なべめぐのドすっぴんブログ(第4回)

こんにちは。
コーディネーターの渡邉です。

前回、このドすっぴんブログで、思いがけない手術と入院生活について書かせていただきました。

あのブログは入院中に書きました。

今回は、その後退院してから自分にふりかかった意外なことを書かせていただきます。少し、もちろん入院生活にもふれます。

耳下前部に出来た脂肪腫切除、3センチちょっとの大きさなので、たいした手術ではないため、手術の翌日からは、頭もすっきりし、食欲もあり、痛みもほぼなく元気に過ごせました。
点滴も翌日にはとれ、抜糸も翌日でした。

ただ、苦労したのは、夜に寝れないこと。
手術の日は麻酔のしんどさもあり、そこそこ寝れたものの、
翌日は、早朝まで寝れず、そうなると「昼間に寝るから夜寝れなくなる」と、昼間はなにもすることないのに必死で起きていたものの、それでも夜が寝れない。
その翌日もまた、昼間は寝ない、なのに夜は寝れないという状況で退院。

私は、主人もびっくりするくらい、寝るとなったら寝落ちまでのスピードが早いので、そんなことになると思ってなくて、寝れない夜の過ごし方にも慣れておらず、寝れる音楽、朗読、画像、動画、色々検索するも寝れずで、
やはり夜中は良いことは考えないので、どんどん心がしんどくなりました。

なにを考えたか。。
まわりのおばあさんたちの、コロナ禍だからこその家族に面会出来ない孤独からくる、
「帰りたい帰りたい、死にたい」
の訴えを昼間も夜中も聞いていると、(それを都度対応される看護師さんの対応力にも脱帽しました。)
わたしもいずれ歳を取り、おばあさんたちのようになったとき、私には子供がいないし、主人も16歳も上なので、コロナ禍じゃなくても誰にも会うこともなく、入院せずとも孤独と闘う日がくるんだろうかとか、
いや、普段は友だちがいても、親族がいても、入院したら、施設とかに入ったら、やっぱり孤独なんじゃないかとか、
母も最期、私のことを毎日病室に呼んでたし、父もサ高住に入居してから、帰りたい帰りたい、死にたいと言い出したし、
祖父も老健や療養病棟で、もう死にたいとよく言ってたなぁと考えると、
あ〜わたしは、その孤独をちゃんと理解してあげてなかったなぁと、どうしようもなく心がギュッとなったりしました。

でも退院すればその気持ちも晴れる、とりあえず今はこの病室の雰囲気にもっていかれてるんやと考えていたのですが、
そして、退院した初日は、たまった録画観たり、下着洗濯したり、久々料理したりで楽しく過ごし、翌日は普通に出勤するので、それにそなえました。

まわりの人達からは、身体のために翌日くらい休んだら?と言われたものの、開腹手術でもないし、耳の前だけの傷だしと思い、休んでると仕事も気になるので、あたしってやっぱり社畜やなとか思いながら出勤を決意。

そして、退院翌日の朝、6日ぶりの出勤の朝、6時すぎに起きたらいいのに5時に目覚めてしまい、しかも泣きながら目覚め、寝れなくなり、主人を起こし、嗚咽。

仕事に行くのが嫌だからでもなく、痛みからでもなく、ただただ、孤独が怖い、お母さん、お父さん、おじいちゃん、おばあちゃん、そして、先日亡くなったお義母さんにも孤独な思いさせてた、申し訳なかったと、止まらない恐怖と反省で泣きじゃくり、泣きながら「あ〜あたし完全に壊れた」と思ったのです。

愚痴や反省や涙は日々多いものの、けっこうしんどいときでも心は壊れなかった(主人や家族をはじめ、温かいまわりの皆さんのおかげでありますが)ので、自分でも意外でした。

でも泣きながら、若い頃、失恋したときとかは、夜より朝に泣いてたなぁとか思いだしたりもしてましたが、その孤独とはまた別格でした。

15年前に疲労でたおれ、入院したことがあります。ちょうどお盆休みの前日に入院したので、主人が毎日昼間は病室にいてくれましたし、友人たちもお見舞いにきてくれました。

でも今回はずっと1人。
この違いってすごい大きいんやなぁ、、と思いました。

義母の葬儀のときに、コロナで亡くなる方と、コロナ禍でコロナ以外の死者も増えて、葬儀場も斎場も予約がとれないと聞いてましたが、
孤独から病気が悪化することもあるんだろうなぁと、泣きながら考えました。

結局泣き止み、出勤。
温かい職場の仲間に色々声掛けいただき、すぐに朝の涙も忘れられるくらい笑いながら仕事をやりきりました。
定時で帰ろうと思ってましたが、あれよあれよと2時間近く残業。
それでも、ご登録の看護師さんたちとメールやお電話させていただくことや、同僚と話が出来ることが楽しくて、全く疲れもなく、逆に元気をもらって帰りました。
仕事が最高の心の薬になりました。

もちろん、沢山の方々が仕事が毒になり、心が疲れてらっしゃる世の中の状況もあります。
ですので、今回の私の体験が全ての方々に適用されるとは思えません。

でも、「孤独じゃない」と思うことで心が救えることがある、
「居場所は誰にでもある」がわかることで心が楽になる、
きっとそれはある程度共通することではないかなぁと思ってます。

昔から、自分が一人ぼっちが苦手なのでということと、
小学生のときに一人でいる同級生に、誰もが声かけてなくても私が声掛けしないと担任の先生に呼び出されて「お前は声かけろ」(←※昭和の喋り方ですね)と言われてきたこともあり、
出来るだけ自分も寂しくないようにですが、まわりをみての声かけは大事にしてきたつもりなのですが、
今回の退院後、そこは余計に意識するようになり、
もちろん、後輩さんたちは、「今話しかけられても」と思うかもしれないのですが、
やたら、仕事中も、世間話をふっかけるようになってると思います。

それがなんの効力もなくても、昭和なやりかたかもやけど、コミュニケーションは百利あっても一害無しと信じて。

社会人歴浅い頃、とっても話しかけやすい12歳年上のお姉さまがおられました。
私は営業で、そのかたは事務さんでした。
営業ってなかなかベテラン事務さんに依頼がしにくいタイミングとかもあるのですが、そのかたはほんとにいつも笑顔で、気さくで、かと言って「優しすぎるから気使う」ということはなく、誰にでも平等に、あかんものはあかんと言われる人でした。
なので、なんでも相談が出来ました。あかんことはあかん言うてくれはりました。
あんなベテランさんになりたいな、と、ずっと思ってました。

自分はまだまだそこまでなれてないけど、自分の子供であってもおかしくない年齢の人たちとも働くようになった今、遠慮なくなんでも聞ける存在に、ちょっとでもなれるように、この入院で覚えた、孤独は怖いという経験ももとに、また人見知りの自分も、奮起して明るく生きていけたらなぁと思います。

そんなことを考える退院後の初の休日。

大好きな甲子園球場を観ながらランチと読書で、自分への快気祝いを楽しんでます。


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なべめぐのドすっぴんブログ(第3回)

