遠隔介護ブログ(第29回)

こんにちは。
コーディネーターの渡邉です。

マスクでより一層暑いという日が続きますね。ひんやりマスクなども出てますが、昨年には考えてもなかったUVカットマスクや、水着素材のマスクや、新しい工夫がどんどん形になり、まさに新型コロナウイルスと共存していくための新しい生活様式が世界中で(特に日本で)考え出されていること、報道で観るたびにドキドキ、少しわくわくしている自分もいます。

が、わたしの悩みの種は、やはり新型コロナウイルスではなく父です。

サービス付高齢者住宅に入居させていただいて3ヶ月。落ち着いたかな、いやまた荒れてるな、あっ、落ち着いたな、いやより一層荒れてるな、の繰り返し。

緊急事態宣言が解除されデイサービスが復活して、サ高住に入ってから通うデイサービスも変わったのですが、(系列は以前のデイサービスと同じ)前のデイサービスでも持ち込みさせていただいていた、和太鼓を(もともとはわたしの弟が幼い頃あまりにも神輿祭りが好きで、神輿に乗せていただくときの為に家でも練習したくて祖母に買ってもらった和太鼓です)新しいデイサービスにも持ち込み叩かせていたただいたりなどして、色々ありながらも元気に楽しく過ごし、デイサービスでリハビリもさせていただくので、緊急事態宣言中に一気に太り、血液検査の結果もがくんと悪くなってたのも改善され、往診のドクターにも褒められるほどだったのですが、(緊急事態宣言中に買い込んだ、夜中に食べるカップヌードルやおかきなどのお菓子はすべてドクターによって没収されたという経緯もあります。)

そうなると調子に乗り、体にいいからと自然薯を介護さんに買ってきてもらい、キッチンですり、何日かに渡って食べようとして、この暑さなので介護さんに腐ってると捨てられ、それで怒って大暴れして暴言も吐き、それが何度もあり、もう、このままじゃ、施設にはいられなくなるというところまでの大騒ぎになりました。

自分で言うのもおかしいですが、わたしはそこそこ父親孝行をしてるつもりですし、主人の協力もとてもあります。弟家族もなにかと父を気遣い、息子夫婦という世間の立ち位置で考えるよりもだいぶ、父に寄り添ってくれていると思います。親戚も常に父を気にしてくれてます。

なのに、自分は誰もかまってくれない、死んだほうがええんやろなどと毎晩、悪態づいた電話をしてきます。

これ、ほんまに、家の中で一緒に暮らしてたら、あってはならない事件に発展する、なんてことがたしかに、想像できてしまうなぁと正直思う日々が続きました。

仕事も目一杯やって帰り道に昼間にかかってきてた留守電に吹き込まれてる父の愚痴、文句、怒鳴りを聞いてから慰めるために電話し、また悪態づかれて、施設さんからももうどうしようもないですと相談されて、わたしの心はもう崩れかける寸前だったある日の土曜日。

その日は父の母である祖母の命日。

祖母に心の中で訴えかけました。

あなたが産んだ息子さん、どうしたらいいですか助けてくださいと。

でも生きてるわたし達が乗り越えねばいけない事態なんですよね。

そして、これを書いてる今、乗り越えたかというと、そうでもなく、まだ悩みの中にいます。

が、とりあえずいま、施設から追い出されてしまうことは避けたい。ほかの施設を探すのがしんどいではなく、もちろん父が実家に戻り、一人暮らしをするのはもう不可能だと思いますし、(今のサ高住入居前は、もう一人暮らしは限界だと言ってましたし)私達子供の家にというのも共倒れになるという懸念もあるのももちろんですが、今のサ高住の施設長さんやケアマネさんの想いをお聞きし、何回もお話を聞き、これだけ入居者さんのことを考え、家族さんのことを考えられてるこの施設さんでお世話になっていきたい、ここで無理ならどこも無理という思いがとても強くあるため、なんとか今回も乗り越えていきたいと思うのです。

なので、、

とりあえずの策として、

私の体調がすこぶる悪くその原因は父にあり、あなたが困らせるストレスで私の体によくない病気が襲いかかっていると訴え、号泣をしてみました。。

ほんとにとりあえずです。

やっと父は謝ってくれました。

体が不自由になり、自分でもなんでも出来てきたつもりでいるのにそれがなかなか思うどおり出来ず、施設でこれも禁止、あれも禁止と、それは父のために言ってくださったとしても、なにもかも自分の敵だと思ってしまう。きっと父だけではなく、お年寄りや障がいのあるかたが少なからず思われることなんだと思います。

その時に、感情をむき出しにせず、まわりを不快にさせず心をコントロールする訓練が父には全く足りない、それが全ての私のストレスの種。

ただ、祖母が現在の施設に入居したころも最初の5年ほどほんまに色々ありました。祖母は日頃感情を出すタイプではないのに、同部屋のかたと喧嘩してその人を部屋から引きずり出すようなことまでやってました。

そう考えると、、全くなにもなく新しい入居生活がすんなりうまくいくなんて、余程の人間出来た方でないと難しいのかもしれないなぁと思います。

 

仕事中は、もちろん仕事に専念しているので全く父を思い出すこともないくらいです。

もちろん、仕事上のストレスは誰にでもあるものですが、私生活のストレスを忘れさせてくれる仕事があることに本当に感謝し、もし、介護や子育てでストレスを抱えられてるかたがおられるなら、もちろん趣味で発散もあるでしょうが、なにか没頭できる仕事でお給与もいただいて両立させていくのは大切なストレス発散方法なのではないかと思いました。

私が遠隔介護ブログをここで始めたのもその思いがきっかけでした。

まだまだ続く、ストレスの種との向き合い生活。

元気に乗り切れるように、本当に私が病気になってしまわないように、せめて父より長生きできるように、あしたからも頑張ります。

このブログもそんな私のストレス発散方法なのかもしれません。お付き合いありがとうございます。

そんなストレスの種の父に、こんなかわいい手作りマスクを渡した私。

できた娘だと思うんですけどね♪

でも免疫力をあげて、新型コロナに負けない体を作れるように、この夏も笑顔で乗り切っていきたいものです。来年の夏は、高校球児が、甲子園球場で戦う姿が観れますように・・と、

五輪ももちろんですが、通常の事が通常に行われる事を楽しみに強く生きていきたいですね。

 

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遠隔介護ブログ(第28回)

こんにちは、コーディネーターの渡邉です。

まだまだ新型コロナウイルスの影響をうける毎日ですが、医療職の方々におかれましては、私たちのような一般のものが感じている不安などより想像もつかないほどのご不安と緊張感の中で日々ご勤務、そして生活を送られていると思います。本当に毎日感謝の思いです。
まずはそのお礼から今回は始めさせていただきたいと思います。

いつも本当にありがとうございます。

 

