ言いながら撮影をする私ですが、頭ではわかってます。
父は何も悪くなくて、自分の心がとても狭くなってるだけなんだと。

優しい祖母がいて、祖父も元気で父も母も元気で働いていて、みんなで土日に田んぼの仕事して、私や弟はのびのび学校行ったり、友だちと遊んだり出来てる頃にはわからなかった、少しずつのちょっとした不便。
自分の「のびのび」は、家族の支えのもと成り立っていたということを思い知る毎日です。

街中で、子供に怒鳴っちゃってるお母さん、親御さんらしいお年寄りと歩きながら、偉そうに注意してる中年の方などを見ると、昔は「(子供やおばあさん、おじいさんが)かわいそう」と思ってましたが、今は、「あのお母さん、よっぽど子育てしんどいんやろなぁ、孤独なんやろなぁ」「あのおじさん(おばさん)、親の世話に疲れてるんやろなぁ」と、目線がかわるようになりました。

私は、会社でもこのようにブログに書かせていただいたりもしてますし、公私ともにまわりの方に聞いていただいたり弱音吐いたり、主人や親戚にも協力してもらって、ケアマネさんやヘルパーさんたちにも助けてもらって、どっぷり介護ではなく、遠隔介護が出来てます。それでもやっぱり、思ってはいけないけど「父がいなければ、いや、施設に入れられたら」と思ってしまうようなこともあります。

反面、一人暮らしさせてごめんなさい、もっと頻繁に帰れなくてごめんなさいと、心底ずっと思ってます。

街中で、お子さんを怒鳴ってるお母さんも、自分の年老いた親御さんに暴言吐いてるひとも、思うようにお世話してあげられない自分へのイライラが、相手へのちょっとしたイライラもまじり醜態に出てしまってるんだなぁと、手をあげてない限りは私もここ数年、悪態づいてるほうの人に同情するようになりました。
もちろん虐待とは違うと思います。

 

父も祖父の介護を自宅でしているときは、「これ以上一緒にいたら、虐待してしまう」と私達に相談してきて、祖父も「息子が怖くなってきた」とつぶやくようになり、施設入居に至りました。
でもやっぱり、父もほんとは祖父と一緒に暮らしたいようで、「おじいちゃんに申し訳ない」とずっと言ってます。

うちの実家にそういう思いが何パターンもあるように各家庭に、介護であれ、子育てであれ、理想と現実の違いも含め、様々なドラマがあるのだと思います。

そういう切なさややるせなさ、どちらの立場になっても、相談できる人がいるかどうか、正論を押し付けるのではなく、何がベストかを一緒に考えてくれる人がいるかどうかで、家庭の中の大小かかわらず問題の結末も違ってくるのだと、「困りごとはすぐに誰かに相談」と考え生きてきた私は思います。

そして、「困りごとはすぐ誰かに相談」してきた私が、経験して乗り越えたこと、乗り越えられなかったことも全部、自分が誰かに相談されたときに、最適で最善を一緒に考えていける人間にならないといけないなぁと思います。

 

令和になり数日、次は、消費税アップに向け、どんな準備が必要か、友人たちと集まると度々そのような話題にもなります。
「ニコニコ現金払い」が大好きでキャッシュレスについて考えてこなかったのですが、いよいよそうも言ってられない状況になりました。こんなときも、キャッシュレスをうまく活用してる友人たちの話を聞きながら、自分に取り入れ、最善の方法で新しい時代を生き抜いていかないとならないなぁと思う令和元年5月です。

写真は、今年3月に尼崎に誕生した尼崎城です。
昔あったお城の再現をある大手企業の創業者さんが多額の寄付をして創られ、それに賛同する尼崎の方々や、市も全面的にバックアップし、尼崎が「尼ジョーのある街」として、より一層活気ある街になっています。
私はお隣の西宮に住んでますので、友人たちと1回、主人と1回、ゴールデンウィークに行ってきました。
お城という歴史あるものが、こないだできたものというアンバランスを絶妙に楽しめる素敵な施設でしたよ♪オススメです!

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