こんにちは。
コーディネーターの渡邉です。

なべめぐのドすっぴんブログ。
いま、ドすっぴん3日目で書いてます。

というのも。
昨年の春くらいから、というか、いつ気づいたかももう不明なのですが、
右耳の前あたり、右顎のうえあたりに、ちっちゃいしこりができてまして、それがどんどん大きくなって、これは、ヤバいかもと思い、内科の主治医に相談したら、すぐに耳鼻科に行くようにと言われ、耳鼻科受診。
顔の動きははっきりしてるから悪性ではないと思うけど、、念の為と、総合病院を紹介され、ちょうど前回書いた、義母の告別式の翌日に総合病院受診。

細胞診やMRIなどもうけ、99%良性ではあるが、置いとくとけっこう大きくなるので、切除したほうが良いと。

3月は仕事も忙しいので、4月中旬に、ということに。

私は、10代の頃にも、首と、膝に、良性の脂肪腫が出来たので、そのときは、どちらも10分くらいの日帰りオペだったので、今回もそのくらいの軽い気持ちでいたのですが、
なんとなんと、全身麻酔での手術、4泊5日の入院と聞き、おったまげました。

全身麻酔てのも、ピンときてなくて、大腸ファイバーのときも眠ったしなぁとか、流産手術のときも、眠ったしなぁとか思ってましたが、全然違うと知り、全然麻酔で起きるかもしれない副作用を聞かされるだけで気が遠くなりました。

でも、もう、切除はしたい。

そこから、社内の、全身麻酔経験者に色々話を聞きました。1人、2人、聴いてるうちに、私もやったよ、私も経験ありますよと、けっこうな人数が経験していて、詳しく教えてくれて。

それ以外にも、私が担当させていただいている派遣看護師さんにも相談したり、プライベートの友達にも相談したり、オペ自体より、全身麻酔のことで頭でっかちになって、当日を迎えました。

いざ入院となると、人生二回目の入院ではあるのですが、前回はまだこの仕事に就く前だったのと、疲労で倒れての入院で、最初の記憶がないので、
今回のように元気なまま、頭はっきりしてるままの入院は初で、
「いっぱい看護師さんの動き見て、勉強して帰ろう」
と心に決めました。

まず、担当看護師さんたちの丁寧なご挨拶や、点滴のルート確保も私はなかなか大変な腕らしく、2回失敗されましたが、焦らず丁寧に気遣いされながら痛くないようにしてくださったり、そこだけで大感動。

そのあと、オペ室に入ると(あっ、このくらいのオペなら歩いて入るんやと、ちょっとおもしろくなりましたが)笑顔でスタッフのみなさんが挨拶してくださり、そこでもオペ担当看護師さんが名乗ってくださり、丁寧なご挨拶あり、

そしてベッドに横になり、いよいよ全身麻酔やとびびってるとき、ベテラン風の看護師さんがずっと手握って、腕さすってくれ、その手のひらがむちゃくちゃ温かくて、安心できる手だったことに感動。
それだけでこの方の仕事への年輪を感じました。患者さんがなにを求めてるかを知ってる手。
素晴らしいなぁと感動してるうちに眠りにつき、あっというまに終わってました。

この経験、ほんまに無駄やないと思いました。

その後、病室に帰ったら、やはり麻酔後の頭痛になやまされ、夕食も3口くらいしか食べれませんでしたが、翌日は頭痛も治り、微熱だけで元気に過ごし、抜糸も終わり。
病室にもオペ担当看護師さんが来てくださり
「お顔拝見したくて〜、どうですか、痛くないですか?」
と。

オペの看護師さんが病室まで来てくださるなんてとこれまた感動。

薬剤師さんも優しく丁寧で、お薬をしっかり説明してくださったり、ほんとに至れりつくせりで、なんの不安もなく入院生活も3日目です。
なので、
ドすっぴん3日目です。

病室は私以外、高齢で、腸瘻とかされてたりして皆さん重症ぽく、ご飯食べたらあかん言われたと嘆いてたり、早く帰りたいと泣いてたり、みんな大変な思いして生きてらっしゃいます。

私だけ、ご飯完食して、歩きまわって、自由で、なんか申し訳ないと思いつつ、こんな時代も送られたであろう人生の先輩たちに、早く皆さんがよくなられますようにと、祈るしかないと思います。

コロナ禍だから誰とも面会もできないけど、抜糸も出来たから両耳でイヤホンつけてテレビも見れるし、本もたくさん読めます。

仕事も、会社のみんなの協力で心配なく進んでるし、ほんまに感謝しかない日々です。

看護師さんにお仕事を紹介しながら、こんなにも中から看護師さんのお仕事をじっくり見させていただくのは初めてで、すべてが感動の嵐。

夜中は、ずっとナースコールが鳴ってます。
夜勤、何人体制なのかなぁと考えながら、動きを観察してると、昨夜は2時間くらいしか寝れませんでした。

潜入体験みたいな日々です。
貴重な時間です。

写真は、私が入院生活のために買った本。

若い頃は興味のなかったロイヤルファミリーの内情が、この歳になると、、
というか、弊社顧問の楠本や、先日亡くなった義母の影響でとっても興味あるものになり、この本も2日くらいかかるかと思いきや、3時間で読み切りました。
とっても読み応えがありました。

いつの世も、平和のために、世界中の様々なお立場の方々が奮闘されてます。
今の世の中の不安も、誰がどうすれば落ち着くのかはわかりませんが、一人ひとりが平和を願う気持ちが世界を動かすと信じるばかりです。


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なべめぐのドすっぴんブログ(第2回)

こんにちは。
コーディネーターの渡邉です。

春が来ました。
コロナ禍前の夏の高校野球以来、2年半振りに春の選抜高校野球を観戦に行ってきました。

せっかく地域代表として選抜された高校も、チーム内のコロナ感染で出場辞退もあり、
もちろん、高校野球だけではないですが、
オリンピックもパラリンピックも、どんなスポーツも、どんな行事も
目に見えないウィルスに邪魔されてしまうこんな日々、
誰のせいでもないですが、辛いものだなぁと思います。

昨年父を亡くした私は
今年、先月、義母を亡くしました。
コロナ禍で、感染による死ではないものの2人の親を見送ることになり、
コロナ禍前とコロナ禍だけではなく、
昨年と今年、郊外と大阪市内での違いを痛感することがありました。

それは、
「大阪市内、府内、
コロナだけではなく、医療の逼迫で救える命も救えなくなり、死亡者が増え、葬儀が増え、火葬場の予約がとれない」
という事態でした。

その件には後ほどふれさせていただくこととしますが、少し義母のことを書かせていただきたいです。

私は15年前に結婚しました。
母がそのときもう、末期がんとわかっていたのですが、私が結婚して2年で亡くなりました。
生前の母から義母に送った年賀状に「娘のことを宜しくお願いします」と書かれていたのが今でも忘れられません。

その言葉どおり、というか、義母の根からの優しさ、人としての器の大きさ、経験値の深さで、私は義母と出会い、娘にならせてもらってから15年、義母のことを尊敬しかない日々を送らせてもらいました。

長男の嫁としての立場の私なのに、わたしの実家の用事が私には多いことをわかってくれてらっしゃったので、会えばいつも、わたしの実家のことを心配し、優先するように促してくれました。

最初はやはり「姑」ということで、気を使うことも心得てた私でしたが、気づいた頃にはもう、なんでも話せる、今のお母さんとして、母を亡くしてからも、もちろん寂しいことはありましたが、苦しいときも相談できる相手、義母がいたことで乗り越えられたことも多かったです。