毎回書かせていただいておりますように、この遠隔介護ブログの主役の父は一人暮らしの末に、サービス付高齢者住宅に4月から入居。その中で、この新型コロナウイルスの緊急事態宣言発生という状況を迎えました。

入居が4月4日でしたので、その翌週に緊急事態宣言が出されたわけですが、緊急事態宣言発令中の県には住んでいるものの、もちろん、市区町村によっても、感染者数の凸凹はあり、緊張感もやはり違います。

郊外に住み、そのまま同じ市内の施設に入居した父には、阪神間に住む私の緊張感はあまり伝わらず、入居してからは「好きな時間にご飯が食べれない」「せっかく行き出したデイサービスが、緊急事態宣言解除されるまで閉鎖になった」「目の前にスーパーマーケットあるのに、今は行ったらあかん言われる」「髪の毛も切りに行かれへん」「風呂も自由に入られへん」「トイレがウォシュレットじゃないから便秘になる」「友達に電話しても今は会いに行かれへん言われる」などなど、一人身の自由さから、施設入居である程度ルールを守った生活になるための不自由さ、そこに緊急事態宣言も加わった不自由さで、毎日、3回・4回と電話をしてきます。
もちろん私は仕事中なので出ないと、何度も何度も留守電に入れます。

私に言い足りない時には、施設長さんに電話をして直接嘆いたり(それも朝の5時~夜中まで)、以前通っていたデイサービスの所長さんや自分の弟や友人たちに電話して、自由がないと愚痴を言ったりと、本当に、「人の迷惑顧みず」「人の時間に土足で踏み込む」という甚だ迷惑な存在にどんどんなっていきました。

私が、3回も4回もの電話をとれずに、夜ようやく仕事が終わって電話すると、怒り口調で「わしを殺す気か(ウォシュレットにしてくれないから便秘がひどすぎて)」と怒鳴ったり、「情けない、もう死ぬしかない(食べたいものが食べれない)」と泣き出したりと、こちらがおかしくなるんじゃないかという思いで、新型コロナウイルスによるストレスも忘れるくらいのストレスを、父から4月は日々与えられました。

そんな中、以前お世話になったデイサービスに父がお借りしていた服を返却に伺うと、所長さんが「お父さん、こないだ電話くれたよ~また所長に会いたい、デイに行きたいてゆうてくださって、まだ頼りにされてるのが本当にうれしかったんです。」と言ってくださったんです。「ご迷惑ではないですか?」と聞くと、「とんでもないです。私らのこと忘れんとおってくださって、その上、会いたいって頼りにしてくださるなんて、本当にありがたい。またお祭りの時とかいつでも遊びにきて、いつでも電話してきてってお父さんには御伝えしましてん。」とのお答え。もう天使に見えました。それは父も甘えて電話したくなるくらいの優しさですよね。

現在の施設の施設長さんも、本当に、介護の知識・経験が豊富な方で、1週間もすれば父の扱いにも慣れてくださり、夜中や早朝の電話は出なくても大丈夫であること(緊急ではないこと)や、ウォシュレットトイレにも父の部屋だけ対応いただけること、食事も皆と同じ時間が無理なら、部屋におにぎりとおかずを届けてくださり自分の好きな時間に食べれるようにしてくださるなど、本当に施設自体の無理のない範囲で父に適応してくださりました。

そして、私が感動したのはとにかく、リモコンをなくす、財布をなくす父に関して、ベッドサイドに紐を何本もつけ、財布をつないだり、リモコンにはスマホアクセサリーで使うリングをつけてそれを紐でつないで、なくさないようにして寝ながらすぐにとれるようにしたりなどアドバイスをくださり、私と主人でその対応をすると、「物がなくなった」の電話はかなり減りました(それでも、薬をなくしたり、料理バサミをなくしたり、何かと紐でつなげないものはなくすのですが)。

このように書くと、どんどん問題は解決し、安心・安全に暮らしているように受け取っていただけるかもしれませんが、デイサービスが閉鎖されていることで、日々のリハビリがないため、とたんに歩けなくなり、今は、推し車だった生活から、自走式の車イスに変えて生活をしていますので、おそらく便秘もトイレがウォシュレットではないということよりも「運動不足」というのがありえると思います。デイサービスにも行かないと、朝に起きなくなり、規則正しい生活が出来てないので、それも体調不良、ずっとどこか不調という原因でもあります。

ただ、私たち家族ももう「健康で長生き」ではなく「生きている時間の父が少しでも機嫌が良ければ」という思いのみにかわっているため、「健康でいる努力」を父に求めるのは、期待するのはやめました。。。冷たいかもしれませんがそれが現実です。

緊急事態宣言でも、家族が外に散歩に連れ出すのはOKをしてくださってる施設なので、父の車イスを押して、施設の近所を散歩した時にとっても面白い銅像に出会いました。

今まで何度も車で通った道なのに。車イスを押しながらの目線で、ゆっくり歩くと、初めて発見出来た銅像。疲れ切った心が一気に笑顔になる銅像の表情に本当に癒されました。

そして、瀬戸内寂聴さんが介護をしている方へ送った言葉の中にある「まずは、(介護する相手を)褒めてあげてください。」というのを思い出しました。

そこからは、どんなに自分がつかれていても忙しくても、父からの電話には明るい声で出て「お父さん、今日もいい声やね。」「元気そうで良かった。」と出来るだけ、プラスの言葉をかけるようにしています。

そうすると少しだけ、父からうけるマイナスな言葉も減ってきたように思います。(期待するとどんでん返ししてくるのがここ数年の父なので、今の自分の心がけが成功しているのかどうかは本当にまだわかりませんし、気が抜けませんが)

でもやっぱり相手を変えるにはまずは自分から。
それを身近な家族とのやりとりで本当に教えられる毎日です。

そういったことを仕事や私生活でも活かしていって、心に余裕のある人間になっていけたらなあと、心底思います。
日々、やはり勉強ですね。しんどいことこそ、自分を成長させてくれますね。

 

まだまだ世界中の人たちがしんどい日々が続きます。

その中でも良かった事探し・・地球がキレイになっていっていること、自分磨きの時間が増えることなど、関わる相手をまずは褒める、自分を褒める、良かった事探しをするを1日1回ずつ心がけて、ちょっとでも笑顔の時間が増えるようにしていきたいものですね。

長くなってしまいましたが、今日より明日が少しでも良い1日でありますように、次書かせていただく時こそ「ようやくマスク外せそうですね!」と書けますように。

願いをこめて、遠隔介護ブログ28回目を終わらせていただきます。

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遠隔介護ブログ(第27回)

こんにちは。コーディネーターの渡邉です。
遠隔介護ブログ27回。

前回も、前々回も、新型コロナウィルスが早く終息しますようにと書かせていただきました。が、緊急事態宣言まで出るという状況になり、世界中のみなさんが日々、恐怖とストレスの中で闘っていらっしゃることと思います。

