遠隔介護ブログ(第37回)

こんにちは、コーディネーター渡邉です。

遠隔介護ブログ37回。

 

今回で書かせていただくのはラストになるかな、と思います。

なぜなら、遠隔介護が終わりました。

いや、もちろん、故郷に母方の祖母はおり、施設に入居し14年、認知症もすすみ、私のことが誰かはもうわからぬなかですが、月1回の面会は続けてます。が、それは遠隔介護ではなく、ただ、面会に行くという状況です。

 

母の死から12年。もうすぐ13回忌。

身体の弱く、慣れない一人暮らし、祖父が生きていたときは、老老介護をしていた父が、2月末に逝去致しました。

私が日々考え、悩み、ときには逃げたくなるほどしんどくなり、それでも愛しかった父。

 

私は幼い頃から「書くこと」「読むこと」が好きなのですが、それは全て父の影響で、0歳のときから沢山の本を与えられ、読むことの楽しさを教えてくれて。

父自身も沢山本を読んでましたので、そのおさがりをもらったりしながら、そうすると、書くことも好きになり、そんな中で、自分が、この遠隔介護になったときに、会社のホームページのブログの中を借りて、自分の日々を書かせていただくことで、「親をみないといけないから、仕事が続けられない」ではなく、「こういうサービスを利用すれば、地域に相談していけば、自分の毎日も出来るだけ変えずに、親の介護とも向き合えるんだ」と思ってもらえたら、という気持から日々を記させていただきたいと、発信をさせていただくことになりました。

 

ただ、やっぱり、父を亡くしたときに思ったことは、

「もっとそばに、いてあげたかった」

「もっとはなしを聞いてあげたらよかった」

という、後悔の念だらけでありました。

 

お通夜の時に参列してくれた友人に、泣きながらその思いを伝えると「あんたはよぉやったよ、お父さん幸せやったよ。」と何度も繰り返して言われ、その後も私の様子を、身内も友人もそして、会社のみんなも、また、仕事を一週間お休みいただくことでご迷惑かける弊社の登録看護師さん数人にもお伝えしていたので、その方々からも気にかけていただき、本当に温かい言葉をいただきました。

 

昭和のオトコ!のわりにしんどいときはすぐにしんどいと言うし、あまり「我慢」をしないのに自分では無茶苦茶耐え忍んでるというアピールをする父だったので、12月頃からしんどいというアピールが増してたのも単なるわがままだと思ってしまってた私。

本当に辛かったんだと思います。

前回書かせていただいたときに危篤になったあとも復活したのですが、リモート面会でも、自分の誕生日の日付を言ってきたり、両手でピースしてきたり、母の13回忌はコロナ禍でも盛大にやりたいと伝えてきたりして、もう、退院できる日も近いのかな、そうなると、サ高住に戻るより一旦、老健になるかなとも考えてました。

が、再びの危篤の呼出し。

ただそこからも復活し、心拍数が20まで下がったときは、親族全員、病室にも入らせてもらい声をかけ続けました。

が、そこからも復活。

遠方に住む、私の弟夫婦はかけつけれてなかったので、待ってるんやろなぁと言ってました。

そこから2日間、病院の近くで私達夫婦も待機してたものの、落ち着いたなぁと思い家に帰り、ゆっくり寝て翌朝8時すぎに病院からの電話。

最期には間に合わず、病院の近所に住む、父の弟と姪が見送ってくれました。

71歳でした。若いように思いますが生まれつき心臓が悪く45歳までの命と言われていたことや、嫁を亡くして12年と考えると本当によく頑張ったんだと皆さん声をそろえて言って下さります。

 

告別式の朝、叔父がふいに、弔辞してもらう時間をつくりたいなと言いました。

一般人だしサラリーマンでもないから弔辞要らんやろという意見もあるなか、父が入院する一週間前に父がどうしても会いたいと電話し、おでかけしてくれた父のお友達(教師をされてたかた)に、告別式1時間前にお願いすると、こんな直前だから断られるかなと思ってたものの「いいよ。」と言って下さいました。