1回だけ妊娠して流産したときも、泣きながら電話で報告したら
「2人の赤ちゃんが1回でも出来てたんやということを誇りに生きていけるじゃない」
と優しく明るい声で返してくれました。
その言葉も今でも忘れられません。

義母とは、大相撲が好きということや、ロイヤルファミリーの話や、大河ドラマや朝ドラの話や、いっぱい世間話もつきることなくいろんな話をしました。
宝塚歌劇団にも以前、お友達もたくさんおられたので、宝塚歌劇の話もたくさんうかがいました。

義母と買い物に行ってもいつしか、実の息子の主人よりも、私のほうが義母がいま何が欲しくて、種類はどれを好んでて、などもわかるようになってましたし、家のどこになにがあるかも、わかるようになってました。
それが私の誇りでもありました。

コロナ禍になってから義母が、死ぬなら今のほうが、葬式もあんたらが楽でええやろなぁと、よく話すようになりましたが、一人暮らしで、なんでも自分でして、特に大きな病気も抱えずという状況なので、その言葉を冗談のように受け流してましたが、突然の別れがきました。

状況はほんとに「ピンコロ」でした。
義母がそうなったらいいなぁと話していた、ピンピンころり、
朝は買い物に行き、食べたいお菓子も買い、
買い物から帰ってきて、玄関で戸締まりもして靴を脱いだときくらいに倒れた感じの最期でした。

家族はもちろん突然のことで悲しみが止まりませんでしたし、
自宅での死なので、警察も来たりで
義母が自宅にもう一度戻るまでは少し時間がかかりましたが

そこから、火葬場の予約まで通常は亡くなった翌日か翌々日にお通夜、その翌日が告別式という3日、4日で終わることが
まるまる一週間後でないと火葬場がおさえられないという状況、それでもまだ早い方と言われた事態で、コロナ禍で報道されていること以外にも、沢山の異常事態があることを思い知らされました。
大阪府は大変だと他の地域のかたからも言われる状況がよく理解できました。

ただ、突然の別れだっただけに、家族には、最期のお別れまでの時間が予想以上にもうけられたことに、心を落ち着ける時間にもなり、
今となってはこれもお義母さんがくれたプレゼントタイムだなぁと思いました。

2022年になってから社内でも親族の不幸ごとが続いてますが、やはり、人口の多い地域での不幸ごとほど、火葬場の予約が出来ない、葬儀場もあいてないということを聞いてます。

普通のことが普通ではない日々の経験、あまりしたくない経験ではありますが、
医療の逼迫という状況がもたらすこと、その医療現場におられる方々の報道される以上の大変さを感じたこのことを忘れることなく、
自分の仕事も、その現場に少しでも役立てるように頑張ることができる仕事なので、日々再度精進していきたいと考えます。

来年の春の選抜高校野球の頃には選手のPCR検査自体が不要な日々となっていることを祈って。
ますます感染対策を怠らないようにしていきたいです。

そして、義母が、私にしてくれたように、常に相手の立場を尊重出来るような人間に、
今経験していることを生かしていきたいと思いました。


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なべめぐのドすっぴんブログ(第1回)

こんにちは。
コーディネーターの渡邉です。

昨年、父が亡くなるまで書かせていただいていた
遠隔介護ブログから転じて、
働く女の(ジェンダーレスの現代では、女に限るのはよくないのかもですが)
苦労や本音、面白さ、を本音で書かせていただいて、
私生活と仕事の両立に、疲れてるなぁと思われるかたがたに少しでも癒やしと
「みんな一緒やな、ほな、なんとか生きていけるかな」
と思っていただけたらと思い始めたブログです。

タイトルにもがきましたが、ドすっぴんブログにします。
寝起きの顔洗う前のレベルで外に出るくらい、なんでもさらけ出しちゃおうと思います。
会社がNG出さない限り。

私は遠隔介護ブログを書かせていただいていたものの、じゃあ、父や祖父の下の世話までしてたのか、毎日なにかしてたのかというと、介護保険のサービスを駆使してましたので、やっていたのは
日々の電話での状況確認と、週末の掃除(それも帰れない日もありましたし)
くらいがほぼでした。

なので、そんなのはただの日常だと思われるかたも多いと思うのです。
しかも私は、30歳まではほんとに自由すぎるくらい自由でした。

いま、よく言われている「ヤングケアラー」の問題。
このことについては、自分の経験値もなく、どのように考え、そういうかたにどう寄り添うべきなのか。
メディアでとりあげられる以上の問題が、現実にはあると思います。

先日「コーダ、あいのうた」という洋画を観ました。アカデミー賞候補です。

主人公の女子高生以外、家族全員が耳に障がいがあります。
主人公は自分の将来すら考えられない、
自分がこの家にいなければ、家業を手伝わなければ、家族が生活していけないことをわかりながら、
夢を見つけ、もがき苦しみます。

もちろん、本当に耳に障がいがあるかたからすれば「これはただの物語だ、もっと現実は厳しい」と思われる内容かもしれませんが、
私は、この映画の内容にリアルさと社会への問題提起としての衝撃をうけました。
心が揺さぶられました。

それをどう表現していいのかと思いますが、
映画評論家のLiLiCoさんや、浜村淳さんがそこは語ってくださるので、
私は、この映画を一人でも多くの人が観て、もちろん、コロナ禍もありますし、そもそも映画館に行くことが習慣でないかたもおられるので、今は観られなくても、ここで感じた想いを観た人が伝えていき、
自分が楽しく笑顔の1日でも、そばにいる誰かにとってはしんどい日かもしれない、だからこそ、楽しかった日ほど、まわりの人に思いやりをもった行動をしよう、
という何気ないことが広まっていけばいいなぁと思います。

私自身も、すぐ忘れがちなので再度肝に命じました。

私は、23年前新卒で入社した会社(前職です)の上司に言われた一言
「君は、可哀想が売りになるな」
が忘れられず生きてます。

きっと、仰った御本人は、そんな言葉忘れておられると思いますが、私には衝撃でした。

なぜなら。

生まれたときから、全然裕福でもないのに、あたかも裕福な家庭のように育てられ、
私を、いま、思えば溺愛してくれていた父からは
可愛いかわいい、賢い賢い
と言われ、ただ、成長するうちに
いや、あたし、可愛くないで、、、
あれ、賢くもないで
体育の日に生まれたのに運動もできひんし、、
と、
コンプレックスの塊になっていったのですが、
そこに気づくまでは、授業でも積極的に挙手して発表したり、堂々とした行動ができていたのに、気づき始めると、怖くなって、授業中も黙り込むようになってしまって、
中学生のときの国語の先生から
「結局、一年間、一度も自分の意見、言ってくれませんでしたね」
と言われたことで、
私はそんなふうに見られてたんや、、と
申し訳無さとなんでこんな自分になったんやろという思いで葛藤したのを覚えてます。