私はというと、、新型コロナウィルス以上に、施設入居を始めたばかりの父の我儘、自由奔放さにふりまわされ、いらだち、ストレスを抱えており、父のその言動のおかげで、新型コロナウィルスの脅威を忘れそうになることもあります。。

そのストレスについては今は少しおいておくとしまして。

父が施設に移ってから、主人と2人で父が暮らしていた実家の掃除を2週間に1回、2時間ずつくらいですがしておりまして。

冷蔵庫の中も、どこも、かしこも「なんでこんなんほかしてないのん。」という賞味期限のきれた食材や買い込んでる缶詰ものや、使いそうにもない物品だらけ。

どんなに体がしんどくても、流し台は洗いきれてない食器が山積みでも、父が必ず自分で掃除を続けていた大事にしていたお風呂場には、お掃除グッズも沢山。

家の中すみずみに、母が亡くなってからの11年、父が頑張って不器用ながらに生活してきた証があふれていました。

わがままで自由気ままでまわりを振り回す父ですが、ほんとに必死に生活していたんだと実感しました。

二度とこの家に戻らないわけではないけども、もちろんお正月などは、この家に連れて帰り、一緒に過ごせたらとも思ってますが、かつては家族6人で暮らした家に今はもう誰もいない、それがあらためてとても寂しいことなのだとわかり、なんとも言えない気持ちになりました。

昨年9月に亡くなった祖父のお骨は1周忌がくるまで、お墓には入れずに祖父が誇りにしていた大きな仏壇の前に供えています。

父が施設に入るにあたり、父以外の弟妹、祖父の息子、娘に持って帰ってもらおうかと相談すると、「おじいちゃんはこの家が好きやからこの家を守ってもらおう。」と、それこそ、ひとりぼっちで寂しいかもしれませんが、お留守番のお願いもこめて仏壇の前にそのまま居てもらうことに。
私達夫婦や、叔父が、2週間に1回ずつはお参りに帰り、お花をかえようということに。

父の施設生活は始まったばかりですが、冒頭にも書かせていただいたように日替わりでいろんなことが起こります。それはまた追々書かせていただきます。

 

次回、このブログを書かせていただくときにはなんとか、緊急事態宣言が撤廃されてると信じて今、自分が出来ることをしっかりやっていきたいと思います。

 

マスク不足のなかですが、我が家では、マスクホルダーをゲット。

キッチンペーパーさえあればマスクになる、素敵なアイデアを、四国のかばん屋さんが、自社のカバン作りで余った革を活用して作られたものです。

不足しているものをどうカバーするか、様々なアイデアが生み出され、物を大切にする風潮が広がっていることや、地球がきれいになっていっているのは憎き新型コロナウィルスではあるものの、人間として考えさせられる光なのかもしれません。

 

日々、この事態の中、闘ってくださっている医療職の方々に感謝をしながら、今回のブログを締めくくらせていただきます。


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遠隔介護ブログ(第26回)

こんにちは。
コーディネーターの渡邉です。

コロナウィルスの影響でイベントなどは自粛。
ということで弊社も3月に予定しておりました、心電図セミナーと4月に予定しておりましたフィジカルアセスメントセミナーを中止させていただきました。
ギリギリまで開催したいと対策をねっていたものの、講師の先生も参加者様もドクター及び看護師さんということで、このコロナウィルスに最前線で注意を払われておられる方々、中止はやむを得ないという状況が理解できました。

もちろん、世界中の人たちが楽しみにしてたイベント、学校行事、観光等々を自粛して、家族で過ごされる時間も、想定以上に増えているかと思います。我が家もそのように、セミナーでの出勤がなくなったり、様々なイベント中止をうけ、もともと映画好きの夫婦ですが、いつもより多めに映画館に通えました。

映画館に行くのも自粛したほうが良いのかとも思いましたが案外、これが映画館、にぎわってます。
アカデミー賞最優秀作品賞の「パラサイト半地下家族」と、アカデミー賞最優秀主演女優賞の「ジュディ虹の彼方に」を、この2週間でたて続けに観ました。そもそも先に「フクシマ50」を観ようと思ってましたが、少しだけ、いま、コロナの不安で心がしんどいので、笑えたりほっこりするものを観たいなと。
なめてました、パラサイト半地下家族。心がえぐられます。
ジュディは、ハリウッドで活躍した実在の大女優の一生ですが、これもまた胸うつものがあり、幸せってお金で買えるのか買えないのかを考えさせられる2本でした。

本を読む時間も増えました。
何かしら、このコロナウィルスの影響もプラスに考えないといけないなぁと思う毎日です。

そんな中、この遠隔介護ブログの主役、我が父は、高齢者大学大学院を卒業、卒業式で無事に卒業証書をいただくことができました。
私は車椅子の父を押す担当で列席させていただきました。
他の市町村の高齢者大学は卒業式中止もあるそうですが、父の通う高齢者大学では無事に卒業式が開催できました。たしかに、コロナにかかると一番危険な年齢層が集められるので普通は中止ですよねと、事務長さんが自虐ネタも言われてました。

開催できた卒業式ですが、来賓や在校生の出席は無しで謝恩会もお弁当を食べるだけに変更されました。
決行することに至った理由や流れを説明されてる事務長さんは涙ぐまれてました。それだけ、やるも批判覚悟、やらないはつらすぎるというどちらにしても苦渋の決断だったのだと思います。

小中高の卒業式も来賓、保護者列席できないだらけだと思うので、日本で身内の卒業式に参加させていただけたのは私だけではないでしょうか。

仰げば尊しも蛍の光も、一緒に歌いました。

私自身の高校の卒業式では、父がPTA代表で挨拶しました。
2ヶ月前に心臓の大手術をしたばかりなのに名誉あることやと、挨拶は断らず痛い手術痕をおさえながら挨拶してくれました。

そんな父の目標だった高齢者大学大学院卒業を後ろから見守る私。

定時制高校に通いながら大工になった父は、学歴コンプレックスがあったそうで、本当に念願の高齢者大学〜大学院、6年間の通学だったようです。
卒業式の日までそんなコンプレックスを私には話さなかったのですが。

もちろん、休みがちでした。体調もありますし、元気な方のように修学旅行も行けず、お弁当も作れないし買いに行く車も失い、お昼ご飯がどうにも出来ず、泣く泣く休んだこともありました。でも、辞めずに卒業証書をいただきました。