 

そして、弔辞が始まると、

「保っちゃん(うちの父の名前)、あんたが昔から、わしが死んだら弔事は先生がしてくれてゆうてたけどそのとおりになってもたわ。」という出だし。

そこで私も叔父夫婦も、主人も、弟夫婦も、そして、まわりの人たちみんなが涙をこらえきれなくなりました。

お父さん、そんなん言ってたんや、それを知らんと、私らは朝思いついて、ちゃんと間違わずにお願いしたんやと、これは何か父から見えない力で動かされた気がしました。

生前の想い出、私達子供でも知らないことを沢山語って下さり、どれだけ父が天真爛漫に生きながらも裏表がない人間なので、まわりに愛されてたかを知りました。

弔事の締めくくりが、

「偶然にもテレビから流れてきたKiroroのベストフレンドの歌が、私のそのままの想いです。あなたの笑顔に何度助けられただろう、ありがとうベストフレンド」。

私の涙腺は崩壊しました。

 

遺影を選ぶのに苦労するほどの写真の多さ、

そして、またまた苦労するほどの笑顔すぎる笑顔に、絶対顔にかぶるピースサイン。しかも両手。

たしかにわがまま放題でしたが父はとにかく笑顔でした、笑ってました、ふざけながら人を笑わせてました。

私は父の笑顔に何度も助けられてました。

なかなかあの世代の男性でそんな写真にあふれてる人はいないはずです。

それを見ながらも、弟が、「お父さんがこんなに写真あるのは、しんちゃん(私の主人)のおかげやな。」と言ってくれて、カメラが趣味の主人ですが、父はほんとに被写体として素晴らしい表情やポーズをするので、会うたびに何枚も撮影してくれてて、それを弟が感謝してくれてたことにも幸せやなと思いました。

 

そんな沢山の写真のなかから、1番、穏やかな優しい笑顔の写真を見つけ、みんながこれにしようと意見一致。

母が生きてた頃、もう母の末期がんが告知されたあとでしたが、わたしと弟そして父、母の4人を主人が撮影してくれたときの父。

やっぱり母が生きてた頃が1番父が輝いてたんだと思える写真です。

 

そして、リモート面会で、結局遺言のようになった「お母さんの13回忌は盛大にしよう。」の一言を思い、それを言うために、一度ちゃんと復活してくれたんだなぁ、それがろうそくの火に例えられる命の不思議さなんだなと思いました。

 

母をなくしたときも思ったことですが、もちろん、誰も皆、親を亡くす経験はするわけで、それを経験したときには経験した人にしかかけられない言葉があるわけで。

「親って、体悪くてもええから、生きててほしいやろ。」と父の友人に言われた言葉がほんとに身に沁みます。

 

会うたびに、「かわいいなかわいいな」といくつになっても言ってくれて、わかれるときには「愛してるよ」「大好きやで」と言ってくれて、最後に一緒にでかけた日には手の甲にキスまでされて。

ほんとに独特な父でした。書ききれない思い出がありますが、それを大切に、平均寿命よりずいぶん早くなくなった両親の分まで元気に生きていきたいと思います。

この写真は父が母に送った婚約指輪のダイヤを、母がわたしのためにネックレスにしてくれたものと(そこにわたしの誕生石もつけてくれてます)、父が大事にしてたキーホルダーをわたしにピアスにしろとくれたので、手先の器用な友人に頼みピアスにしてもらったもの。

大切な宝物です。

が、父が亡くなってから仕事以外の日は毎日のようにつけてたこのピアスがなぜか、今日、父の7日ごとの法要の2回目の朝、、なくなったんです。

どこを探してもない。

いつまでもめそめそするな前を向けと、ピアスも旅立っていったんじゃないかと考え、この遠隔介護ブログもここで終わらせていただき、この濃い濃い12年の経験を今後の自分に活かせるように前向きに生きていきたいと思います。

 

これからはまた楽しいテーマでブログ書かせていただける日がありますように。

 

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投稿者: メディカリズム編集部

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