でも、その残念だらけの、コンプレックスだらけのなかでも「裕福な家の子供みたい」に習い事は沢山させてもらったため、
特別なにかができるわけじゃなくても
(体育以外は)不得意ではなかったので
学校生活には困らず、
コンプレックスだらけでも、友達とはどの時代も楽しく生きてきて、
高校生くらいからはそのコンプレックスのおかげで、それをネタにすれば、まわりは笑ってくれると、吉本や松竹のお笑い芸人さんが幼い頃から好きだった私は、「自分をおとして笑わす」ことも覚え、
あとは、人より情報収集を欠かさず、どんな人とでも、何かしらのネタで話せるようにする努力、自分なんかよりみんな良いところが沢山あるからそれを褒める語彙力を増やす努力を重ねた結果、
顔が可愛くなくても、好きな人と両思いになれることもあるし、
新しい場所でも人見知りだから最初はしんどいけど、いつの間にか友達は作れている。

という日々が生まれ、
またまた大学生活も予想以上に楽しく過ごし、
迎えた新入社員としての日々の中で、しかも営業職という、毎日、ハジメマシテという自分より年上の人達に次々に出会う仕事の中で、「可哀想が売り」と上司に言われてしまう状況に。

意味がわからず(いや、想像はついてましたが)
なぜそう思われるか聞くと
「いや、なんかなぁ、可哀想やから
なんとかしたげよかな、、て思われる思うわ。
契約とれてるし」
と返されました。
同期女子はみんな美人で、根っからのお嬢さんもいたり、ものすごく頭のキレる子もいたり。
なんで私が採用されたんやろとずっと思ってましたが、、そうか、この子らにはない可哀想さが私にはあるんやなと思い直し、
ということは、「努力してるのに可哀想そう」と思わせないとあかんから、それはクライアントだけじゃなく、会社にも思われないとあかんから、
努力してるフリは誰よりもせなあかんな
と、
その日を境に
努力してるフリをする努力
に勤しむことになりました、、、
それはいつか、本物の努力になり、
努力をすると、仕事がとっても好きになり
結局、同期女子みんな辞めても自分だけ残り、
まだまだ男性色の強かった前職で
ある程度誇れる仕事が出来た
と、思ってます。

人に可哀想と思わせることも武器である
それが例えば可愛い女性なら「アザトイ」と、嫌われると思われるのですが(いや、私のようなもんでもアザトイと思う奇特なかたもおられたかもですが)、私がやれば、あんなに努力しても報われないこと多そうで可哀想となるのかな
と、
若い頃身に付けた
「可哀想の武器」は、自分の人生を助けてくれたかもなと改めて思います。

長くなりました、今日はここまでで。

このブログを読んでくださってる
なにかコンプレックスを抱える方に
長所と短所は紙一重だと思うので
どうかコンプレックスを口に出せば強くなると思っていただけますように。


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コーディネーター渡邉から看護師のみなさまへ、新連載ブログはじめます!

こんにちは。
コーディネーターの渡邉です。

昨年末より懸念されていたオミクロン株の猛威で、
弊社でも予定していた単発登録会やご面談会なども中止せざるおえない日々が続いてます。

第5波のときを思い出し、超えれない山はないんだと信じながら生きていくしかないなぁと思いますが、
医療職の皆様のお仕事がこれ以上大変にならないように、
いま、自分のできる事を日々コツコツと感染対策も含め、徹底していかないといけないなぁと改めて思います。

昨年までわたしは「遠隔介護ブログ」を書かせていただいておりました。

往復車で3時間の距離に住む身体の弱い1人暮らしの父や、老健に入所の祖父や、施設入所の祖母との日々のやりとりなど、
自分がフルタイムで仕事をしながらも実家とのあれやこれやをどのように両立させているか、親族や地域との関わり方なども含め書かせていただいておりました。

看護師の皆様のお仕事の相談をさせていただくなかで子育てと同様、
介護については自身の体調不良等よりも、仕事が出来るかどうかを左右する事柄になるので、
私自身もそれを考え、一度仕事を辞めたこともあったため、
私の書くことが、少しでもいま、同じ事情抱えてしんどいなぁと思っている方々への
「ひとりじゃないですよ、一緒に考えていきましょう」
のメッセージになればと思い、
微力ながら37回書かせていただき、父が亡くなったことで終了、その後日談も書かせていただいたりしました。

会社のブログを通じて、なぜ自分が想いを発信したくなるのかなと、思うと、
やっぱり、お仕事紹介というのは、相談してくださる方々の人生や生活に寄り添い、友達にも話しにくいことまで聞かせていただきながら、
本来その方が輝ける場所をお探しすることだと思っておりますので、
そこまでのことを聞かせていただくには、私達、コーディネーターがより皆様に身近な存在と感じていただけたり、
「こんなことも話していいんだ」と気軽に連絡いただける存在になりたいなぁと、日々考えているからだと気付きました。

それは、弊社の顧問、楠本のある言葉からでした。

※楠本については楠本自身のブログ
ねこのめせん
をご覧ください☆

ある日楠本に
「看護師さんの恋愛のお悩みや、専業主婦への嫉妬とかも聞いてると、仕事の相談じゃなくても、もっと話したいし、それだけで電話くれる存在でも私はいいなぁと思ってるんです」
と話したときに
「あなた、それ、すごいじゃない」
と返してもらったことから始まります。

楠本からみれば30歳以上も若い歳の私ですが、相談してくださる看護師さんは20代から70代の方までおられて、
そのなかでも、やっぱり私と同年代、40代の方々は人生の岐路をむかえたり、迎えていなくても「岐路を迎えてない自分」に負い目を感じたりして生きておられる。
それがわかるからこそ、その視点でのお話が出来るのではないか。

子供を産んでないことは、私の中でかなりのコンプレックスなんです。
でも、コンプレックスをプラスに変えて、人生を楽しもうと切り替えたら切り替えたで、
人からは「無理してるね」と言われることもある。
それはもう、葛藤でしかありません。

それを同年代のおなじく、子供を産んでいない求職中の看護師さんにお話すると
むちゃくちゃわかる〜と言ってくださったりします。
仕事の相談そっちのけでその話だけになってしまうときもあります。

そんなあれやこれやも、話していただきながら、
望まれるお仕事をご紹介できたときは
条件面だけじゃなく、その方と寄り添えたのではないかと思い、忘れられないお仕事紹介になります。

それが、5年以上にわたりお話した結果の場合もあります。

つくづくこの仕事は、自分のモチベーションは
仕事を相談してくださる、看護師さん(その他医療職の方も含め)に支えられているなぁと勤続が長くなるごとに思います。

そんな私の「こんなことでも相談してくださっていいんですよ」の想いを
月に1回ずつくらい書かせていただけたらなぁと思ってます。

父が亡くなりもうすぐ1年、入院して1ヶ月半で亡くなりましたが、入院したころはすぐ退院できると言われてました。
想像より身体が悪かった、それが主治医も含め、まわりみんなの印象でした。

入院するより2ヶ月前くらいから
○毎晩、ベランダに聖歌隊が来て、ゴスペル歌ってくれる
○座敷わらしがずっとおる
と、毎日のように発言し、
私や主人とランチにでかけても「しんちゃん(私の主人)の横の子に、めぐみのエビフライあげて、、、(主人の隣観ながら)
なっ、お姉ちゃんにエビフライもらい」と発言したりで、
なにを言ってるんだろう、いつも冗談ばかりの人だから、また冗談言ってるのかな、て思ってましたが今となっては
主人とも「あれは、もう、最期が近づいてる知らせだったんかな、あっちとこっちを行き来されてたんかな」と話します。