車椅子押してくださいと言ってくださった事務長さんに感謝、そして、そのような理由での有給休暇を、快く認めてくださった上司に感謝してます。

ラスト大学院の校歌斉唱、その校歌は私の中学時代の恩師の作曲。
恩師は、とてもピアノが上手でその人のもとでいろんな歌を歌わせてもらい(中学生で、五輪真弓さんの「恋人よ」とか練習させてもらいました)、それが今の私のワークステーション音楽隊入隊にもつながっているので、恩師には感謝しかありません。

30年近く前、14歳の私は、故郷の歌を父に言われて作詞し、その詞に、その恩師が作曲してくださり、今でも、故郷では歌われているという田舎ならではの想い出もあります。

そんな私にとっても思い入れ深い卒業式も終わり、教室に戻り一言ずつ挨拶される中での父の挨拶は、「車椅子の自分がみなさんと一緒に卒業出来たのも、皆さんの優しさのおかげです、遠足のときも車椅子を押して下さりありがとうございました。みなさんも、わたしの存在で、障がいのある人への接し方を学んでいただいたのではないでしょうか(このへんが父の前向きなところです)、そして、わたしは4月から高齢者住宅◎◎へ入居が決まりました。市内にありますので、遊びに来てください。施設を考えてるかたは、とてもいい施設なのでぜひ入居してきてください。そして、施設に入っても皆さんの集まりには参加したいので、絶対に誘ってください。本当に6年間、ありがとうございました。素晴らしいクラスでした。」

何かを読むわけでもなく、自分の言葉でしっかりと、今でも私が思い出せるくらい端的に感謝と思いを全て詰め込んだ、良い挨拶だったと思います。

 

父は大学院卒業を1つのけじめと考えてました。
卒業したら施設入ってもいいと、ずっと言ってました。それが実現します。

来月の引っ越しに向け、私は土日、準備にもけっこう時間を使ってますが、父のその前向きさに助けられ、なんとか順調に手続きも、必要なものの購入もすんでいってます。
不安だらけですが、きっと父が1番不安なので、いつでも会いに行くからねというのを全面に伝えながら、春を迎えられるようにしたいと思います。

今回もとても長くなりました。
遠隔介護ブログ26回目。

次書かせていただくときには、コロナウィルスでのイベントや通学自粛が解かれてますように、願いをこめながら締めくくります。

遠隔介護ブログ(第25回)

こんにちは。
コーディネーターの渡邉です。

遠隔介護ブログも25回目。
いつも長文になってしまうので今回は短めに。

前回書かせていただいた独り暮らしの父が、サービス付高齢者住宅に入居する事が決定したことの続きです。

自分の目で見学した父はとっても気に入り、実際の入居は4月からですのであと1ヶ月ちょっとあるのですが、もうそこに住んでる夢も見るくらいだそうで。

そして自分の友達にも電話で宣伝を始め、場所や中身の説明、そこから入居価格や、施設名の説明になると私に電話をかわり、最終その施設の連絡先まで教えて、新築なので部屋が空いてるうちに自分の知人もなんとか一緒に入居出来たらと積極的に活動する状況。

施設の社長さんの眼の前でもそんな電話を父が始めたので、「営業してくれてはりますね。」と、社長さんも微笑ましく父を見守ってくださいました。

なんにしても、この前向きさは見習わないといけないなぁとあらためて思いました。

ほんとは不安も寂しさもあると思います。
生きてきて、初めて実家を出て暮らすことになる父ですから。

 

私はというと、ここから休みの日は、ほぼ、父のその第二の住処への準備に走り回ることになると思います。
施設と言ってもマンションの一室と同じ。ちょうど春から、独り暮らしをされる学生さんや新入社員さんたちと同じように新しい生活用に色々準備することになります。

主人に、「カーテンくらいはお父さんに好きな色、柄、選んでもらったら?」と言われましたが、最近の父は暇さえあれば寝たいので、「買い物行こう。」と連れ出しても、お店に着くと「車で寝とくから買ってきてくれ。」なので、カーテンの柄がどうとかも、もうこちらに任せてもらうことに。

ケアマネさんも、今までデイサービスや在宅介護でお世話になってるケアマネさんとは替わります。施設のケアマネさんになります。

父は不安がってましたが、施設のケアマネさんも、今まで長年お世話になったケアマネさんのお友達と知って、ひと安心。要介護と認定されて生きるには、どんなケアマネさんに出会えるかで、確かに生活のしやすさは全くかわってくると実感します。

施設も、別のサービス付高齢者住宅を見ていたときに、入居時に印鑑証明や戸籍謄本や、用意するものが多くて、平日に仕事休まないといけないなぁと3月はただでさえ年度末で仕事忙しいのにどうしようと思ってましたが、今回決まった施設さんは、「介護保険証があれば不要ですよ」と言ってくださいました。

なので、後はお金のやりくりと、入居への日用品をそろえるだけ。
お金は確かにかなりかかります。高級有料老人ホームじゃなくても、それなりにかかります。父にも今までよりは少し節約してもらわねばと思います。

また違う闘いがここから始まるのです。
自分の老後も考えると、貯金ってすごく大事だなぁと思います。

 

でも、、やっぱり、頑張ってる自分へのご褒美と、食べたいものを食べ、欲しいものも買ってしまいますね。。
色んなものを我慢できませんが、私は観たい映画の我慢が出来ません。忙しくても体調不良でも金欠でも、観に行ってしまう映画。
2月は3本。

◎嘘八百
(関西人にはたまらない笑いがたっぷりの映画)

◎グッドバイ
(太宰治さんの未完の小説が映画化)

◎フクシマ50
(東北の震災時の福島の原発の実話)

で、来月はまずはパラサイト半地下家族をおさえようと思います。今更ですが。

 

なんにせよ、歳を重ねるほど、現実を受け入れ、意地をはらず、周りの人の意見を聞き、前向きに人生を考える、、
それがどれだけ大切か、父の今の状況から教えられる事が多い毎日です。

結局今回も長くなってしまいました。
次回書かせていただく頃にはCOVID-19が終息し、穏やかな春が来てますように。

 

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遠隔介護ブログ(第24回)

こんにちは!
コーディネーターの渡邉です。

新型肺炎のニュースが日々流れる中、花粉が飛ぶ季節にもなってきたのにマスク不足、、不安な日々が続きますね。
早くこの新型肺炎の感染の広がりも終息を迎えてほしいと願うばかりです。

暗いニュースが多い中、私はこの本を読んで少し心が温かくなりました。

昨年亡くなられた女優の樹木希林さんの言葉を集めた「一切なりゆき」。
以前から読みたいと思いながら購入出来てなかったのですが、先月、弊社の休憩ルームの本棚が一新されて、そこに置いてある本はすべて借りられるという幸せな状況になりましたので真っ先に借りました。