そんなことも体験してみてこそ気づくことでした。

きっとこれを読んでくださってる看護師さんたちは、日々、患者さんや利用者さんの命に向き合われながら、もっと様々な体験もされてると思います。

だからこそ、私が書かせていただく他愛もない話題から
私やワークステーションを身近に感じていただいて、気軽になんでもご連絡いただけたら嬉しいなあと思います。

唯一無二の派遣会社、紹介会社の担当者になれますように。

まだ題名のないブログですが、引き続きどうぞ宜しくお願いいたします。

追伸:写真は待ちに待って観た映画「ハウスオブクッチ」です。

ジェンダーレスの時代ではありますが、男と女の特性がドロドロ出ていて、
ブラックワタナベとしてはとってもオススメの映画です♡


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遠隔介護ブログ~その後~

家族を見送って後悔のない人はいないよ。

母を亡くした時80歳位の知人に言われた言葉です。

こんにちは、久々にブログを書かせていただきます、コーディネーターの渡邉です。

以前、「遠隔介護ブログ」を書かせていただいてました。
が、遠隔介護していた、祖父も父も亡くなり一旦ブログを卒業させていただきました。

父の死から半年たち、初盆も終わり、わたしの生活は見違えるようにといえばおおげさですが、週末に身体を休める時間が増えました。

平日フルで働き、週末、実家を片付ける、父のお世話をするサ高住に入っても
買い物には行かないといけない、お昼ごはんやドライブも連れて行けとリクエストが多い。平日フルで働いたあとも毎日、数件の父からの着信にこたえる。

という10年以上の日々、わたしの30代は、ほんとに、「しんどかった」の一言につきます。

その反面、母が病気になるまえは私は仕事と遊びでほぼ家にいなかったので、20代の反動の30代と思えば、実家孝行はプラマイゼロなのかもしれません。

母が大好きだったのに、父が死んでからは、母のことより毎日父を思います。SNS時代、母はそこに突入する前の死だったので、私のSNSは父の思い出であふれ、
ほぼ毎日のように過去の写真というSNSの便利なシステムとして、自然にスマホに父がうかびあがってきます。

いつも支えてくれる主人には、父のことを幾度となく、もう、お願い死んでくれていいと口にしてしまったこともありました。それくらい振り回されてましたが、それでも、その父の存在に支えられてました。

私は小中高、皆勤賞でした。
学校が好きという学生時代をおくりました。
それは、父の存在のおかげだったと実感してます。
PTAの行事や役割、役員、自治会のこと、村の発展のためなど、父は地域貢献に尽力してました。
そのおかげで先生方と話をさせていただくのも気軽になんでも行えて、勉強以外の相談もしやすくて、運動音痴なので、体育の授業がある日をのぞいては楽しく学校に行けたのだと思います。

両親も祖父母も、褒め上手だったので、学生時代も、社会人になっても家族に褒めてほしくて、頑張るんだとがむしゃらにこれたのかもしれないと、両親とも亡くなった後、「あれっ、わたし、何してたんやろ」というような、虚無感にも襲われました。

そして、次に襲ってきたのは、
「たら、れば」ばかり。

祖母が脳の病気で倒れたときも、その前夜、母が不在時で、明らかに祖母の言動がおかしかったのに、そのときはまだ「ネット検索」もないし、私も24歳という若さで、そういったことに直面した経験もなく、「旅行帰りだし疲れてるのかな」と思ってしまったこと。
あのとき私がすぐに病院に連れて行ってたら

とか、

母の末期がんも、私がもっと早く母の身体の痛みに気付けていたら

とか、

祖父の入院はあの病院で良かったのか、もっとどこか施設は探せなかったのか

とか、

父の通院に年に数回でも付き添い、改善をもっと本気で向き合えばよかった

とか、、

後悔が溢れ出て、極端に、私が祖父母と両親の寿命を縮めたくらいに思ってしまって苦しくなったり。

そんなときに救ってくれた言葉が冒頭に書いた

家族を見送って後悔のない人はいないよ。

です。

みんな後悔する。いくつになっても、何をしてきてても後悔する。

だからどうしよう、こうしようとまでは、その知人は言われませんでしたが、私の中でだからこそ、自分自身の人生を少しでも後悔の無いように生きるのが見送った家族への最大の恩返しになるんだなという思いが芽生えました。

そして、その知人が教えてくれたように、まわりの人に何か辛いことがあったときに痛みを経験したぶん、私には、かけられる言葉が沢山あるんだという自分なりの「人への貢献」「人への役割」も自覚し、しゃしゃり出るわけではないですが、自然な態度で人を支えていける人間になりたいなぁとあらためて思いました。

そう考えると、「コーディネーター」という仕事はまさしく、その部分を鍛えさせていただける仕事なんだと思えます。

まだまだ至らない点だらけだと思いますがあらためて、
お仕事のご相談をいただく皆さまに「渡邉さんに相談してよかった」「ワークステーションに相談してよかった」と思っていただける存在になれるように頑張りたいと思います。

私の体験した様々な「後悔」は今、看護師さんをはじめ、医療職の方々と日々関わらせていただく中で、自分が、医療や福祉の現場で働かざるとも、皆様の業務のお話から勉強させていただくことが大変多く、あと20年早くこのお仕事させていただいてたら、祖母の脳の変化にも気づけたかもなと思います。

そのように、皆様と関わらせていただけることがネット検索するよりも勉強させていただくことが多いと実感する毎日です。大変ありがたいことです。

経験が自分を助けてくれます。まわりの人を助けることも出来ると思います。

人生に無駄なことはない。本当にそうですね。

この夏、おうち時間を再度楽しむ中で、八歳の姪っ子が、フラフープしながら読書をしたりけん玉したり、楽しそうな動画をTikTokにあげるようになり、それを見ていると「わたしもフラフープしよう」とすぐに購入、始めてみました。

フラフープは体幹を鍛えたり、ダイエットにもつながるそうですが、やってみて、何よりリフレッシュになります。またたく間に上達?出来たと思ってます。

フラフープが届いた初日、3回もまわせなかった私が姪っ子の動画や、フラフープのコツの動画検索して真似るうちに、5日で3分くらいはまわせるようになりました。

父が亡くなり、月2回程度実家には帰り法要や掃除や、片付けなどもしてますがやはり、心身の余裕が出来ました。だからこそ、始められたフラフープ。

読む本の量も増えました。

心身が落ち着いているからか治療中の高血圧も、とっても数値がよくなりました。

コロナ禍でなかなか会えない、母方の祖母や、主人の母(姑)に、出来る孝行を考えて、人生の後悔を、少しでも減らしていきたいなぁと思ってます。

そんな「遠隔介護後の毎日」でした。
ここ数年、年々体が弱くなる父と向き合うのがとてもしんどい日々でしたが、こちらでブログを書かせていただくことも、私自身のリフレッシュにもつながってました。アウトプットの大切さを学ばせていただきました。

今回も長文、読んでいただきありがとうございました♫

 

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遠隔介護ブログ(第1回~第37回)

こんにちは!
メディカリズム編集部です^^

先日、コーディネーター渡邉の『遠隔介護ブログ』が最終回を迎えました。

遠隔介護ブログは、渡邉が仕事・家事・介護(遠隔)を両立する日常をブログに綴ったもので、同じように、介護問題を抱えながらお仕事されている看護師さんの心の安らぎにつながればという想いから始まり、2018年2月からこの3月までの約3年間続きました。

皆さま、いつもご覧いただきありがとうございました。

私たちメディカリズム編集部も改めて初めから読んでみると、いろんな出来事があったなぁ、しんどいことも思わず笑ってしまうことも、自分が経験したわけではないですが、毎月綴られていたブログだからでしょうか、なんだか懐かしく、募る思いがあります。

このブログを今日、はじめてご覧いただく皆さまにも、ぜひ、遠隔介護ブログの1回目から読んでいただきたいと思い、この遠隔介護ブログまとめページを作りました。

下の第1回~第37回をクリックいただきますと、それぞれのページが開きます。

 

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◎看護師のお仕事探しはメディカルステーション

遠隔介護ブログ(第37回)

こんにちは、コーディネーター渡邉です。

遠隔介護ブログ37回。

 

今回で書かせていただくのはラストになるかな、と思います。

なぜなら、遠隔介護が終わりました。

いや、もちろん、故郷に母方の祖母はおり、施設に入居し14年、認知症もすすみ、私のことが誰かはもうわからぬなかですが、月1回の面会は続けてます。が、それは遠隔介護ではなく、ただ、面会に行くという状況です。

 

母の死から12年。もうすぐ13回忌。

身体の弱く、慣れない一人暮らし、祖父が生きていたときは、老老介護をしていた父が、2月末に逝去致しました。

私が日々考え、悩み、ときには逃げたくなるほどしんどくなり、それでも愛しかった父。

 

私は幼い頃から「書くこと」「読むこと」が好きなのですが、それは全て父の影響で、0歳のときから沢山の本を与えられ、読むことの楽しさを教えてくれて。

父自身も沢山本を読んでましたので、そのおさがりをもらったりしながら、そうすると、書くことも好きになり、そんな中で、自分が、この遠隔介護になったときに、会社のホームページのブログの中を借りて、自分の日々を書かせていただくことで、「親をみないといけないから、仕事が続けられない」ではなく、「こういうサービスを利用すれば、地域に相談していけば、自分の毎日も出来るだけ変えずに、親の介護とも向き合えるんだ」と思ってもらえたら、という気持から日々を記させていただきたいと、発信をさせていただくことになりました。

 

ただ、やっぱり、父を亡くしたときに思ったことは、

「もっとそばに、いてあげたかった」

「もっとはなしを聞いてあげたらよかった」

という、後悔の念だらけでありました。

 

お通夜の時に参列してくれた友人に、泣きながらその思いを伝えると「あんたはよぉやったよ、お父さん幸せやったよ。」と何度も繰り返して言われ、その後も私の様子を、身内も友人もそして、会社のみんなも、また、仕事を一週間お休みいただくことでご迷惑かける弊社の登録看護師さん数人にもお伝えしていたので、その方々からも気にかけていただき、本当に温かい言葉をいただきました。

 

昭和のオトコ!のわりにしんどいときはすぐにしんどいと言うし、あまり「我慢」をしないのに自分では無茶苦茶耐え忍んでるというアピールをする父だったので、12月頃からしんどいというアピールが増してたのも単なるわがままだと思ってしまってた私。

本当に辛かったんだと思います。

前回書かせていただいたときに危篤になったあとも復活したのですが、リモート面会でも、自分の誕生日の日付を言ってきたり、両手でピースしてきたり、母の13回忌はコロナ禍でも盛大にやりたいと伝えてきたりして、もう、退院できる日も近いのかな、そうなると、サ高住に戻るより一旦、老健になるかなとも考えてました。

が、再びの危篤の呼出し。

ただそこからも復活し、心拍数が20まで下がったときは、親族全員、病室にも入らせてもらい声をかけ続けました。

が、そこからも復活。

遠方に住む、私の弟夫婦はかけつけれてなかったので、待ってるんやろなぁと言ってました。

そこから2日間、病院の近くで私達夫婦も待機してたものの、落ち着いたなぁと思い家に帰り、ゆっくり寝て翌朝8時すぎに病院からの電話。

最期には間に合わず、病院の近所に住む、父の弟と姪が見送ってくれました。

71歳でした。若いように思いますが生まれつき心臓が悪く45歳までの命と言われていたことや、嫁を亡くして12年と考えると本当によく頑張ったんだと皆さん声をそろえて言って下さります。

 

告別式の朝、叔父がふいに、弔辞してもらう時間をつくりたいなと言いました。

一般人だしサラリーマンでもないから弔辞要らんやろという意見もあるなか、父が入院する一週間前に父がどうしても会いたいと電話し、おでかけしてくれた父のお友達(教師をされてたかた)に、告別式1時間前にお願いすると、こんな直前だから断られるかなと思ってたものの「いいよ。」と言って下さいました。

 

そして、弔辞が始まると、

「保っちゃん(うちの父の名前)、あんたが昔から、わしが死んだら弔事は先生がしてくれてゆうてたけどそのとおりになってもたわ。」という出だし。

そこで私も叔父夫婦も、主人も、弟夫婦も、そして、まわりの人たちみんなが涙をこらえきれなくなりました。

お父さん、そんなん言ってたんや、それを知らんと、私らは朝思いついて、ちゃんと間違わずにお願いしたんやと、これは何か父から見えない力で動かされた気がしました。

生前の想い出、私達子供でも知らないことを沢山語って下さり、どれだけ父が天真爛漫に生きながらも裏表がない人間なので、まわりに愛されてたかを知りました。

弔事の締めくくりが、

「偶然にもテレビから流れてきたKiroroのベストフレンドの歌が、私のそのままの想いです。あなたの笑顔に何度助けられただろう、ありがとうベストフレンド」。

私の涙腺は崩壊しました。

 

遺影を選ぶのに苦労するほどの写真の多さ、

そして、またまた苦労するほどの笑顔すぎる笑顔に、絶対顔にかぶるピースサイン。しかも両手。

たしかにわがまま放題でしたが父はとにかく笑顔でした、笑ってました、ふざけながら人を笑わせてました。

私は父の笑顔に何度も助けられてました。

なかなかあの世代の男性でそんな写真にあふれてる人はいないはずです。

それを見ながらも、弟が、「お父さんがこんなに写真あるのは、しんちゃん(私の主人)のおかげやな。」と言ってくれて、カメラが趣味の主人ですが、父はほんとに被写体として素晴らしい表情やポーズをするので、会うたびに何枚も撮影してくれてて、それを弟が感謝してくれてたことにも幸せやなと思いました。

 

そんな沢山の写真のなかから、1番、穏やかな優しい笑顔の写真を見つけ、みんながこれにしようと意見一致。

母が生きてた頃、もう母の末期がんが告知されたあとでしたが、わたしと弟そして父、母の4人を主人が撮影してくれたときの父。

やっぱり母が生きてた頃が1番父が輝いてたんだと思える写真です。

 

そして、リモート面会で、結局遺言のようになった「お母さんの13回忌は盛大にしよう。」の一言を思い、それを言うために、一度ちゃんと復活してくれたんだなぁ、それがろうそくの火に例えられる命の不思議さなんだなと思いました。