樹木希林さんを好きな方は多いと思います。私も大好きで、たくさんの映画、ドラマ、樹木希林さんが出てらっしゃるというだけで観たりもしました。
その中でも、「寺内貫太郎一家」は、脚本の向田邦子さんのことが無茶苦茶好きなので、放映されてるときは私はまだこの世に誕生してないため、再放送などを探して何度も観ました。そこにはまだまだ若い樹木希林さんが、おばあさん役で出られており、今回読んだ本にはどうやって役作りしたかの工夫も書かれてました。
そんな女優としての話や、妻として、母として、祖母として、1人の女性として、いつもくよくよせず前向きに、自然に生きてこられた姿が、樹木希林さんの一言一言からうかがえ、読んで良かったと心から思える一冊でした。

 

さて、遠隔介護ブログももう24回目。
前回は、一人暮らしが限界に近づいてきたかも、、と書かせていただいた父のこと。

そのあとすぐに、弟が父のケアマネさんに施設入居を相談してくれたら、ちょうど新築されるサービス付き高齢者住宅が、父が住む市内、しかも父の弟家族宅の近く、電車の駅も近いし、前にはスーパーマーケットもあり、抜群の環境の中にオープンされる事を聞き、ケアマネさんはすぐに施設見学に行ってくださり、書類をもらってきてくださいました。

その書類を見て、私と主人もすぐに見学に行きました。
新築なのでもちろん綺麗なのと、隣には小規模多機能施設も併設されており、看取りまでされてる事も知り、そういった施設を昔から経営されてる代表者さんの知識と経験が詰まった、考えつくされたサービス付き高齢者住宅だと心から思い、ここがいいと1件しか見学してないのに、決断に近い思いになりました。

ただ、入居するのは父。
まだ父が本当に施設に入りたいかどうかも不明です。

翌々週、父が私と主人が暮らす家に泊まりにくる機会があったので、その中で、父と向き合い、そのまま見学に行こうと話しました。
父は、自分でももう一人暮らしがしんどく怖いと思っていたようで、前向きに考えたいと話してくれました。

父が泊まりに来たときもやはり、父にとっては1年に1回泊まってる娘の家でも

*ベッドの寝心地
*お風呂の高さ
*廊下に手すりがないこと
*皮膚にぬる薬を忘れてきたこと

など、いろんな不便があり、寝ようとしても寝れないくらい、あ〜してくれこうしてくれと呼ばれて私のイライラはピークに。

遠隔介護ブログなんて書かせて頂いてますが、共に暮らされて介護されてる方はこれが365日続くのかと思うと本当に大変なことだと感じ、やはり、介護というのはプロに任せないといけないと新たな思いにもかられたのです。

父自身での施設見学も終え、父も施設を気に入り、明日からでも入りたいと言い出し、もちろん準備もあるので2ヶ月ほどはかかりますが、おそらく入居にはなります。

自分のなかでは、父の一人暮らしの終焉を考えてからトントンと話が進んだので、これもご縁だなと前向きに捉えました。

お金のこともたしかにかなりかかります。
が、父が一人暮らしをしていることで買い物に行ってくれてるガイドヘルパーさんの費用、光熱費、買いすぎてしまう買い物の金額など考えると、そこまで負担が増えすぎず、やっていけるのではないかというカツカツのラインです。

父の思いもかたまり、ホッとした夜、あるドラマを、主人と観ていたときに涙が溢れてきて、ドラマを観ながら泣くのは私のいつものことなので、主人も最初はなんとも思ってなかったのですが、その時は涙が止まらず嗚咽になり、だんだん主人もどうしたんや?という顔になってきました。

父が施設に入居すること。
母が末期がんと分かったときに祖母(母の母)を施設に入れたときの母の気持ち。もう2人で暮らすのが限界、老老介護の限界を感じ祖父が施設に入ったときの父の気持ち。いろんなことを考え、やっぱり辛かったよねと思い起こすと(未だに父は、祖父の最期を家で看取れなかったこと、認知症病棟のようなところだったので、飲食も外出も自由ではない環境に祖父をおいてしまったことを悔やんでいるので)今回、自分のした選択がこれで良かったのか、父は本当は辛いのではないか、せっかく、あんなに大きな実家があるのに、子供も2人もいるのに自分の生まれ育った、一度も出たことない村を出るなんてかわいそうじゃかいかなど、いっぱい考えました。

ただ、主人からお父さんにとっても楽になるよ、ベストじゃないけどベターな選択やと慰めてもらい、たしかに、見学に行き、先に入られてる入居者さんに自分から自己紹介して馴染んでいこうと、さっそくする父。ここなら友達も来てくれやすいわと笑顔で語る父を思い起こすと、父にとって初めて実家を置いて便利な町で暮らせる貴重な機会を、まだ少しは体が動くうちにもてることは、幸せかもしれないと思えるようになりました。

全く家に帰れないわけではなく、届けさえ出せば外泊も外出も可能ですし、実際に今年は祖父や祖母、母の法事もあるので、そのときはまた親戚と実家に集まることにもなるので、そういった安心もあります。

ということで、この遠隔介護ブログでずっと書かせていただいた体の不自由な父の暮らしも、そろそろ違うステージにと向かうことになりました。

まだまだ準備段階ですし、実際施設生活が軌道にのるまではいろんなことが起こるのも覚悟しています。
すべて、経験として考えまた皆様に発信していけたらと思ってます。

今年の春も忙しくなりそうです。

 

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遠隔介護ブログ(第23回)

2020年もどうぞ宜しくお願い致します。
コーディネーターの渡邉です。

皆さんは穏やかな冬をお過ごしでしょうか。
私にとって、母が亡くなってから「冬」はけっこう、しんどいものになってます。

冬は寒い、当然のことですが、西宮のマンション住まいの私にとっては昨今の暖冬、家でも会社でも、そこまでもちろんきびしいものではありません。

ただ、もちろん雪国ではないですが、兵庫県の田舎、山間の通気性が良い、ザ日本家屋での一人暮らしをする父には本当に厳しいもので、まず、祖父が生きていて老男2人暮らしのときは、祖父がよく倒れました、というか、ずる賢いところもあった祖父は、倒れたふりをして入院して、温かい病室で冬を越そうとしてたのではないかと今は想います。

そして、父一人暮らしになると、水道管が凍って破裂して水が使えなくなったり、年老いて体もどんどん不自由になるなかで、ドアの開け閉めがしんどく、一階だけで7つはある部屋の扉全部開けっ放しにしたまま一部屋用の暖房器具を3台くらい全部つけっぱなしにして温めようとするので、31度設定にしているエアコンに負担をかけすぎ、室外機が騒音レベルに鳴り出したり、全くエアコンが効かなくなったり、1ヶ月の電気代が10万を越えたり。。。