 

母をなくしたときも思ったことですが、もちろん、誰も皆、親を亡くす経験はするわけで、それを経験したときには経験した人にしかかけられない言葉があるわけで。

「親って、体悪くてもええから、生きててほしいやろ。」と父の友人に言われた言葉がほんとに身に沁みます。

 

会うたびに、「かわいいなかわいいな」といくつになっても言ってくれて、わかれるときには「愛してるよ」「大好きやで」と言ってくれて、最後に一緒にでかけた日には手の甲にキスまでされて。

ほんとに独特な父でした。書ききれない思い出がありますが、それを大切に、平均寿命よりずいぶん早くなくなった両親の分まで元気に生きていきたいと思います。

この写真は父が母に送った婚約指輪のダイヤを、母がわたしのためにネックレスにしてくれたものと(そこにわたしの誕生石もつけてくれてます)、父が大事にしてたキーホルダーをわたしにピアスにしろとくれたので、手先の器用な友人に頼みピアスにしてもらったもの。

大切な宝物です。

が、父が亡くなってから仕事以外の日は毎日のようにつけてたこのピアスがなぜか、今日、父の7日ごとの法要の2回目の朝、、なくなったんです。

どこを探してもない。

いつまでもめそめそするな前を向けと、ピアスも旅立っていったんじゃないかと考え、この遠隔介護ブログもここで終わらせていただき、この濃い濃い12年の経験を今後の自分に活かせるように前向きに生きていきたいと思います。

 

これからはまた楽しいテーマでブログ書かせていただける日がありますように。

 

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遠隔介護ブログ(第36回)

こんにちは、コーディネーター渡邉です。

遠隔介護ブログ36回。

 

前回は、「父が入院するかもしれない」というところで終わらせていただいてました。そこから3週間ほど経ってブログ更新させていただきます。

 

即日入院しました。

 

その日、朝ごはんをサ高住で食べ、デイサービスに行くための準備中にしんどくなったようで、自分で救急車を呼ぼうとしたところを管理者さんがきづいてくださり、主治医に連絡。近くの病院に紹介いただき、検査の結果、心不全(これは慢性的ですが)とびっくりするくらいの低酸素、腎不全(これも慢性的ですが)で即日入院、即酸素マスクとなりました。

当日は、ケアマネさんが付き添ってくださったので、私と主人は翌日会社にお休みをもらって入院手続きや、市役所での高齢者の入院のときの医療費限度額などの手続きに行きました。

緊急事態宣言中であっても、個室病棟の父とは5分位ならと面会させていただき、酸素マスクしていても会話ができ、私達の顔を見ると「お腹すいた、今日、どこ食べに行く?」といつもどおり、お昼ごはん連れ出しに私達が来たと思ったのか普通に会話してきた父。

顔色も落ち着いていたものの食事は抜きで点滴のみだったので、お腹もすいていたようで、お腹すいた、なんか食べさせてくれと言ってました。

退院したら焼き肉行こなと普通の会話をして、長くいれないからと、病室をあとにすると、個室の父の部屋から大きな声でまだ私達に話しかける声が聞こえ、ちょっとかわいそうになりました。

看護師さんにお聞きすると、ほんとに大きな声で話されてますよと。

ドクターからも命に別状はありませんとのことで、次からはやはり、直接面会ではなく、受付からのリモート面会になるとのことだったので予約しないといけなくて、翌週の土曜にリモート面会を予約して病院をあとにし、父のサ高住にむかい、2週間ほどの入院になると聞いたので、冷蔵庫の中の腐りそうなもの片付けたり、父が寝てたらできないベッドまわりの掃除もしました。

その前に、管理者さんたちもお掃除してくださってたので、父がなくしたと騒いでたものも出てきてました。

貴重品を持ち帰り、そのなかには入院中はとりあげられた携帯電話もありました。

そういえば、少し面会できたときに「携帯がないから不便や、時間がわからん、充電しといてくれ。」とも言ってたので、ほんとに家族や友達とのコミュニケーションツールである携帯電話が父の宝物なんだなぁと思いながら、父の携帯電話も持ち帰りました。

かわいそうだけど、父は安全なところにいれるし、寒い中、温かい病室で看護師さんにもよくしてもらってるし、コロナも心配なさそうだし、わたしも毎日の父の電話から解放されて少しだけ心の負担が減った数日後、

仕事をしていると、入院している病院から電話が。

すぐに出れない状態だったので折返そうとしたら、叔父からのライン。

 

「父危篤、すぐ帰れ」

 

電報かよと、ツッコむ気にもならず、すぐに主人に電話。

命に別状はないと聞いていたのでパニックになり、号泣し叫ぶように主人に今すぐ帰るとうったえました。

会社にも状況を話し、その日わたしは偏頭痛でフラフラで働いてましたが、それどころでもなくなり、まわりのかたに自分の仕事を少しずつお願いして近くで働く主人と待ち合わせて一緒に病院にむかいました。

 

ほかの近しい親族にも連絡をしながら。

会社から病院まで2時間かかります。お願いやから、もってほしい、頑張ってほしい、祈りながら。

叔父が先にかけつけてくれてますが、やっぱり娘や息子には会いたいだろうと思います。必死に電車の中でも気持ちを走らせてました。

結果、私達がかけつけたときには持ち直し、少しなら面会できると聞いて面会させていただき、手を握ると握り返すほどに。

安心しましたが、ドクターから説明をうけた叔父は、よくない状態だということも理解し私達に説明してくれました。

弟家族もかけつけましたが、もちろん父の孫たちは、幼いのでこのコロナ禍、面会することは出来ず。

今日明日でなにがあるかわからない、一旦それぞれ、家に帰って準備しようと別れ、不安なままの夜。

なかなか寝れないでいると夜中の1時半ごろ、病院からの電話。

 

もう、、あかんのかな、

 

そう思い電話をとると、看護師さんの必死な声。

「お昼間説明したように、気管切開をするかどうかが迫られるかもしれません。ご家族ではどう考えられましたでしょうか。」と。

 

実は昼間、ドクターの説明をうけた叔父から酸素マスクでもう難しくなったとき、生きるためには気管切開が必要になる。気管切開をすると、その後、やはり管理が大変であるなど、様々考えられる将来のことを聞き、社会福祉士である弟もその状況をよく理解し、これは「延命治療、しますかしませんか」の質問であると私達に話してくれ、話し合った結果、「気管切開はしない」という選択をしてましたので、それを伝えるだけなのに私のこの言葉が、父の命を終わらせることになるのかもしれないと思うと苦しくて嗚咽し、しぼりだした言葉で「気管切開はしません。」と伝えるのがやっとでした。

 

看護師さんからかえってきたお言葉

「こんな時間にむごい事聞いてごめんなさいね。でも、お父さん頑張っておられます。わたしたちも頑張りますから!」

という温かくそして強い声に心がとても励まされ涙もおさまり、そこから2時間ほどやはり、眠れずにいたものの、4時頃には寝れたのか、案外すっきり翌朝6時に目覚め、再度仕事に。

 

偏頭痛はなんとかおさまり、その日もいつ呼び出されるかわからないと必死に午前中、前日帰ったぶんも含め仕事し、このしんどさも聞いてもらいたくて同僚を誘いランチに出て注文したところでまた病院から電話が。

「もう、夕方までもたないかもしれません」

看護師さんの声。

ある程度前日に覚悟できた分、取乱さず、また主人や親族に連絡し、病院にむかいました。

が、そこから2週間たった今、父は、

生きてます。

頑張ってます。

そして今もまさにリモート面会(面会とはいえ、父は意識がないので、様子をみせていただき、寝ている父に画面越しに呼びかけるだけですが)に向かってます。

この期間、父、サ高住のケアマネさんや管理者さん、親族、そして、会社の上司、同僚、病院のドクターや看護師さん、そして、日々仕事で連絡をとらせていただいている、派遣看護師さんの皆さんに、あらためて感謝することが沢山ありました。

が、それはまた長くなりますので

次回たっぷり書かせていただきたいです。

そのときも、父が生きていて、少しは意識を取り戻していることを祈るばかりです。

ただ、コロナ禍で、面会禁止、元気になっても外出制限のなかでは出掛けたい、人に会いたい、いろんなもの食べたいの父だと、ストレスだらけだったと思うのでコロナが少しおさまるまで意識がないのもかえって幸せなのかもなと親族では話し、わたしは父は冬眠の技術を身に着けたのだと思うことにしました。

熊さんのように。

春には元気になった父と暖かい日差しの中、出かけることができますように。

リモート面会、このコロナ禍でも工夫をしてくださる病院に本当に感謝しながら、今回のブログを締めくくらせていただきます。

写真は実家の庭にある南天の実です。

南天は、家内安全という意味があるそうです。

父の部屋にも飾りました。

もちろん病室には持っていけませんが、南天の実が、どんなかたちでもいいので父を守ってくれますように。

 

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遠隔介護ブログ(第35回)

こんにちは。コーディネーターの渡邉です。

2021年もどうぞ宜しくお願い致します。

 

遠隔介護ブログ35回。

前回のブログでは、コロナ禍や実家の寒さを考え、父と年越しをしない事を決め、それが本当に決行できるかどうか悩んでる事を書かせていただきました。

結果、出来ました。が、なかなか大変でした。

クリスマス前くらいからどんどん不穏になった父。
家に帰りたいとなぜか夜中に救急車を呼んでしまったり、今住んでるサ高住のスタッフさんたちに悪態づいてこんなとこにおられへんと、夜な夜な電話してきたり。

年末、わたしも忙しくあまり電話に出れないと留守電にそれが何度もふきこまれ、夜遅く、仕事でも疲れた中で折り返し電話したら、「なんで連れて帰ってくれへんねん!」 と怒鳴られたりもして、私自身も心が折れそうになり、クリスマスイブにとうとう号泣。

主人がわたしの弟に連絡し対応を相談してくれると、弟も同じように電話を父から多くうけていたようで、もしかしたらもうサ高住+デイサービスというある程度自立した中で、食事や入浴、生活を介助&サービスしてもらってる状況での生活は難しく、介護度も入居当初より上がっているため、特養など、常に見守られる環境でないと厳しいのかもしれないので、一度今お世話になってるケアマネさんにも弟から相談してくれる事になりました。

そして私は、自分のために父からの電話を、平日は着信拒否することに。

祖父や祖母が施設や老健に入居時、「帰りたい。」と会うたびには言ってたものの、携帯電話を持ってなかったので会わない日はその訴えに苦しめられることはなかったですが、父は施設ではなく、あくまでも、サービス付きの住まいで携帯電話も持てるので、自由に訴えてきます。

それを拒否してみたら少しは楽になる、きっとなにかあればケアマネさんや管理者さんが電話くれるから大丈夫と。

今までは、私が無視したら、サ高住のスタッフさんたちに八つ当たりするんじゃないか、弟に鬼電するんじゃないかと思い、まずは私が受け止めようと思ってましたが、自分がつぶれてしまってはもっとみんなに迷惑かけると思い、着信拒否を思い切ってみました。

すると、案外数日後の土日、着信拒否を解除して久々の父からの電話をうけると、ワガママもなく、「なんで電話出んかったんや?」もなく、ただの日常の報告だけでした。

案外大丈夫やんと、ホッとしたり不思議すぎたり。

そしてそのあとの年末。大晦日に会いに行くとやはり何度も説明してきた「年越しは実家で出来ない」は通じてなく、また泣き出しました。なんでやねんなんでやねんと。

どう説明しようかと思ってると、「介護さんも誰もきてくれへんやろ、ほったらかしにされるやろ、お父さん以外のひと、みんな家に帰るんやろ。」と。

あっ、そうやったんや。。と気付いた私と主人。

説明不足でした。

父以外の入居者さんもお正月はほぼ自宅に帰らないと管理者さんにもうかがってましたし、デイサービスは数日休みですが、スタッフさんはもちろん出勤されてます。お掃除がないくらいです。

それは私達は理解してましたが父にはわかってるだろうと説明できてませんでした。

寂しかったんやね、怖かったんやね。

ほかの方々のことも、スタッフさんたちの体制も説明すると、「そうかわかった。」とのこと。

そのあとはニコニコとおだやかになり、ライン電話で孫たち(私の弟の娘たち)の顔みせてあげると喜び、普通にお昼寝して、またな〜と手をふってきました。

お正月もお雑煮やおせち料理をいただきとても喜んで、報告してくれました。

私は父の好物の数の子を塩抜きして味付けして持っていきましたが、、結局あんまり食べてませんでした。出していただいた食事のほうが美味しかったみたいです。

管理者さん、ケアマネさん、介護士さんたちのおかげで想像よりおだやかにお正月を過ごしてくれて特養入所などはもう考えなくてもいいかな、、
と考えてた矢先。

少し心穏やかに仕事をしてますと、ケアマネさんや管理者さんから着信が数回。昼間は仕事をしてるので、電話には出れないとショートメールいただけるのですが、そこで確認。

「お父様、入院になりそう」と。。

新年1回目の遠隔介護ブログも長くなってきましたので、この騒動はまた次回書かせていただきます。

 

今回の年越しで学んだこと。

父の反応で学んだこと。

相手に何かを伝えるとき、特にしんどい内容を伝える時は、相手に疑問点や不安点を残さない、どこにしんどさがあるかをしっかり想像しながら、話さないといけない、頭ごなしに「わがままを言ってきてる」とこちらが苛立ちで返してはいけない。

ということ。

正直過ぎる父とのやりとりから、本当に学ぶことは多いです。

そして自分が混乱してきたときにはちょっと逃げてみるのもいいのかなと、着信拒否の決断からも勉強しました。

 

そんな2021年の幕開け、3府県に緊急事態宣言も出てますので、またまたステイホームの中ですがこの本を読んで、大好きなお笑いの勉強(笑わすのは苦手ですが、漫才を観るのが幼少期から大好きなので)をしてます。

年末に毎年あるM-1グランプリは自分の誕生日より大切な行事。

そのM-1グランプリの内容の分析、そこで勝つための方法など書かれてます。

生き方もやはり、過去の事例から、分析して工夫していくことが大事だとこの本からも漫才を人生に置き換え学んだりもしてます。

コロナ禍がまだまだ続く中、沢山笑って免疫力をあげていきたいものですね。

 

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