全部、父の少しの努力で改善されるとはわかるものの、一人で頑張って暮らしてる父。そして、心臓が悪いので節約して寒い部屋にいて心臓発作を起こすのが怖い、と毎日恐怖を語る父にあれこれ言うのは、酷ではないかと考え、早く春が来ることをひたすら願う、、。
そんな毎年の冬を繰り返してます。
もちろん、寒くて体がこわばったまま歩くので、こけて頭打って、体も打って入院したこともありました。

叔母にも先日言われたのが、「独り身の男性は、冬がこたえるらしいよ、淋しくて」という言葉。

女性と男性で区別する社会ではなくなってはきてますが、たしかに、若いならまだしも、体もどんどん動きにくくなってくるお年寄りになっても、女性はお一人でも気楽やわ〜とか、自由やわ〜と、謳歌されてる印象があるのに男性は背中がまるまり、哀愁漂う雰囲気を出されてるかたが多いなぁと思ってしまうのです。それが寒さも加わると余計です。

そんな冬、今年もやはりエアコンの室外機が壊れ、隣の家が弟の幼馴染さんが住む家なので、音で気づいて弟に連絡をくれて、幼馴染さんがうちの家に入ってくれて、まずエアコンを消してくれ、わたしの友達のご主人で工務店をされてる方にすぐにみていただき、室外機に氷が出来ているとのことで(本来凍らないように中身は出来てるが、あまりにエアコンを酷使するのでその機能が追いつかなかったと)、それを取り除いていただき、普通に使えるようになったのに、1ヶ月経ってまたまた同じ状態に。
そのときは、近所に住む親戚に状況確認をお願いしました。
騒音被害にもなるので、もうその部屋のエアコンは使わず、電気ファンヒーターでなんとか乗り切ることに。

昔は、石油ストーブでなんとかなってました。石油ファンヒーターももちろん。でも、灯油を給油することが年老いた父にはきつく、危ないとも思い、電気に変えました。
オイルヒーターも買いました。危なくないように。オイルヒーターは高いです、しかも、オシャレすぎたのが盲点。
何回教えても使いこなせないので、父はイライラするばかり。

近所も知人も親戚も巻き込み、弟家族と私達夫婦でもあちらこちらに連絡とりながら、また、帰省すればその点検と今後の対策をねり、莫大な電気代とも向き合う日々。

正直、そろそろ限界かもしれない、、という思いが今年の冬は襲ってきています。

最近は昨年亡くなった祖父の法要などで、親戚と集まることも多いため、そろそろ、父は高齢者住宅か老人ホームか考えないと、週3回のデイサービスと週3回のホームヘルパーさん、週1回のお買い物ヘルパーさんに頼る、要介護2の父の独り暮らし。
限界という二文字を現実に考えるときが来た、そんな2020年の幕開けです。

 

私も弟も、もうそれぞれ仕事と家族があり実家には戻れない。では父を自分のところに呼べるのか、、それはそれで違う難しさがある。
たくさんのご家庭が抱えられてるお悩みだと思います。

以前、高齢のお母様を故郷から大阪市内のマンションに呼ばれて生活を始められた50代の看護師さんが、お母様が都会のアスファルト暮らしに馴染めないと言われてるとつぶやかれてたのを思い出します。

何が正解なのか、どうすれば良いのか、そんなときに思い出すのは、母が亡くなった時、あ〜すればよかった、もっとこうしたかったと嘆く私に、年上の知人女性がかけてくれた「何をしても親を見送って後悔せんことはないよ」という言葉です。

父とどう向き合うか。

父は、「高齢者大学の大学院卒業したら、老人ホーム入りたい」と言ってるので、その言葉を鵜呑みにするか。(ちなみに卒業は今年の3月。この高齢者大学の大学院でも様々なことがありました。それはまた後々書かせていただきます)

まずは、父とよく話し合い、ケアマネさんとも相談し、父の暮らしの不安が少しでもなくなるような事を、今の経済力で出来る最善を考え、実行する時期がきたことを認識して動きたいと思います。

 

日々、父に何かあって呼び出されたらどうしようと、ここ数日、あまりにも気弱な父からの電話「寒い、体動かへん、大学院休んだ、デイもしんどくて帰ってきた」などの嘆きを聴いてると、不安だらけでしたが、楽しみにしていた、東京旅行はなんとか無事終えることが出来ました。

主人が永年勤続表彰で東京に行けることになり、便乗してむこうの友人に会ったり、表彰終わった主人とずっと行きたかった柴又、男はつらいよの寅さんの聖地などに行ってきました。

外食もキャッシュレス、手紙ではなくメール、買い物もインターネットでなど、寅さんが生きた時代と大きく変わるこの世の中で、人情がなになのか、人とのつながりの大切さがなになのか、ゆっくり考えさせてもらえる旅でした。

年末から公開されてる「男はつらいよ おかえり寅さん」も、とっても良い映画ですよ、この寒い冬にあったかい気持ちになる素敵な内容、オススメです♫

 

少し暗いブログになってしまいましたが、また父のこの限界独り暮らしの続編は、随時、書かせていただければと思います。

 

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遠隔介護ブログ(第22回)

こんにちは。コーディネーターの渡邉です。
遠隔介護ブログ22回目です。

季節がどんどん進み、すっかり朝晩冷えるようになりましたね。
私の実家がある兵庫県の内陸部は、山も色づき始めました。

 

前回95歳の祖父が亡くなったことを書かせていただきました。

母が亡くなったときは、もう終末期に入っていることが家族で認識出来ていたので、悲しくて悔しいながらも母の死を受け入れる準備も始めていたのですが、祖父はこの10年、親戚で「危篤詐欺」と呼ぶくらい、危篤と病院から言われて、みんな病院にかけつけてみては持ち直す。というのを繰り返してましたので、まだまだ生きていてくれるという気になってました。

が、それはほんとにある日突然で、私たち夫婦と父とでお彼岸のお墓参りをして帰ってきた夜中に、祖父のキーパーソンとして病院に連絡先を伝えている私の弟から電話が鳴り、亡くなったとのこと。

そこからの数日は、死亡届の提出、病院からの荷物の引き上げ、通夜、告別式への用意、家の掃除など、、目まぐるしく「しないといけないこと」がおとずれ、母の死のときにも感じたことですが、身内の死を悲しんでる暇がないくらい、寂しさを感じる暇もないくらい、やらないといけないことが多いのが身内の死、、ほんとにそうでした。

弔問してくださった、古くから家族ぐるみの付き合いをしている60代の知人に言われたのが、「私まだ、家族見送ったことないねん。めぐみちゃん私よりだいぶ若いけど、もう2人も段取りしてやってんねんな、プロやな。」という言葉。

あっけらかんとしてて、悲しさや寂しさや忙しさの中でも、私は声を出して笑ってしまいました。

ほんまや、私はもう40代前半で二人も自分で段取り考えて見送ってるんや、経験値どんどんあがるやんと。

正直、祖父の死で、他の孫たちより仕事を休まないといけない日数も多かったり、考えないといけないことも多くてクタクタだったんですが、その言葉にちょっと勇気付けられたのと、もう1つ、私を鼓舞させてくれた言葉が。

祖父が死んだら、もちろん喪主は跡取りであるうちの父。
そして、父の妹弟もいますので、孫の私がいろいろと手配したり動くのもほんとは役割ではないんですが、亡くなった母から、そういう家のいろんな行事の引き継ぎもうけ、田舎ならではの特有のご近所のつながりなども教え込まれてるため、私がちゃんとしなきゃ、でもほんとは私じゃなくてもいいのに、、と、どこかこの役割を、やらされてる感があってモヤモヤしてたのも確かなんです。

通夜の寝ずの番のときも、父と父の妹弟は寝ており、私と主人、弟夫婦と、従妹という孫たちで夜中じゅう起きて色々話してたんです。

そのとき、私がふと、ほんまは孫じゃなく子がやることやんなぁと呟くと、弟の嫁、私の義妹に、「でも、私らのほうが若いですもん。若くて元気で、だから出来る人が出来ることすべきなんです。自分の子供にもそう教えたいから。」と言われたんです。

あ〜義妹ちゃんも家族になって、この役割を、やらされてる感ではなく、ちゃんと自分のできることと捉えて考えてくれてるんやなぁと嬉しくなり、私ももう立場がどうとか、そんなこと考えてたらあかんなぁと思いました。

自分が段取りを考えさせてもらえるので、ある程度私の予定に合わせてお寺さんへもお願いが出来ますし、内容も告別式の規模なども親族の想いを聞きながらとはいえ、私の都合が一番優先させてもらえます。

決められたことをやることより、ある程度自分の段取りでやりたい私の性格にはちょうどよいし、母はそれも見越して、私にいろんなことを預けて亡くなったんだなぁと、今回も思い知らされました。

寝ずの番を含め、亡くなった日の夜中ももちろん寝れてませんので、ほぼ2日間ゆっくり寝れず、いつも誰か親族と一緒で、一人でゆっくりする時間はなかったですか、その分、家族や親戚と今まで話したことのないような深い話をしたり、祖父への想い出話をしたり、いくらでも話すことはあり、告別式が終わっても法要ごとに集まり、会話が増え、絆が深まっていくことを日増しに感じてます。

 

亡くなった人を送る気持ちとその人への感謝は、残された者がよりつながりを深め、いつまでも仲良く協力しあい、寄ればみんなで想い出話をする。
それが一番の故人への「ありがとう」になるんだなぁと、お互いいろんな言葉をかけ合う中でまた1つ勉強させていただきました。

大人たちの様々な思いと疲れの中、ひ孫たちが走り回り、でも、火葬場ではまだまだ幼いひ孫たちも泣き、悲しみに包まれながらも、温かい思いに包まれたこの1ヶ月。

どう生きるか、どう死ぬか、これは永遠のテーマだなぁと思います。

 

そして、「やらされてる感」じゃなく、物事を考えられた瞬間に見えてきたことは、段取りは私がしているかもしれませんが、それがスムーズに進むよう、その場にいる全員の人がどれだけ考えて動き、協力してくれてるかです。

これはほんとに仕事にも言えることで。
いや、人生すべてにいえることで、余裕なく心が疲れてるときほど、一度立ち止まり、自分のまわりの環境を見て、まわりに感謝すると自分の心もふわっと軽くなる。

そして疲れもちょっと飛んでいく。

良い循環になる方法、わかっていてもすぐに忘れるので、これからはしんどくなったらまず、あの寝ずの晩のこと、思い出したいと思いました。

写真は、平日は仕事、土日は益々実家の用事に追われてるこの10月に、無理やり時間作ってまで観た映画「イエスタデイ」。

「世界からある日、ビートルズが消えた」という設定(自分以外誰もビートルズを知らない)の、ありえない映画で、私はビートルズ世代じゃないんですが、とにかく、観終わったら、足取りが軽く、心がスキッとして、ビートルズの名曲を口ずさむという気持ちの良い映画でした。

忙しいときこそ、自分のしたいことのために時間を無理につくるのもリフレッシュのため、ほんとに大事なことですね。

 

さてさて、これからどんどん冬に向かい寒くなりますよね、、
一人暮らしの父は、冬にいつもなんだかんだトラブルを起こして、私や弟にヘルプ出しをしてきます。今年はなにが起こるのか。ただ不安ではありますが、それもこの生活で避けられぬこと。

1つ1つ乗り越えて勉強していきたいと思います。

皆様も、冷えぬよう、あったかい生活を送ってくださいませ。

 

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遠隔介護ブログ(第21回)

こんにちは。コーディネーターの渡邉です。
遠隔介護ブログ21回目です。

9月は敬老の日がありました。

幼い頃から、両家の祖父母に絵を描いたり、手紙を書いたり、プレゼントを買ったり、ご飯を食べに行ったり、敬老の日はいろんな思い出を作ってきたはずなのに、いま、4人いた祖父母が2人になって、2人ともが施設や病院にいて、外出届けすら出せないくらいになって、祖父のほうは差し入れも難しくて。となると、あれもしたかった、あそこにも行きたかった、そんな思いがいっぱいで、ここ数年、敬老の日をちょっと切ない思いで迎えています。

そして切ないといえば。。

父は地元の高齢者大学に行き、まだ足腰が元気な頃は、学年代表で弁論大会にも出たり、みんなとの遠足や旅行にも参加して頑張ってましたが、やはり押し車や車椅子が主となり、遠足や旅行にも参加したいと言ったものの、「家族(介護者)同伴でないと難しい」と返答されたんですね。
もちろん、父の遠足のために私や弟が仕事休むことも出来ないので、父には我慢してもらっていたのですが、そこから、父が高齢者大学を休むようになり、もう行きにくくなったんかなと思ってました。大学は送迎もあるので、車がなくなったことが原因ではないですし。

そしたら、「大学で過ごすときのお弁当がないから」という理由で、最近大学に行けてなかったことが判明したんです。

料理はするので、お弁当も以前は作ってましたが、今は、目も悪くなり、お弁当というものを作るのがしんどくなり、車もないので、買い物のガイドヘルパーさんや私と一緒でないと買い物もできず、学校に行く前に、賞味期限を気にしながらパンやお弁当を買うことが出来ない。

ちょっと不憫でした。
そこで、大学に行く3日前に実家に帰れた私は、少し日持ちする、ママカリ寿司を買い、大学に持っていくように言いました。
そしたら、ちゃんと大学に行き1日楽しく過ごしたそうで。

物事には全て理由があり、解決策もだいたいのものにはあるのを感じた出来事です。

写真の姫ひまわりは、実は父が見知らぬ女性からもらったもの。

ある日、ガイドヘルパーさんと、いつものスーパーで買い物をしてると、見知らぬご婦人から声をかけられ、「以前は奥様とお買い物されてましたよね、そして、お父様と来られてたときもありましたよね。」と。
仲睦まじく買い物する様子をそのご婦人は度々見られており、ただ、最近は父が車椅子に乗り、ガイドヘルパーさんと買い物するようになったのを見て、嫁や父がそばにいなくなったことを察してくださったようで、そのあと「お仏壇に供えてください」とこの花をくださったとのこと。

なんて心の優しい方なんでしょうか。
きっと、人のいたみがわかる、深みある人生を生きてこられたかたなんだろうなぁと思いながら、母の好きだった花瓶に入れ、仏壇の部屋に飾らせていただきました。

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そして、今回のブログ、ここまで書いてからもう少し書きたいけど後で。と思っていたら、、
病院に入院していた95歳の祖父が急死いたしました。

ブログの最初に「祖父と祖母、4人中2人生きてる」と書いたばかりですが、もう、母方の祖母一人になりました。

祖父はここ10年、入退院を繰り返し、その度に「危篤です」と病院や施設に呼ばれることもありましたが、会いに行くとピンピンしているということを繰り返していました。
わたしの地元では「ハブ」と呼ぶ、いわゆる毒蛇「まむし」に、数年前、畑仕事中にかまれたときも、これ以上被害者が出ぬようにと、持ってた草刈りカマでまむしを殺し、畑の近くのおうちまで行き、救急車呼んでもらって、自分で毒を吸い出したりしながら、病院についたときにも、ドクターに処置を指示したほどの強靭な心身を持つ祖父でしたので、100歳まで生きてくれるかな、父より祖父のほうが長生きしてくれそうだなとか、思ってたんですが。。

最後はあっけなく、でも、とても穏やかな表情で天に召されました。

しかも、宗派問わず言われる「1年で1番幸せな亡くなる日」とされている9月23日、お彼岸の中入りに。

1週間前に、わたしの従妹と叔母がそれぞれ行くと「今日、何日や」と聞いてきたそうなので、お彼岸の中入りを計算していたのかもしれません。

祖父への想いや、祖父の死、送る立場として学んだことを書くと、このブログがどんどん長くなってしまうので次回にさせていただきます。

そんな忘れられない9月を過ごした渡邉でした。

 

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遠隔介護ブログ(第20回)

こんにちは、コーディネーターの渡邉です。

お盆休み最終日、自宅で読書などしながら台風10号が行き過ぎるのを待ち、外出せずに待機しておりました。
昨年も自然災害が多く、今年もまだまだ台風もこれからが本格的になる時期だと思います。
大きな被害がないことを祈るばかりです。

そんな台風の最中に読んだ書籍「絶唱」はまさに、24年前に起きた阪神大震災がキーワードとなる物語です。

作者の湊かなえさんは、広島の因島出身で、現在は淡路島に住んでおられますが、大学は武庫川女子大学で、震災は西宮市で体験されております。

私も前職で広島県に住み、因島も仕事で度々訪れ、淡路島には親戚がいますので、年に1〜2回は遊びに行き、今は西宮市の武庫川女子大学の近くに住んでいるということで、湊かなえさんには勝手に親近感を覚え、出される本は全て読ませて頂いてます。

もちろん、湊かなえさんの話の構成がホントに大好きで、私の好きな小説家さんベスト3に入るのですが(1位は永久に向田邦子さん、2位が湊かなえさんで、3位が重松清さんです)、この絶唱は、「小説なのかな?湊かなえさんの実体験なのかな?」と、考えさせられる他の湊かなえさんの小説とは少し違うテイストでした。

その中に、阪神大震災のときのことを、「私はそのとき○○にいて〜」と語れるのは、境界線のもっと外側にいた人ばかりという言葉が出てきます。

確かに、今でこそ減りましたが、兵庫県に住んでいると、阪神大震災の話はどこでも話題に出る頃はありました。
私の住んでた地域は、壁もひび割れし、ガラスも割れ、怪我をする人はいたものの、身内や知人に亡くなる人や自宅の全壊などはありませんでした。ただ、本当の被災地、淡路島や神戸市の大きな被害を経験された方が積極的にその話をされることはありません。

境界線の中側、ど真ん中におられると、言葉では語れないしんどさや辛さがおありだったんだと思います。

私自身も、遠隔介護ブログをもう20回書かせていただいてますが、所詮「遠隔介護」であって、自宅で介護をしながら、生活をしているわけではないので、24時間、365日、介護と向き合ってらっしゃる方が、私のこのブログを読まれても、「介護のこと、何もわかってない」と思われると思います。

もし、自分が結婚を決めたときに今の父の状況で、自分が出ていくと父が一人暮らしになる、、という状況なら、結婚して家を離れることが出来たかと考えると、きっと出れていないと思います。かと言って、主人に、うちの実家に一緒に暮らしてもらって、そこから仕事に通ってほしいとはお願いも難しかったでしょうし、きっと結婚を諦めたような気がします。

あの時は末期がんで余命宣告された母に花嫁姿が見せたい、その一心でしたので、今とはまた状況が違います。

そんな事を考えるとこのブログ、これからも書いて大丈夫なんだろうか、、と考えてもしまいますが、このお盆休み、通常なら帰省しない月曜日に実家に帰省し、いつも月曜日に来てくださってる訪問介護のヘルパーさんとお会いできました。

とっても親しみやすく、そして笑顔の素敵な、一目でお人柄が良いとわかる好感のもてる方で、色々お話もお聞きし、お仕事を終えられて父の寝ているベッドまで行き、「また来週きますね〜今日はご家族がこられてていいですね〜」と声をかけてくださると、父は、すかさず手をのばし、ヘルパーさんに手を握ってもらい、「今は楽しいけど帰ったら寂しいから泣くねん」とかわいく訴えてる姿を見て、私が「セクハラやで」と言うと、父も笑ってました。

私がもし嫁に行かずここにいて、父の世話をしながら、仕事も実家から通勤する生活をしていたら、父はこのヘルパーさんにも出会えてないし、今のデイサービスにも行けてないし、お買い物のヘルパーさんとも会えてないし、私自身は今のこのワークステーションにも入社出来てないし、もちろん主人とも生活が出来てない、といういろんな「出会えなかったかもしれないものや人」の存在を思い、今の自分として書けることはこのブログに書いていきたいと、再度思い直すことが出来ました。

もちろんこれから父がもっと体が動かなくなればどうすべきなのか、そこはいつも考えます。
だからこそ、体がまだ動くうちに父にもいろんな人と、いろんな想い出を作ってもらいたいと思います。

娘がつきっきりじゃないからこそ出会える人たち、事柄をめいっぱい楽しんでもらいたいものです。

 

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